そりゃないゼ Dr.
◇ 10.整形外科その3 〜追撃〜 ◇
肩関節周囲炎がまだ完治していない頃。季節は真冬。買い物帰りに大きな荷物を二つ、両手に提げて私は歩いていた。私の居住地は北海道札幌市。言わずとしれた北国である。
真冬。大地は凍り、風は冷たく吹きすさぶ。結果、出来上がるものはと言えば、スケートリンクにも似た歩道。誇張ではない。スケート靴を履いたほうが幾分はまともに歩けるのではと思うこともしばしばだ。
大きな通りではロードヒーティングが採用されていたりするのでさほどの不便はない。だが、住宅街、しかも細い路地になるとそんなものはありゃしねぇ。
ロードヒーティングのかわりにあるのが、でこぼこになって、かつ全体が程良く傾いた氷の斜面。それが道路である。
すると、どうなるか。
転ぶ。
間違いなく転ぶ。これは北国に住んでいる人々以外にはわかりにくいことかもしれないが、北国に住んでいる人間は、道路で転ぶのである。もちろん、毎日ではない。シーズン中に二〜三度が平均であろうか。少なくとも私の近辺にいる人々は皆そうだ。信号が変わりそうな氷の横断歩道をハイヒールで駆け抜けることは出来る。だが、だからと言って、シーズン中一度も転ばないわけではないのだ。
そして、前述の私の姿。荷物両手。危険である。転んだ時に咄嗟に手で支えることが出来ないからだ。
そうして、転んだ。
転びかかった時に、ぐっと足で踏ん張れば、転ばずに済んだかもしれない。だが、それは実は転ぶよりも危険なことである。踏ん張ったがために捻挫をした話もよく耳にする。
なので、潔く転んでみた。だが、両手には荷物。結果的に、勢いよく右膝をつくことに。
そして私は実感した。人間の見栄の力というものを。
……痛かった。素直にその場で叫びたかった。もしくは、声もなくその場にうずくまりたかった。だが、出来なかった。恥ずかしいからである。
私がとった行動は……『すぐさまその場で立ち上がり、「あはん、転んじまったぜ、失敗失敗」とでも言うかのように無言で、膝の雪を手で払い、何事もなかったかのように立ち去る』である。もちろん、声を出してはいけないし、足を引きずってもいけない。
数分後。マンションに辿り着く頃には、実は右膝の感覚そのものがなかった。痛くはない。本当である。ただ、感覚がないのだ。
「意外と大丈夫? いぇい♪」
と、口に出して自分を力づける。そんなはずあるかい。ぎしぎししてるよ、なんか。
ジーンズをめくり上げて膝確認。血も出てないし、色も変わってない。……せめて、赤くなってるほうがまだマシだろう。どっちかってぇと血の気が引いてたんだから。
しばしの逡巡のあと、思案。時刻は夜の八時。しかも土曜日。そして週明けの月曜日は祝日で二連休。
計算結果が出る。火曜日まで病院に行けない。
「……大丈夫さ。膝…曲がるし。ほうら痛くない」
無理矢理に曲げてみると…どうやら曲がる。ので、とりあえず意識しない方向で(逃げ)。
そして…五時間後。夜中。
……痛い。マジで痛い。っていうか、動かせない。転んだ直後は曲げられたのに、今はもう曲がらなくなっている。ぴーんち。
早速、休日当番医を調べることに。日曜日の朝イチで行ってやろうと。が、遠い。タクシーに乗っても遠い。
「……いいや、あと六〇時間もないし。大丈夫大丈夫」
残りを時間数で数えるあたり、危険な方向であることに気が付いてない。
そして翌日。日曜日。起きてびっくり。立てない(笑)。そこに至って、救急病院という手段を考える。
だが、実は救急病院も遠い。こんな時は一人暮らしであることが非常に不便と実感。
とりあえず色々と工夫して、立つことは出来るように。でもまともには歩けない。一分で辿り着くはずのトイレまで、じりじりと歩いて三分以上かかる。
「半日我慢できたんだから、あと二日くらい、どってことないさ♪」
物理的に、冷や汗と脂汗とを流しつつ、開き直って、残り時間をカウントしながら週明けを待つ。
そして待ちに待った週明け。結局は、その時世話になっていたMクリニックに行くことに。
事情を説明した私に、
「ああ〜〜…今年の冬は転ぶ人多くてねぇ。まだ二月だけど、今年に入ってからでも、北白川さんで三人目ですよぉ? そのうち一人は膝の皿割れちゃっててねぇ〜」
……脅しですか。
「ああ〜こりゃ痛そうだ。だって、膝、のびてないもんねぇ。普通は、こうやって診察台に寝ると膝ってのびるんですけどねぇ。これ以上、のびない?」
手を添えてぐっと。
「いたたたたたたっっっっ!!」
「あははぁ〜やっぱり無理だ。僕、そんなに力入れてないですよぉ〜?」
……楽しそうじゃねえか。
レントゲンの結果。脅されたけれども、割れてはいなかったようで。半月板がどうのこうのとか、打撲の衝撃でそれを支える腱がどうのとか。いろいろ説明は聞いたけれども(早い話が忘れた)。
「ただねぇ。痛めてから少し時間経ってるでしょ?」
ええ。だって連休だったから。
「関節に水とか溜まるといけませんからねぇ〜。いえ、水だったらまだいいんですよねぇ。抜けばいいわけですからぁ? ただ、ここまでひどく打ち付けると、時々、血が溜まることがあるんですよ。これはいけません。ですので、何か溜まってるか、もし溜まってるなら血か水か、調べなくちゃいけません〜」
ふーん。そういうもんなのか。
「はぁ。なるほど。で…それを調べるのは……」
「ああ。簡単ですよぉ〜。実際に針を刺してみればわかりますからぁ」
なるほど、そりゃそうだわな。あっはっは。…って、ちょっと待てぃ。
「はい、動かないでくださいねぇ」
診察台に寝ていた私の膝を、有無を言わさず押さえつける医者。関節をキメられていれば、無理に動けるわけもなく。それ以前に、痛くて動けないんだってば。卑怯だぞ! 身動き出来ない怪我人を襲うなんてっ!
そして、注射針は入ってくる。関節の中に。
実は肩関節周囲炎の治療の際も、鍼治療があまり効かずに、結局は関節内に直接薬液を注入するという荒技に出た。その時もかなり痛かった。が、それよりもまだ痛い。ひょっとしたら、使ってる注射針の太さなのかもしれないが、その時はそんなことも考えられなかった。
「いたたたたっっ! 先生っ! ブレイク!ブレイクっ!! ロープ! 降参っ! ちょっと待ってってばっ!」
思わず、診察台を手でばしばしと叩く。
「はい。動いちゃ駄目よぉ〜」
いや、痛いんだってば。ああっ!? 関節の中で何か吸ってるぅっ!?
「い………〜〜〜〜っ…っ」(←声も出なくなっている)
待合室で聞いていた人々は何と思っただろうか。果たしてどんな惨劇が診察室で…と。
ともかくも。私は『声を出さずにいられない痛み』と『声も出ない痛み』の二種類があることを、その日理解した。
結局、膝が完治するまで二ヶ月ほどかかってしまったわけだが……でも、関節の中には何もなかった。ああ…何か損した気分。
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