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  三河市民オペラの冒険




                            加 藤 良 一  2011年8月12日





 オペラのチケットは高いですね。なぜあんなに高くなるのか、実際に観に行ったことのない人でも、舞台装置や登場人物の数を考えただけで何となく理解できるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
 たとえば、今年9/13に東京文化会館大ホールで行われる、ミケーレ・マリオッティ指揮、イタリア・ボローニャ歌劇場管弦楽団・合唱団の歌劇《カルメン》は、S52,000円、A44,000円、B37,000円、C30,000円、D23,000円です。いかがでしょうか。ふつうのコンサートのざっと十倍はしますね。名立たるソリスト陣をはじめ、オケ、合唱団、スタッフが大挙して来日する大掛かりな興業ですから、当然といえば当然なんですが、そうはいえ気安く手が出るような値段ではありません。

 今から8年前、チェコ国立プルゼーニュ歌劇場の《ラ・トラヴィアータ》(椿姫)公演(大宮ソニックシティ・大ホール)を夫婦で観に行きましたが、S席は12,000円でした。まさか、ボローニャ歌劇場と比べることなどできないでしょうが、ずいぶん安いですね。それにしてもけっこうな値段であることには変わりありません。プルゼーニュ歌劇場の《ラ・トラヴィアータ》が安いのにはそれなりの理由があります。細かなことは別のところの決算書La Traviataをご覧ください。安さの理由は、ネームバリューや実力だからといってしまえばそれでおしまいですが、加えて舞台装置がかなり簡素というか質素というか良くいえばシンプル、悪くいえば安普請だったからにちがいありません。3幕4場構成でしたが、基本的な大道具は同じものを使いまわす超経済的舞台でした。演出も近代的な装いとなっていて、豪華なドレスを着るようなことはせず衣装代にも金をかけていないのが明白でした。
 オペラはとにかく金がかかります。日本にオペラが本当の意味でまだ根付いていないことは、文化的なちがいもあるでしょうがこの経済的側面も見逃せないと思います。前置きが長くなりました。オペラがいかにお金と人手がかかり、安易には取り組めないものかがわかったところで、ここからが本題です。


 このホームページの<津田西山 書の世界>と題するコーナーで、書や漢詩をご披露してくれている津田西山こと津田哲行さんから、『三河市民オペラの冒険 カルメンはブラーヴォの嵐』という本が届きました。地方の市民オペラのお話ですね、という感じでとりあえずページをめくりはじめました。しかし、読み進むうちに、制作委員会の関係者は町の経済人が中心で、取り組む以上ビジネスとして成り立たせないわけにはいかない、成り立たなければあとが続かない、「絶対赤字にしない」「赤字ははじだ」という決意とともに苦難の道に挑戦する姿が浮き彫りにされていくのです。

 そもそも三河市民オペラは、2005年に豊橋市民オペラとして発足し、2006年豊橋市制100周年記念事業としてモーツアルト《魔笛》を上演しました。2008年には、活動範囲を広げる形で三河市民オペラと名称が変わりました。そして、20095月にはビゼー《カルメン》を公演し「観客の感動だけでなく、参画した人間全ての心を動かし、歓びを分かち合い、幸せになれるような舞台と運営を目指す」(三河市民オペラホームページより)との熱い思いを叶えています。その舞台裏では経済人の意地とでもいうべき「絶対赤字にしない」ために、7回のオペラセミナー開催、地方紙への14回にわたるリレーエッセイの掲載、プレイベント「カルメンうらのうら」の開催などさまざまな仕掛けを通じて、市民への浸透を図り、機運を盛り上げていったのです。
 この本は、三河市民オペラ制作委員会の編著で、内容構成は市民オペラ公演までの過程を時系列でつづる形をとっていますが、関係者のコメントを途中に盛り込んでオペラ作りの全体像がいろいろな角度からくっきりと見えてくるようなな工夫がされています。内容はかなりの量があるのですべてに触れることはできませんので、目次から大まかに把握していただきたいと思います。


〔目次〕
1章 このままでは終われない
  蒲郡市民オペラ「カルメン」/のんきなものだった/本が上がらない、稽古ができない/幕が下りて
2章 ふたたびの挑戦
  オペラフォーラムの衝撃/中山欽吾氏・石田麻子氏の話/本物でないと人の心は動かせない/12項目の制作方針/「カルメン」でいこう
3章 出逢う人々、それぞれのカルメン
  演出家・恵川智美氏との出会い/三河のレベルに甘んじない/指揮者・倉知竜也氏への信頼/合唱指揮者・近藤惠子氏との出会い/公開オーディション
4章 公演前の熱気をつくる
  オペラセミナー/バス歌手はいつも脇役/オペラは一期一会/世界一の合唱指揮/プレイベント「カルメンうらのうら」
5章 絶対に赤字にしない
  予算の考え方/助成金への取り組み/協賛広告/出演者の「チケットノルマ」はない/チケットの完売は至上命令
6章 開演前夜
  プログラムを作る/アクシデント/一歩足を踏み入れたらそこは/こんなこと考えてもいなかった
7章 市民オペラは生まれたのか
  チケット販売の結果/公演の決算/写真展と合唱団員懇談会/アンケートお願いしま〜す
8章 次なる高み
  佐川吉男音楽賞・奨励賞を受ける/三たびの受賞/次へのビジョン/「トゥーランドット」という高峰


 スタートから本番に至るまでの音楽作りと運営の両面について、多くの興味深い話が書かれています。われわれも規模こそちがえ、コンサートの採算性や集客にはいつも悩まされているので、人ごととは思えません。かいつまんでいくつか紹介します。まずは相当な神経と労力を注ぎ込んだ採算性について、チケット販売結果と決算内容を見てみましょう。

 会場となったアイプラザ豊橋・大ホール(愛知県)は1,420席。これをSSSAB、学生席の5つに分け、最高のSS席を1万円と設定しました。豊橋で1万のチケットなど売れないのではないかとの懐疑的な見方や心配はとうぜんありました。当初予算は1,500万円でしたが、それでは大した舞台が作れないからと2倍の3,000万円に増額し、その代わりに2日公演で2,800席を確保することを前提に売り切る決意を固めたのです。制作委員会13名のうち9名は経営者でした。
 入場料収入以外にあてにしなければならないのが助成金や協賛広告ですが、期待していた日本芸術文化振興会からの助成金──獲らぬ狸の皮130万円は審査を通らず消えてなくなり、その分を広告でカバーすることになってしまいました。そこからが彼らの本領発揮、広告はなんと232件で680万円も集めました。

 ふつうは当たり前となっている出演者への「チケットノルマ」は課さないことが、このオペラの特長でもありますが、そのためには並大抵ではない売り込みが欠かせないことは明らかです。チケットぴあは手数料がかかるのでなるべく使わず、担当者の努力で売り切りました。販売ルート別の比率はつぎのとおりでした。

チケット販売ルート別比率

制作委員会

36

豊橋ゴールデンロータリークラブ

11

ソリスト

8

合唱団

7

チケットぴあ

7

その他販売所

26

高校生招待

5


 
 制作委員会が4割弱を売っているのをみても、やはり担当者としていやが上にも責任を果たさねばという思いが目に見えるようです。出演者はソリスト、合唱団合せて15%で、ノルマがないことを考慮するとまあまあ売ったことになるでしょうか。しかし、出演者に期待するのは基本的に無理がありそうです。

収入の内訳を下に示しました。

収入内訳比率

チケット販売(関連企画含む)

45.7

助成金

26.1

協賛広告

19.5

DVD売上

3.2

合唱団参加費

3.1

繰越金他

2.4

100


 
助成金のうち豊橋ゴールデンロータリークラブからの500万円(55%)はとても大きいものです。クラブ創立20周年にちなんだ助成のようですが、この後ろ盾があるかないかではおおちがいでしょう。ロータリークラブは人的にも資金的にも大いに寄与しています。

 オペラの中心はソリストとそれを囲む合唱団です。とくにカルメン》では合唱の占めるウエイトが大きいようです。ソリストはオーディションで実力のある声楽家を選べばよいでしょうが、すくなくも合唱団は「市民」でなければ市民オペラとはいえないので、けっこうたいへんなのではないでしょうか。自由に参加してもらえば、ピンからキリまで集まることは明白です。それでも料金を払って聴いてもらえるところまで高めねばならないのですから心配は尽きないはずです。
 ところがここにも、ロータリークラブの存在と並んで大きなアドヴァンテージがありました。愛知県立岡崎高校コーラス部と岡崎混声合唱団を率いる近藤惠子さんがいたのです。岡崎高校といえば、1999NHK全国学校音楽コンクール及び全日本合唱コンクールの両コンクールで第2位、混声では第1位になるという快挙を果たしています。その後、5大会連続で本選から出場するなど、唯一の5大会連続金賞団体なのです。これを見逃すわけにはいきません。とうぜん、自身オペラ歌手でもある近藤惠子さんに白羽の矢を立て、合唱指揮を頼み込みました。近藤惠子さんは、「演ずる者と聴衆が共に感動できるオペラがつくりたい! というひたすらな思いと、そのための努力は惜しまないという、熱い決意を感じて合唱指揮を引き受けた」と語っています
 カルメン》の合唱部分は決してやさしくない、合唱団の質と量双方を確保しなければならない、ではどうするか。そこで出された募集要項には次のように出席率について厳しい条件がついていました。


募集人員:男声40名、女声100名、児童40名、参加費:大人10,000円、児童5,000
1.音楽的に、ある程度音程が取れること
2.参加費、衣装についての項目に賛同し納入できること
3.音楽稽古・立ち稽古それぞれの関係する稽古日程の80%以上出席を実現できること
4.必須日程の出席を必ず確保できること


 高い歌唱力を確保するためには「きちんと音程が取れること」としたいところでしたが、それでは最初から人が来ないのではと危惧し、「ある程度音程が取れること」と微妙な表現におさまったようです。歌唱力はあとから鍛えてなんとかしようという算段だったのでしょうか。出席率については、かなり厳しい条件がついていたので、それでは無理だと諦めた人も多かったそうです。たしかに練習回数が少なくても実力のある人なら歌えることはあります。しかし、ここは一律80%で線引きして差をつけませんでした。これは相当高いハードルです。私が以前所属していた埼玉第九合唱団(埼玉で最大規模)の必要出席率は、定期練習の60%以上というものです。50%以下はオンステ不可、5060%は特別レッスンなどを考慮して決めるとなっていますから、それと比べて一時的なものであればこそ高い出席率を求めざるをえなかったのだと思います。また、近藤惠子さんの指導なら歌いたいという志望者も多かったといいますので、出演条件が厳しいにもかかわらず良い合唱人が集まったのではないでしょうか。

 200810月、翌年5月の本番に向けて合唱練習がスタートしました。最初はパート練習から入り、すこしずつ全体の合せに進んでいきましたが、年が明けた1月下旬に立ち(演技)が入りはじめた頃から合唱に破綻が出てしまったようです。歌だけに集中して歌っているのと、演技まで考えて歌わなければならないのとでは大きなちがいがあります。あらためて合唱を練習し直すなど、行きつ戻りつしながら、それでも着実に一歩ずつ仕上げていきました。ここでも、近藤惠子さんの手兵である岡崎混声合唱団を核にして合唱作りが達成されたのだろうということが感じ取れます。

 いっぽう、プログラムに対しても徹底的な検討がされました。コンセプトは、プログラムをあくまで「情報源」として位置づけるということでした。ですから、見栄えのよい豪華なものではなく、ステージの理解につながるものにしたいという願いから出てきた結果が「雑誌のようなプログラム」となりました。あたかも週刊誌のようなスタイルで、生き生きと読みやすく、写真もふんだんに使った読み物としてのプログラムです。そして、徹底の凄さは、いわゆる形ばかりの「ご挨拶」を省くところまでいきました。聴衆にとってそんなことはどうでもよいことで、無駄ですから。
 A428ページ、表紙は4色カラー、本文は一色刷りで、重さ100グラムという極めて思い切ったものとなりました。これなら、単なるコンサートの記念品としてだけでなく、のちのちも読んでもらえて、内容も豊富という素晴らしいものになったと思います。大いに参考にしたい発想です。


 そして、ついに本番を迎えます。ドン・ホセを務めた二塚直紀さんのコメントを読むとステージの素晴らしさが伝わってきます。
 「幸せな時間をオペラに関わった人皆で共有することができた。」 「あれほど熱いエネルギーを感じて、この舞台に立てて幸せだ、と思った舞台はなかなかない。本当にこの舞台に立ててよかった。」 「特筆すべき点をあげると、合唱団が素晴らしかった。しかも、これがすべて素人さんだから驚きだ。はっきり言って音大生の寄せ集めよりうまい。」 「オペラは合唱がよいと舞台の質が上がるので、そういう意味で合唱の方たちが、舞台を盛り上げてくれたと思う。」
 リップサービス半分にしても、合唱の出来がかなり良かったことがうかがえます。ここまで言ってもらえれば、歌い手としてこれ以上ない喜びです。おそらく辛かった練習のことなど吹っ飛んでしまったことでしょう。


 公演後、熱狂がさめやらぬ中で、つぎなる重要課題は掛った費用の決済です。3,000万円もの経費の経理をきちんとせずには終わりません。制作委員会は経済人の集まりですから、監査法人のチェックも受け、繰越金まで残して収支決算をしたのです。恐れ入りました。これ以上の驚きはありません。


  

 ところが話はこれで終わらず、まだ続きがあるのです。ようやく市民オペラをやり終えたあと、いろいろなところで話題として取り上げられ、苦労してやってきたことの確かさを実感しつつあるところへ、平成21年度「佐川吉男音楽賞・奨励賞」授与の話が届いたのです。この賞は、音楽評論家であり音楽ジャーナリストであった故佐川吉男氏に因んで、平成15年に創設されたもので、「中小オペラ団体が主催する公演で、特に優れた成果を挙げたもの」に授与されるものです。
 さらに、東愛知新聞社から「特別社会賞」が、続いて愛知県県民生活部から「愛知県芸術文化選奨・新人賞」が授けられ、思いもよらぬトリプル受賞となりました。

 これで終わってしまったのでは、市民オペラとして定着するはずがありません。もちろん次なる目標が設定されました。それはなんとプッチーニの《トゥーランドット》なのです。指揮者や演出家から難色を示されたにもかかわらず、あえて《トゥーランドット》という高く大きな峰を目指すことにしてしまいました。たぶん、これまでの成功体験をもとにビジネスモデルとしてそれなりの成算があるにちがいありませんが、さらなる高みに挑戦する気概には脱帽せざるを得ません。



(三河オペラ・ホームページ http://www.mikawa-opera.jp/