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4 分 間 の 第 九


2005年12月29日  加 藤 良 一





 12月29日はチェリストパブロ・カザルスの誕生日である。カザルスは、1876年、スペインのカタロニア地方に生まれ、11歳でチェロを始め、バルセロナ市立音楽学校に学んでいる。当時、弓を持つ右手をチェロの胴体にくっつけて弾くのがふつうだったそうだが、カザルスはそれでは右手が自由に使えないと考え、肘を胴体から放して柔らかく使う奏法を編み出した。そんなところから「弓の王」とも呼ばれている。
 1936年、カザルス60歳のとき、スペインではナチスドイツ主導の政治的なベルリン・オリンピックに対抗して、民衆の手によるオリンピックを計画していた。それに平行して行われる「平和の祝典」でカザルスたちは、ベートーヴェンの『第九』を演奏する予定となっていた。

 『4分間の第九交響曲〜カザルスの果たされた夢』(石井清司著)というドキュメンタリー本にカザルスと『第九』との数奇な運命が紹介されている。その本からすこしだけ紹介しよう。

 開会式前日、カザルスとオーケストラそれと合唱団が、最終リハーサルのためにカタルーニア音楽堂に集まっていた。夜に入って『第九』の第四楽章「歓喜の歌」の練習が始まろうとしたとき、カタルーニア自治州政府の密使が突然駆けつけ、「民衆のオリンピック」と「平和の祝典」すべてを中止すると告げた。なんとフランコ将軍によるクーデターが勃発してしまったのだ。当時のスペインは、それまでの長かった王制からようやく民主的な共和制に移行したばかりであったが、フランコ将軍が陸軍を率いて反乱を起こし共和国転覆を謀(はか)ったのである。
 カザルスはやむなくリハーサルを中止したが、最後に「もう二度とこの地に平和は訪れないかも知れない。しかし、その日の来ることを願って、今やろうとしていた第四楽章をここで全部演奏しきろう。われわれはもう二度と会えないかも知れないから」とみなに向かって言った。そして、「歓喜の歌」が音楽堂に響いた。
 カザルスはフランコの独裁政権に反対し、難を逃れて国境に近い南フランスのプラドに亡命した。その後、第二次世界大戦が終わった1945年に演奏活動を一時再開したが、各国政府のフランコ政権容認の姿勢に失望し、コンサートの休止を宣言するなど、終生フランコ政権への抗議と反ファシズムの立場を貫いた

 1971年、カザルスは国連平和デーの記念音楽会で『鳥の歌』を演奏し、その様子が全世界にテレビ中継された。「私の生まれ故郷カタロニアの小鳥たちはピース、ピースと鳴きます」とは、あまりにも有名なそのときのカザルスのスピーチである。
 スペインで真に平和なオリンピックが開かれるときが来たなら、あのとき中止させられた「歓喜の歌」をどうしても演奏したいと言い続けながら、ついに果たせず1973年、心臓発作によりプエルトリコで亡くなった。享年96歳だった。
 
 
スペイン内戦勃発から56年目の1992年夏、スペインで初めてのオリンピックがバルセロナで開催され、その開会式で、ベートーヴェンの「歓喜の歌」が演奏された。わずか4分間に編曲された演奏だったが、それは、平和を希求した反骨の音楽家カザルスの夢が実現された4分間であった。

 さて、「歓喜の歌」もさることながら、カザルスの最大の功績は、何と言ってもバッハの『無伴奏チェロ組曲』を世に広めたことではないかと個人的には信じている。単なる練習曲と見られていた『無伴奏チェロ組曲の価値を再発見し、それを名曲の地位にまで引き上げた。いまや世界中のチェリストが生涯の仕事と思って取り組むほどの大曲である。仮にこの曲がなかったとしたら、私はチェロが果たしていかほどに好きになったであろうか。
 『無伴奏チェロ組曲』の楽譜はカザルスが13歳のとき、バルセロナのある楽器店で発見したという。本人も最初は練習曲のつもりで買い求めたのだろうが、弾きこんでゆくにつれ、たいへんな曲であることに気づいたにちがいない。この出来事がなければ不朽の名作は歴史の中に埋もれたままになっていたことだろう。無伴奏チェロ組曲については「ピエール・フルニエのこと」(M 5)にも書いてあるので、ご覧いただきたい。







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