ジャズが流れている。これで何曲目か、先ほどまで、英語の飛び交う緊張した会議の中にいて、今、やっとそれも終わって、テンションを下げたところ。ソファーにもたれ、一人、ビールを片手に流れるジャズを聴く。こういう雰囲気は嫌いではない。なんという曲名かは知らないが、女性シンガーが歌っている。聞き覚えのある曲が流れているので、いっそう楽しい。人の歩く足音、ざわざわした話し声、英語の会話、食器が重ねられる音、サックスホーンの音色。ジャズのリズム、全部、受けいれられる。ビールのせいというよりも、ここがアメリカ・シンシナチ（オハイオ州）で、最も古いというHiltonホテルでの雰囲気からかもしれない。
高い天井、天井から斜め横の壁にかけて、直接、壁に描かれた大きな絵が５枚ほど見える。モーツアルトのような髪型の若者が中心で、一人で、または数人の若い女性と共に描かれている。何かの物語を描いているのであろうか。絵の下は、今も使えるかどうかは分からないが、二階席になっていて、まるで本場のオペラハウスのような雰囲気である。その中央には、バー・カウンターがあって、カラフルな洋酒がたくさん並べられている。バー・カウンターには屋根がついていて、そこには大小さまざまなワイングラスやカクテルグラスがぶら下がっている。その下で若いバーテンダーが二人、無愛想な表情で客の注文を受けている。数人の客が足の長い椅子にかけている。カウンターの外側は４人掛けのソファーが、ジャズの流れる広い空間にゆったりと置かれている。
ホテルの部屋は、午前中にチェックアウトした。シカゴに向かう飛行機の出発時間まで、まだ３時間ほどここで待たなくてはならない。退屈しのぎに、鞄からパソコンを取り出した。何かまとまったことを書こうとしているわけではない。雰囲気にまかせて、思いつくままに。
● ウサマ・ビンラディンのこと
こちらの時間で、５月２日の夜半から、CNNテレビはウサマ・ビンラディンのことばかり繰り返して流している。それ以前は、英国のプリンス・ウイリアム王子の結婚式の報道一色であったが・・・。英語の放送なので、日本語で理解するようには理解できていないが、パキスタンの国境付近にいたウサマ・ビンラディンをアメリカの特殊部隊が急襲して、銃撃戦の末、殺害したということである。テレビでは、ベッドの側の血のあとまで報道していた。
アメリカ人の多くが、喜びや興奮を隠すことなく、嬉々としてテレビのインタビューに答えている。本人確認をDNA鑑定で行ったそうだが、疑問に思うのは、DNA鑑定をするためには、予め本人のDNAが分かっていなければならない。どうやって、逃げ回っていた、行方の分からなかったビンラディンの生前のDNAを手に入れたのだろうか。この数年間の行動をみていると、米国がビンラディンの本人確認をするためのDNAを事前に準備していたとは思えないのだが。
● アメリカのやることはなんでも正しいのか
アメリカのやることは日本の新聞も、テレビも、ほとんど批判することはない。しかしアメリカのやることが、すべて正しいとは思えない。テロとの戦いで、テロが悪で、テロリストをやっつけることは善だと言うが、テロは力のないものが、力の強いものに立ち向かう１つの手段で、強い立場からいえばテロであり、弱い立場からいえばやむにやまれぬ行動、窮鼠猫を噛むたぐいの、対抗手段であることも少なくない。
ビンラディンは殺されたのである。罪を犯したのは間違いない事実だが、今回のアメリカの行動は問答無用の殺人であって、法廷による公平な裁きではない。カウボーイが「Wanted」（ウオンテッド）と壁に貼られたビラを見て、その男の首に掛けられた賞金を求めて犯人を追いつめ、問答無用で撃ち殺す、西部劇のスタイルと同じである。テレビに映る国民の歓喜、アナウンサーや解説者の興奮を見る時、カウボーイの時代も今の時代も、アメリカ人の考え方に、基本的な違いはないように思えてしまう。
● 報復
2001年の貿易センタービルの航空機による襲撃が、なぜ行われたのか、もちろん間違った行為であることは承知しているが、その背景について、報道は日米ともにほとんどなされていないように思う。なぜならアメリカが善で、それを襲うのは問答無用の悪だからである。広島や長崎に原爆を落とすことも、戦争を始めた日本が悪であり、それを止めた原爆は、どれだけの数の人間を殺害しようとも善である。そうかなと、何となく疑問に思いながらも、特に声を荒立てることもなく、黙ってしまうのが日本人である。中国人は、恐らく日本人のように黙ってしまうことはないであろう。尖閣列島の漁船問題でも、日本政府を黙らしてしまうのが中国で、麻薬を持っていたとして捕えた日本人を、強制送還もなしに、即、死刑にするのが中国である。その時も日本政府は静かに成り行きを見守っていた。今回のビンラディン殺害も、問答無用に「Wanted」を追いつめて撃ち殺すアメリカの行為を、日本人は、そんなものかと納得してしまうように思う。しかし、ビンラディンが10年にわたってアメリカの追及を逃れてきたのは、その財力とともに、多くの民衆がビンラディンを支持して、隠してきた事実も無視することはできない。
アメリカのテレビは、CNNを始め、私が見た限りのテレビ報道では、中東、あるいはイスラム圏の国民の反応は全く放映していない。パキスタンの首脳（親米の元大統領）がコメンテーターとして、テレビに出演していたのを見た程度である。アメリカでは放映されていなくても、中東が黙っていないことぐらい私にも分かる。ビンラディンの支持者にとっては、彼らが善で、アメリカが悪である。ビンラディン一人の殺害で、火が消えたようにアメリカに対するテロが終わるであろうか。そんなにうまくはゆかないであろう。ビンラディンのような大物は、二度と出ないかも知れないが、無数の小さなビンラディンを作ってゆく今回のようなアメリカのやり方では、まだまだ、いまアメリカ国民が歓喜しているようなテロの終焉はないと思う。
じゃあ、どうすればよいかって？ 酒も入っているし、ジャズの流れる楽しいひとときでもあるから、真剣な議論はできない。ただ、対立をしないためには、先ほど書いた日本人の性格や、日本政府の対応も悪くはないのかなと思っている。弱腰外交と見るか、平和外交と見るか。ケースバイケースで、一言で論じられるものではないが・・・。
● 会話のセンス
英語もゴルフも、誰にでも始められるが、上手になるためにはセンスを必要とするようである。私など、どちらもちっとも上手くならない。今日もまた、英語でいっぱい恥をかいた。長年教師をやっているので、人前で話をするのは得意だと思われがちだが、瞬時には、まとまった考えやコメントが思い浮かばない。不自由のない日本語で思い浮かばないのだから、不得意な英語で話のできるはずがない。17、8歳の石川遼君が、プロ宣言をしたころ、ラウンドの後のテレビインタビューで、われわれ視聴者をうならせるような的確で気持ちの良いコメントをしているのを見て、何と素晴らしい若者かと感心したものである。私にはあのようなコメントを述べるセンスはない。ゴルフのセンスはもっとないのだが・・・。
● 英語とゴルフの共通点
ゴルフは50代の半ばになって、健康管理をするために、体を動かすつもりで始めた。上手になることが目的ではないものの、自分自身に負けるのが嫌いな性格も手伝って、いまだに、10年以上も、練習場（打ちっぱなし）には通っている。週、１回か２回、土日の時間を利用して練習をしている。自分では、かなりうまくなったと思って、ラウンド（ゴルフ場でのプレイ）に臨むことがある。自分では上手いつもりでいるのだが、目の前に池があれば池に、前方にバンカーがあればバンカーに、右手に林があれば、なぜか必ず林に打ち込む。地面を耕すことも多い。それらの結果として、なかなか良いスコアで上がることができない。英語も同じである。自分ではかなりしゃべるつもりで会議に臨むのだが、人前で演説しようとしても、頭の中は真っ白、顔は真っ赤。何も言葉が出てこない。今日も相手が何を言っているか聴き取れなくて、後はメロメロ。ゴルフも英語も自分で思っている実力が、本番で出せないところが似ている。
● エピローグ
シカゴ経由で成田に帰り、大宮までリムジンバスに乗った。私は運転手のすぐ後ろの席に座ったが、その後ろに、アメリカ人親子が座って、成田から大宮までの１時間40分ほどを、ずうーっと、しゃべりっぱなしであった。三歳くらいか（？）、まだ幼いしゃべり方の残る男の子と、若いアメリカ人の父親。それでもネイチブの会話なので、半分眠りながらも、英語の耳触りはとても良かった。発音やリズムがとても良いのである。
１時間ほど、うとうとしていたが、ハッと気づいて目を覚ました。その子がお母さんと日本語で話している。完璧な日本語である。このとき初めてお母さんが日本人だと知った。お父さんには英語であまえ、お母さんには日本語でよどみなく話し続ける。この子の頭の中には、英語とか日本語とかの区別はまったく存在していない。１つの言語なのだろう。使い分けていることすら意識にないのではないか。きっとこの子のお母さんがそのように育てているのだろうが、発音、リズム、どちらもネイチブ。完璧なバイリンガルである。どんなお母さんがこの子を育てているのか、賢くて、美しい声のお母さんを、ひと目、見てみたかったが、振りむいて顔をみるわけにもゆかず。大宮で先に降りた。こんな子が育っているのだから、“This is a pen.”から、初めて英語を教わった我々の世代ではどうしようもない。
（2011.5.11）
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