E-77





 12階のホテルの窓から高速道路が見える。右手斜めのはるか向こうから、切れ目なく自動車のヘッドライトがこちらに向かって流れて来る。時刻は、まだ午後3時。昼間なのに空がどんより曇っているせいか、あるいは初冬のミュンヘン(日本よりも高緯度)で、もうこの時間に日暮れになるのか、辺りはすでにうす暗い。ほぼすべての車がヘッドライトをつけて走っている。高速道路の両側には、すでに葉を落とした木立が、赤茶けた林となって遠くまで広がっている。その向こうには、たくさんの住宅の屋根が見える。屋根の向こうには、背の高いビルが灰色の空に溶け込むように霞んでいる。ダウンタウン(ミュンヘンの中心地)なのだろう。都会らしい街の明かりは見えないけれど。

 昨日の昼過ぎ、成田を発ってフランクフルト経由で、夜遅く、このホテル(Westin Hotel)に着いた。ひと眠りして、今日(20101121日(日))の午前中には、早速、一つ重要な会議を済ませてきた。明日からはまた、このホテルで別の会(8th Euro Fed Lipid Congress)が予定されており、それまでの午後のひと時、ちょっと暇な時間を見つけることが出来た。先ほど、ホテルの周辺を歩いてみたが、寒くて・・・。日本を発つときに着て来たコートでは、とても寒くて、長くは歩けなかった。早々に引き揚げて、この暖かい部屋で、玩具がわりのパソコンに向かっている。

 ドイツに来るのは、これで3度目。最初はフンボルト大学への留学で、まだベルリンの壁があって、東西ドイツに分かれている頃であった。3カ月ほど、東ベルリンの中心地にアパートを借りて滞在した。2度目は2001年9月、あのニューヨークの貿易センタービルがテロで崩壊した日の直後だった。世界の航空網が大混乱に陥っているなか、旅行者はまばらで、閑散とした成田空港を発って、フランクフルト経由でベルリンに入った。
 その頃のベルリンは、すでに統一されており西も東もなかったが、西から東に歩いてブランデンブルク門をくぐってみた。東西ベルリンがこんなに近かったのかと改めて感じたことを思い出す。その時も油脂の国際会議があってベルリンに来たのだが、さすがにアメリカからの参加者はなく(アメリカの飛行機は全てテロの混乱で飛ばなかった)、空前絶後の寂しい国際会議であった。
 その同じ9月、ベルリンマラソンで高橋尚子さんが当時の世界最高記録(2時間19分46秒)を樹立したが、その高橋さんが同マラソンに出場するためベルリン空港に降り立ったとき、筆者はたまたま帰国するためにベルリン空港にいた。目の前で、オリンピックの金メダルリストである高橋さんが、地元ドイツのテレビカメラや、大勢の新聞記者に囲まれてインタビューを受けはじめた。高橋さんが取材を受けている間、その人の輪から少し離れて、小出監督とコーチらが手持無沙汰に立っていた。ちょっと話しかけて、小出監督と写真をご一緒させてもらった。日本ではそんな場面に出会っても、多分、話しかけることはないと思うが、お互いに、遠い異国の空の下、日本人同士という仲間意識か、旅の解放感からか、ちょっとした楽しい思い出の一コマである。



 最近、油脂や油脂食品に関わる健康問題がいろいろと話題になっている。この国際会議でも、いろいろなテーマで取り上げられているが、わが国で言えば、例えば、加工油脂に含まれるトランス脂肪酸の問題がある。日本の消費者庁は、現在、そのトランス脂肪酸を含む食品について、どのくらいのトランス脂肪酸を含むか、全ての油脂食品について表示するように法的な規制をかけようとしている(パブリックコメントとして調査中)。
 アメリカでは2006年から、食品のトランス脂肪酸の表示義務が課せられており、韓国や一部の東南アジア諸国でも、すでに表示は行なわれている。このような国際的な流れを受けて、わが国でも消費者庁を中心にその検討がされている。業界はむろん、こぞってそれに反対しているが、反対の理由は、『日本の国内で販売している油脂食品は、もともと諸外国に比べてトランス脂肪酸の含まれる量が少なく、通常の食生活で健康障害を起こす恐れはほとんどない。だから手間暇かけて表示をする必要はない・・・』というのがその主張である。実際のところはどのように考えれば良いであろうか。筆者の勉強の範囲で、この業界の主張は嘘ではない。数年前に、農水省も食品中のトランス脂肪酸(含有量)を調べ、健康障害はないものとして、表示義務に踏み込むことはしなかった。日本の油脂栄養学の研究者レベルでも、特に偏った食事をしない限り、国民(消費者)にトランス脂肪酸による健康障害はないものと判断している(
3rd JOCS-ILSI Japan Joint Symposium, 2007)。だからと言って、コップ一杯のトランス脂肪酸油脂(100%)を毎日飲み続けてみろと言われたら、それは筆者としても勘弁して欲しいし、皆様にもお勧めできることではない。要は量の問題である。



 今の季節、なべ料理が盛んになって、タラチリから湯豆腐までいろいろな種類の鍋がある。なかでもふぐ(河豚)は外せない。高級料理で高価ではあるが、年に一度は食べてみたい料理である。ふぐ鍋でもふぐ刺しでも、誰もが喜んで食べるであろう。でも、考えてみれば、ふぐは毒を含むたいへん危険な食材であり、料理の手法を間違えば、大人であっても簡単に中毒死する恐れがある。キノコも秋の味覚とはいえ、種類によっては有毒であり、取り扱いを間違えば死に至る。また、死に至らないまでも食中毒などの健康障害を起こす恐れが十分にある。食物はどんな食材であっても、純物質(混ざりけのないもの)ではなく、多くは混合物である。いろいろな栄養成分を含むと同時に、不要な薬物や毒物を含むこともある。微量というレベル、例えばppm(1gの百万分の1)のレベルで探せば、天然の有毒物質だけでなく、重金属、有機溶剤、可塑剤などいろいろな化学物質(不純物質)を食品中に検出することができるであろう。ふぐ料理だって、有毒物質が「0」であるかどうかは疑わしい。健康障害を起こさないレベルでの「0」であることには違いないが、科学的に「0」であるかどうかは分からない。料理人の腕にもよるであろう。日本橋の料亭の一流の板前さんがさばくふぐ料理と、漁師がさばいたふぐ料理で、どちらが安全かといえば、当然、料亭の板前さん(免許を持っている)の方を誰もが選ぶであろう。しかし、なれた漁師の料理ならほとんど危険はない。筆者のような素人の料理なら、他人はもちろん筆者自身も食べないが・・・。食品として我々が食べる場合、ふぐ毒であっても、料理に含まれる毒物の量が科学的に「0」である必要はなく、健康障害を起こさない程度の「安全なレベル」であれば含まれていても良いのである。実際に我々は、長年、気付かないまでもそういうものを食べて生活している。


 食品のハザード(Hazard)とリスク(Risk)について考えてみよう。
 ハザードとは、日本語に訳せば「危険」という意味であるが、例えば自動車にはハザードランプがついている。高速道路で渋滞の最後尾についた場合、ドライバーはハザードランプを点灯して、後続車に危険を知らせることがマナーである。一方、リスクも辞書によれば「危険」と訳すことができる。日本語ではハザードとリスクはいずれも「危険」であり、あまりはっきりと区別をしないので、分かりにくいが、例えば、若葉マークの人(素人)の運転する自動車に乗るよりは、プロのドライバーの車に乗る方が安全であり、事故にあう危険(リスク)は低いというように使うことができる。ふぐ料理で言えば、ふぐ毒は「ハザード」であり、素人のふぐ料理と、日本橋の料亭の板前さんの料理では、素人のほうが食中毒になるリスクは高く、プロの板前さんの料理は限りなくリスクが低いということが出来る。でも、プロの料理人であっても、そのリスクは「0」ではない。何年かに一人や二人は、ふぐ毒に当って命を落とすもの事実である。

 トランス脂肪酸は薬物でも毒物でもなく、それを食べても死ぬことは無いが、我々の体をつくる成分ではないので、食べる必要のないものである。それがなぜ食品に含まれるかというと、例えばマーガリンを作るときに、マーガリンが室温で溶けないようにする必要があり、水素添加という方法で液状の植物油を柔らかいながらも固形にする加工を行う。その工程でごく僅かではあるがトランス脂肪酸が生じるのであって、昔からこの脂肪酸のことは知られており、また研究もされている。これをハザードと呼ぶのは適切でないが、不要なものという意味では、食品中にゼロであることが望ましい。ただ、現実に加工食品の製造過程でハザードをゼロに出来ないのなら、消費者は正しくそのリスクを知って利用する必要がある。それが正しい食品の利用であり、リスクがゼロでなければならないとするなら、食べるものが制限されて、極端に言えば人は生きてゆくことが出来なくなる。脂質栄養に関わる研究者の末席に身を置くものとして、現在の日本の企業が製造する食用油脂に関して、健康障害を起すリスクは限りなくゼロに近いと断言することが出来る。実際に、筆者も食べている。一方で、食品を製造する企業の方々には、食品に含まれる不要なもの(不純物)は、可能な限りゼロとなるように、常に監視と技術革新の努力を怠らず、安全で安心のできる食品を我々に提供して下さいとお願いしたい。


 エピローグ

 久しぶりに、旅先で何もすることがなく時間を持てあますことになった。どうしようかと考えた時、しばらく「なんやかや」へ投稿していないことを思い出した。加藤さんの顔が浮かぶ。パソコンに向かってみる。ここ数年“なんやかや”と、けっこう忙しい日々が続いており、投稿する心の余裕が全くなかった。ミュンヘン郊外のホテルの一室で、気の向くままに駄文を書いてきたが、そろそろ夕食の時間である。ミュンヘンの地ビールを楽しみに、旅の空での筆をおく(実際にはパソコンを閉じる)ことにする。






【著者紹介】
 
島ア弘幸さんは、この<なんやかや>コーナーにたびたび出ていただいています。油脂、脂質、界面活性剤などを研究する日本油化学会の20092010年度の学会長を務めておられます。以前は医科大学に在籍していましたが、2000年に新設された人間総合科学大学(埼玉県)に、その後健康栄養学科が認可された際、教授として招聘されました。現在も脂質の専門家として活躍されています。

 
今回のエッセイは旅先ミュンヘンでひとときの合間を縫って書いてくれました。






          コラムTopへ
       Home Pageへ




初冬のミュンヘンにて

Dec. 11, 2010

島 ア 弘 幸