Novel 番外1

《最終決戦後B》



整然と片付けられた広々とした執務室に、小さな溜息が響く。ザギヴは、手にした分厚い書類を机の上でそろえると、傍らの山に積み上げた。

「・・・少し休もうかしら。」

立ち上がると、執務机の脇に置かれたチェスボードの前に立つ。最近は、政務が多忙なため、ほとんどこの趣味に費やす時間も取れない。チェスボードに向き合うように置かれた二脚の椅子のうち一脚に本格的に座りなおすと、ザギヴはボードを見ながら頭の中で駒を動かす。



ノックの音が聞こえて、顔を上げる。開いた扉から現れたのは、意外な人物だった。

「ベルゼーヴァ閣下。」

「玄武将軍、こんな時間に済まない。・・・いや、明日からは皇帝陛下とお呼びするべきか。」

「・・・二人でしたら、名前で呼んで頂いて構いませんわ。ザギヴ、と。」

「ふむ。」

ベルゼーヴァが、得意の無表情で応じる。その表情からは、ザギヴの提案に対する感想を窺うことはできない。



「この書類を届けに来た。・・・そういえば、帝国のチェス大会も近いのだったな。」

今しがたザギヴが座っていた場所に目をやって、ベルゼーヴァが尋ねる。

「最近は腕がなまっていると思いますけど。一勝負いかがですか?」

「昨年の王者を相手に、か。私では役不足かもしれないな。」

初めてかすかな微笑を浮かべたベルゼーヴァが、チェスボードの前に置かれた一脚に腰を下ろす。ザギヴは、対面の椅子に座った。



「聞いたか。ジルは、レムオン卿とともにこの大陸を後にした。」

ザギヴが、無言で頷く。

「君も寂しくなるだろう。仲が良かったと聞いている。」

かちりと、駒が盤に触れて音を立てる。

「えぇ。」

ザギヴが、顔を上げて微笑んだ。

「彼女は、私を・・・私の中のマゴスから救ってくれました。生命も、人生も、そして全てを。どれだけ感謝しても足りないぐらいです。ですが、閣下もお寂しいのではないのですか。ネメア様も、ジルも旅立たれて。・・・あのお二人に人類の革新の鍵があると確信されていたのでしょう。」

「確かに・・・。」

ベルゼーヴァが、指先を顎に当てて、何かに思いを巡らせる。

「ネメア様、ジル。あの二人が鍵を握ることは間違いない。だが、先の戦乱で、我々はジルとともに竜王を倒した。今や、人類の革新を阻む者はいない。・・・あの二人がこの大陸から去ったということは、おそらく彼らがこの大陸での役目を終えたということだ。」

「我々が、自分自身で道を見つけるしかないということですね。」

「そうだな。玄武将軍、君は人類の革新とはどのようにもたらされるのだと思う?」

ベルゼーヴァが顔を上げて、ザギヴを見つめる。ザギヴは、しばらく思索をめぐらすように目を閉じる。

「妙な言い方かもしれませんが。ジルは、あのような大きな役目を果たしたにも関わらず、極めて普通の女性でした。むしろ、個性の強さで言えば、ディンガル帝国の将軍達の方が勝っているぐらいでした。もちろん、ベルゼーヴァ様、あなたも含めて。」

最後の言葉を口にしながら、ザギヴがくすりと笑う。ベルゼーヴァが、心外だというように片眉を上げてみせる。

「・・・ですが、ジルには不思議な力がおありでした。人と関わり、人を受け入れ、人を・・・人の運命を変えることができる力を。私が彼女に救われたのも、彼女が私の全てを・・・マゴスに蝕まれ、呪われた予言を受けた私のありのままを全て受け入れてくれたからです。」

「なるほど。」

「ですから、私はこんな気がするのです。人と関わり、受け入れていく力こそが、あるいは人類の革新の鍵ではないかと・・・。」

「・・・検討に値する意見だな。」

ボードを見つめるベルゼーヴァからは、ザギヴの言葉を考えているのか、あるいは次の手を考えているのかを窺うことはできない。少しの間を置いて、盤上の駒を滑らかな動きで動かす。

「チェック。」

ザギヴが、クイーンを動かして静かに告げる。盤上に目を走らせたベルゼーヴァが、口元を緩める。

「チェックメイトか。さすがだな。」

ベルゼーヴァが、立ち上がりながら賞賛の言葉を投げる。



「お相手、ありがとうございました。」

ザギヴが、扉へと向かうベルゼーヴァを見送りながら口を開く。

「こちらこそ、充実した時間だった。またお相手頂けるかな、ザギヴ。」

「え、えぇ。」

初めて名前を呼ばれて、ザギヴがかすかに頬に朱を上らせる。



「では、失礼する。」

扉の向こうに、姿を消したベルゼーヴァを見届けると。ザギヴは再び自らの執務机に腰を下ろす。予言のとおり皇帝として即位し、そして、また激務に追われる日々が続くのだろう。



―――だが、何かが変わるのかもしれない。

小さな予感が、彼女の心に芽生えつつあった。





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