Novel 7

《最終決戦後A》



ロストール王宮。かつて何度も訪れたティアナ王女の部屋は、これまでと変わらず明るい光と、澄んだ笑い声に溢れている。だが、目の前で微笑みを浮かべるティアナは、もはや王女ではない。国王セルモノーの死後、正式に女王の座に即位し、今は名実ともにロストールの支配者となっている。

「それは素晴らしいご活躍でしたわね。」

ジルが冒険のあらましを語り終えると、熱心に耳を傾けていたティアナが柔らかく微笑む。

リューガの変、母親の死、女王即位と年若い少女にとってあまりにも過酷な経験と義務は、この少女に大きな変貌と成長を促したようだ。明るい春の日差しのようだった瞳は、どこか憂いを帯びた思慮深い光を称えている。少し痩せて引き締まった口元は、自らの不幸な運命に果敢に立ち向かう母親の表情を思い起こさせた。

「・・・ところでずいぶん長居をしたようだが。時間は大丈夫なのか?」

傍らでレムオンが尋ねる。

「ええ・・・。リベンダムとロセンへの救援金の提案も無事、元老院を通過致しました。ディンガル帝国との軍縮交渉もまとまり、明日最終交渉の予定です。今日は久しぶりに楽しかったですわ。・・・まるで昔に戻ったみたい。」

「立派な女王になったものだ。」

穏やかな賞賛を口にするレムオンに、ティアナが小さく首を振る。

「非力で、未熟です。自分が歯がゆくなります。・・・でも、これが私の務めですから。」

「・・・。」

優しくティアナを見つめるレムオンに、ジルの胸が小さく疼く。

「レムオン様、王宮に戻って頂くことはできませんか?政務を支えて頂く、信頼できる有能な人材がロストールには必要なのです。このたびの戦乱で種族間の差別をなくそうという意識も広がっていますし。・・・母も喜ぶと思うのです。」

どこかで予期していたティアナの言葉に、ジルが無言で手にしていたカップに口を付ける。冷めたお茶が、口の中に苦い味を残す。

「・・・その申し出は、本当にありがたいが。王政に移行しつつあるロストールに、かつての貴族制復活の先鋒だった俺が戻っても、不和の種を播くだけだろう。あの男もいることだしな。普段は役立たずだが、有事にはそれなりに役に立つようだ。・・・それに、俺は・・・。」

何かを口にしかけて黙り込んだレムオンに、ティアナが微笑する。

「多分、そうおっしゃられると思っておりました。ところで、お二人はこれからどうなさるのですか?」

ティアナの言葉に、ジルがレムオンの様子を窺う。セレクトの村を出て、ロストールに着いた後、ギルドからまっすぐと王宮へと向かった。その先のことは話をしていない。

「・・・俺は特に決めていないが。」

「あ、私はちょっと頼まれ事をしていて。」

ティアナの方を見るレムオンの顔に、変化は現れない。

「ヴィアさんと、ヴァイさんから。だから、ええと・・・。」

一緒に冒険に来てほしい。その言葉を口に出すことができない。

「そうか、では明日の軍縮交渉の席には、俺も立ち合わせてもらおう。交渉相手は、あのベルゼーヴァとザギヴなのだろう。」

「まぁ、宜しいのですか?それは心強いですわ。」

「では、そろそろ帰るとするか。」

「あ・・・あの。」

立ち上がるレムオンに、ティアナが言葉をかける。

「宜しければ、少し。ジル様とお話がしたいのです。」

「女同士の話か。恐ろしいな。」

レムオンの口元に、微笑が浮かぶ。

「では、俺は屋敷に帰る。ジル、お前も屋敷に戻るのだぞ。」



扉が閉まったことを確認して、ティアナがジルを見つめる。

「すみません、急に・・・あ、あの。」

言い出しにくそうに口ごもるティアナに、ジルが首を傾げる。

「実はその・・・ゼ、ゼネテス様の事なのです。」

頬を染めるティアナに、ジルがようやく話の意図を理解する。何故か安心して、小さな笑いを漏らすと、ティアナが顔を上げる。

「まぁ、ひどいですわ、お笑いになるなんて。」

「ごめんなさい。面白くて笑ったわけじゃないんです。」

年相応に戻って困惑したような顔をするティアナに、ジルは素直に謝る。

「でも、ちょっと意外だったので。だって・・・。」

かつてこの部屋を訪ねる旅に、婚約者であるゼネテスに不満を漏らしていたティアナを思い出す。

「・・・私も、自分を愚かだと思いますわ。昔はあの方のことを、全然理解していなかったのです。・・・あの方を許婚にした母の気持ちも。」

「・・・。」

ティアナの言葉に、娘を幸せにしたいといったエリスの言葉が蘇る。

「・・・母は、あの方が私を幸せにしてくれると思ったからこそ、あの方を私の婚約者にされたのだと、今は思います。当時の私には、それが理解できませんでした。私は、ただファーロス家を発展させる道具としか見られていないのだと。本当に、愚かだったと思います・・・。」

淡々と告げるティアナに、ジルは目を伏せる。死者を蘇らせることはできない。自らの愚かさを悔やんでも取り返しがつかないこともある。それでも、生きてさえいれば、何かを変えていくこともできるのだ。死の間際で人生を振り返り、悔いの言葉を残していったティアナの父であるロストール王セルモノーや従兄弟であるルブルグ伯タルチュバの姿を思い出す。

「・・・エリス様は、天国でその言葉を聞かれて、喜んでいらっしゃると思います。」

ジルの言葉に、ティアナの目が潤んだ。

「・・・ありがとうございます。ジル様。」

横を向いたティアナが、再びジルの方に向き直るまで、静かに待つ。

「それであの、私、あの方のことを全然存じ上げていないのです。婚約者といっても、もうそれを決めた両親もノヴィン様も亡くなられましたし。」

「えぇ・・・。」

ティアナの言葉に、ジルはゼネテスの記憶を辿る。確かにティアナに好意を寄せている節はある。冒険中もちょくちょく、ロストール復興に取り組むティアナの元を訪れていた。だが、ゼネテスは・・・。

「ティアナ様の事を好いていらっしゃると思いますし、どなたも心に決めた方はいらっしゃらないみたいですけど。」

「ま、まぁ。」

ティアナの顔が明るく輝く。

「でも、何かが・・・心を縛っているみたいですよね。」

「・・・私も、そう思うのです。」

うなだれるティアナを見ながら、ジルが思いつきを口にする。

「そうだ、今度の冒険に、ゼネテスさんも協力してもらったらどうかしら。」

「え?どういうことですか?」

「うまく言えないんですけど。ヴィアさんと、ヴァイさんは心の欠片を探しに行くっておっしゃってたの。その感じ、私にもわかるんです。何か大事なことを忘れているような。記憶の断片はあるのに、それが一枚の絵にならないような、そんな感じなんです。ゼネテスさんも・・・。」

普段は飄々として余裕のあるゼネテスが、ふと過剰なまでに過去を忘れようと固執する態度を見せるときがある。その違和感は、ずっとジルの胸にひっかかっていた。

「・・・この旅で、その失われた記憶が取り戻せれば、もしかしたらきっかけになるかもしれないと思います。」





懐かしい、リューガ家の屋敷。ここで起こった数々の出来事を思い出しながら門をくぐったジルは、その居間で思わぬ人物の姿を見つけてのけぞった。

「ベ、ベルゼーヴァさん!」

「あぁ、君か。久しいな。そういえば、君はノーブル伯だったな。」

ディンガル帝国帝国宰相ベルゼーヴァ・ベルラインが立ち上がってジルに声をかける。相変わらずの美貌と、それにそぐわぬバイアシオン大陸でも例を見ない妙な髪型。結局、冒険中もその髪形の謎に迫ることはついにできなかった。

「ええ、元気でした。それで、何でこんなところに?」

「エスト・リューガ博士と私は、学術的な交流がある。バイアシオン大陸の考古学会は知っているか?」

「いえ。」

「年に一度リベンダムで開催され、研究者達が日頃の研究の成果を報告する。エスト博士と私は、その名誉会員なのだ。」

「そうなんですか・・・。」

そういえば、ディンガル帝国玄武将軍の執務室にはチェスボードがあった。ディンガル帝国のチェス王者タイトルを保有しているという。みなそれぞれ、色々と文化的な趣味を持っているらしい。

「それで、君達は今何をしているのだ?」

尋ねられて、冒険の予定を話し出す。

「・・・失われた記憶、か。」

ベルゼーヴァが、形のよい顎に細い指を当てて考え込む。

「ええ。」

「心当たりがないわけでもない。君は、ゾフォルを知っているだろう。」

「もちろんです。」

かつては銀腕帝ヌアド、魔王バロルの治世下で辣腕をふるった妖術宰相ゾフォルは、このたびの戦乱の影でシスティーナの伝道師として世界を虚無に導くために暗躍した。目の前に立つベルゼーヴァや同じくディンガル帝国将軍ザギヴすらも、この男のために生命を脅かされたことすらある。だが、それでも。

―――我々は、相容れぬ立場にある。いずれは戦うことになろう。

一切の憎悪も殺意もなく、ただ自らの運命を受け入れてジルと対峙する立場になった老人に、悪感情を抱くことはできなかった。

「あの男は、かつてアルキュオネの失われた戦士について研究していた。エンシャントのスラムで見つかったあの男の隠れ家から、その資料が大量に見つかったのだ。」

「アル・・キュオネの。忘れられた剣士・・・ミラク?」

聞き覚えのある名に、ジルが呟く。ベルゼーヴァが小さく片方の眉を上げた。

「そうだ、よく知っているな。」

「・・・誰かに聞いた気がするんだけど、思い出せない・・・。」

ジルが、必死に思い出そうとして片手で頭を抑える。

「それは、確かに虚無の剣に関係しているかもしれないな。全く、無限のソウルとは興味深い存在だ。」

「・・・虚無の剣?」

もう少しで何かが思い出せそうで、思い出せない。そんな違和感がつきまとう。

「・・・妖術宰相ゾフォルは、かつて忘れられた剣士に関する論文を発表した。この世界に存在する七竜のうち、邪竜エルアザル。これを倒したのは、歴史的には賢王アルキュオネだとされている。ゾフォルは、実際にエルアザルを倒したのは、アルキュオネではなく忘れられた剣士ミラクだという新たな説を提唱した。もっとも、この説は魔導アカデミーではほとんど評価を得ることができなかったのだが。忘れられた剣士ミラクは、闇の神器である虚無の剣を抜き、その力を持ってエルアザルを倒したそうだ。だが、虚無の剣の力でその記憶は忘れ去られ、ミラクの名は歴史から消えることになった。」

「・・・もしかしたら。」

不意に頭にひらめいた考えに、ジルが顔を上げる。

「どうしたのだ。」

「・・・私たちが忘れてしまっている人がいるのかもしれない・・・。虚無の剣の力で・・・。」

「確かに、あり得ない話ではないな。君たちは、闇の神器を集めていたのだから。」

「その記憶を取り戻すためには、どうしたらいいのかしら。」

「・・・闇と光はこの世の定めだ。闇の力を覆すのは難しいだろうな。・・・この世の定めから外れた者であればあるいは・・・。いや・・・・・・。」

自らの言葉に、ベルゼーヴァが首を振る。

「ありがとうございます、ベルゼーヴァさん、おかげで糸口が見えてきました。」

「いや、こちらこそ礼を言おう、興味深い話題だった。」



「ジル、屋敷に戻っていたのか・・・。」

居間に入ってきたレムオンが、ジルと話すベルゼーヴァの姿を認めて目を眇める。途端に二人の間で張り詰める空気が、目に見える気がした。

「これは・・・ディンガル帝国ベルゼーヴァ宰相閣下をこのような場所にお迎えできるとは、光栄の至り。」

どうすればこれだけ丁寧な言葉の中に毒を潜ませられるのかというような口調で、レムオンが言葉を投げる。

「こちらこそ、まさかエリエナイ公レムオン卿がロストール王国にお戻りとは存じ上げず、挨拶もせず大変失礼をした。あのような事件の後で、な。」

こちらも最後の言葉にたっぷりと嫌味を含めて応酬する。

「不祥事の責を咎められぬということであれば、ロストール王国も貴国も同じらしい。ディンガル帝国皇帝陛下は、大陸に混乱と流血をもたらした後もその地位に留まっておられる。もっとも、その座を捨て出奔されたという噂も耳に入るが・・・。」

「さすがは噂にお詳しいようだ。噂と権謀術策が宮廷を動かすロストール王国で権力を掌握されていただけのことはおありだ。」

頭上で交わされる辛辣なやりとりに、困惑する。その不穏な空気を破るように、明るい声が響いた。

「ベルゼーヴァさん、いらしていたんですか?あ、ジル、君も来ていたんだ。」

「エスト。」

「リューガ博士。」

レムオンとベルゼーヴァが、入り口に現れた貴族服の少年に、同時に目を向ける。



「・・・では、これで失礼する。」

レムオンが、居間の扉を閉めて姿を消す。

「ジル、君も口の悪い兄を持って大変だな。」

「・・・ええと。」

―――毒舌ぶりは、甲乙つけ難い。

ベルゼーヴァの言葉に心の中で呟きつつ、ジルが曖昧に頷く。

「ジル、元気そうだね。冒険は順調?」

「えぇ、今もベルゼーヴァさんに色々と助言を頂いて。」

「そうなんだ、よかったね。これからも気をつけてね。」

花がほころぶような笑顔を浮かべるエストに、つられて微笑む。おそらく、エストの母も。レムオンが実の子ではないと知りながらも愛情を注ぎ、当主の座につけたという母もこんな邪心のない、心の綺麗な女性だったに違いない。



「じゃぁ、ジル。僕はベルゼーヴァさんと少しお話をするから。」

「ではな、ジル。」

エストの書斎へと向かう二人の後ろ姿を見送って、ジルはレムオンの執務室へと向かった。





「こんばんは。」

声をかけると、レムオンが手にしていた分厚い書類から顔を上げる。

「あぁ。」

「・・・忙しかった?」

「明日の交渉資料に目を通していたのだ。」

レムオンの言葉に、ジルは先程のやり取りを思い出す。優しくて明るいティアナを決して嫌いではない。だが、レムオンがティアナに優しくするたびに、心臓が小さく引っ掻かれるような気持ちになる。

「・・・じゃぁ、私はもう行くね。」

「いつ出発するのだ。」

「明日。猫屋敷に向かって、ヴィアさん、ヴァイさん、ゼネテスさんを呼んで。それからちょっと心当たりのところに行こうと思っているの。」

「そうか。では気を付けるのだぞ。」

「はい。じゃ、お休みなさい。」

どこか素っ気ない態度に傷つきながら、態度には表さずジルは部屋を後にした。





エンシャントから程近い場所にある賢者の森。その森の奥深く、運命に選ばれた者だけが辿り着けるという猫屋敷は、まるで時間が止まったように静かで平穏な空気が流れている。

「そうですか。・・・記憶を探す旅。」

まるで女性のような優しい容貌をした猫屋敷の賢者は、ジルの話を聞きながら熱いお茶をジルの前に置く。

「ありがとうございます。」

それを受け取って、香り高いお茶を一口すすると、ジルは小さく息をついた。

「それで、どこに行こうかは考えていらっしゃるんですね。」

「・・・・・・だけど、本当にそれが正しいことかは、わからないんです。」

「忘れるのは人の常、忘れられぬのは人の業と申しますからね。」

オルファウスの言葉に、ジルが目を伏せる。

「ですけど、正しい事なんて、この世にはないと思いますよ。」

「え?」

オルファウスの言葉に困惑して、顔を上げる。

「この世の全ての物事には両面があります。その全てが、正しくもあり、誤りでもある。ただ、そうした微妙な出来事が違う色の糸のように織りあわされて、歴史という一枚の精緻で美しい織物が出来上がるのではないかと思うのです。ちょっと、妙なことをしゃべってしまいました。」

自分の言葉に、オルファウスがくすりと笑う。

「ですから、あなたは迷いながらでも、自分が選んだ道を歩いてゆけばよいと思います。」

「・・・そうですね、ありがとうございます。」

「いえいえ。そうだ、ジル。」

「はい?」

「今回の冒険から帰ったら、この屋敷に寄ってもらえませんか?あなたのお仲間にお渡ししたいものがあるのです。」

「今は、だめなんですか?」

「ふふ、そういうことです。」

相変わらずの謎めいた言動に、ジルは疑問を抱きながらも頷く。人よりもはるかに長い寿命を持ち、この大陸の歴史を静かに見守ってきた賢者には、自分には及びもつかない深い配慮があるのだろう。

「おや、そろそろお仲間の準備ができたようですよ。行かれますか?」

「はい。」

ジルは、飲みかけたお茶を飲み干すと、元気良く立ち上がった。





「それで、どこに向かおうっていうんだい?」

リベンダムの西に広がる広大な砂漠を、人は竜骨の砂漠と呼ぶ。地平線の先まで無限に広がるその砂漠を歩きながら、ゼネテスが尋ねる。

「ええと、確かこっちです。」

ジルが、見当をつけた方を指差してみせる。

「それにしても、失われた記憶とは、な。俺は思い出せないことがありすぎて、何が神器とやらの影響かわかりゃしないけどな。」

冗談めかして、ゼネテスが笑う。

「・・・記憶を取り戻したいとは思いません?」

「さて、ね。」

頭を掻くゼネテスを見上げながら、自分のしていることは間違っているのかもしれないと自問する。もしも、記憶を取り戻したいと思わないのであれば。彼女が今やっていることは、ただの徒労にすぎない。

「ねぇ、お兄ちゃん、ちょっとだけ休まない?」

先頭を歩いていたヴィアが、ゼネテスとジルを振り返る。

「お兄ちゃん?」

「妹が失礼致しました。ジル様、ゼネテス様。ヴィア、お二人にそんな口の利き方を・・・。」

「だって、一緒に冒険してるんだからいいじゃない。ヴァイはすぐ、そうやっていい子になろうとするんだから。」

「ヴィアこそ、そうやって甘えてみせるのはやめなさいと言っているでしょう。」

「でも、暑いんだもん。冒険では体力配分だって大事でしょう?」

エリス王妃の密偵を務めていた双子の姉妹。雌狐のサファイヤとルビーと呼ばれた、理知的ですらりとした美人姉妹も、そうやってじゃれているときは普通の姉妹となんら変わりはない。可愛らしい様子に、ジルがくすりと笑う。

「・・・それにしてもあいつら、何で、お前さんのことをお兄ちゃんなんて呼んでんだ?」

「え・・・?あぁ、そう、そうですよね。」

ゼネテスの言葉に、一つの欠片がぴたりとはまった気がした。虚無の剣、忘却の力、忘れ去られた剣士・・・。

「もしかしたら・・・。虚無の剣の力で忘れられたのは・・・彼らの本当のお兄さん・・・・・・?」

ゼネテスは、何かを思い出すようにふと視線をさまよわせた。



竜骨の砂漠の最深部に位置する、巨大砂虫の死骸。その胴体は砂漠の地下深く窟状となっており、その胴体は砂漠の地下深くの地下水脈へとつながっている。清浄な地下水を湛えた地下水脈では、外の熱気が信じられないような冷たい空気が肌に触れる。

地下水脈に沿って盛り上がった岩を伝って奥へと進むと、やがて古代遺跡へと行き着く。

「へぇ・・・竜骨の砂漠の奥に、こんな所があったとはね。」

ゼネテスが感心したようにあたりを見渡す。かつての神殿だろうか。柱の並ぶ回廊を進むと、不思議な色に光る球体が浮かぶ神殿の間に突き当たる。

「なんだか、不思議なところ・・・。」

「ええ。」



ジルが、周囲を注意深く見渡す。人の気配はない。やはり、彼は消えたのだろうか。自分の予測は、外れたのかもしれない。



―――ふふふ。よく来てくれたね。



記憶に刻み込まれた少年の声に、無意識に手が剣の柄へと伸びていた。やはり、生きていた。神殿の奥から歩いてくる少年の姿を凝視しながら、自分の予測が間違っていなかったことを知る。いや、あるいは。少年を求める自分の願いが、彼を呼び出したのかもしれない。

「・・・お前さん、あいつに会いに来たのかい?」

ゼネテスが後ろから尋ねるのに、ジルが頷く。無言で寄り添う双子の緊張が、後ろから伝わる。

「久しぶりね、シャリ。」

「そうだね、この間の世界の存亡をかけた戦い以来かな。どうしたの、続きをしにきたの?今度は負けないよ?」

冗談めかした言葉に、ジルが首を振る。

「違うわ。あなたに聞きたいことがあってきたの。虚無の剣で忘れられた記憶について。」

「記憶を取り戻したいんだ。ふふ。どうして僕にそんな事を聞こうと思いついたの?」

「・・・虚無の剣は、闇の力。光と闇はこの世の定めだから、この世の者には覆すことはできない。だけど、この世ならざる者であれば。シャリ、あなたであれば、あるいは・・・。」

「君って、普段は何も考えていないみたいだけど、たまにすごく鋭いよね。ふふ。そんなところが気に入っているんだけどね。だけど、残念ながら君のお願いを聞くことはできないな。だって、消えた者の願いを生ある者の願いが踏みにじることはできないもの。」

「消えた者の願い?では、虚無の剣を抜いた者は、忘れられることを願っていたというの?」

「君って、聞き出すのが上手だね。よくそう言われないかな。」

「・・・何故、その人は消えたいと願っていたの?」

「ふふ、その後ろの子達に、喪失の痛みを与えたくなかったんだってさ。・・・君にもね。」

シャリの言葉に、ヴィアとヴァイが動揺した気配が感じられる。

「・・・それでは、その人の願いは叶えられてはいないわ。」

ジルの言葉に、シャリが大袈裟に驚いた顔をする。

「それって、どういう意味かな?」

「彼女達は・・・私達は、記憶を失っても、心まで失ったわけじゃない。誰か大事な人を失くしてしまった痛みは、消えることはない。忘れてしまうことは、痛みを消すことじゃない。痛みは、消えないから。思い出して、その記憶と向き合って初めて、私たちは痛みを抱えて生きていく事ができる・・・。私は、そう思う。」

「だから、記憶を取り戻すことが、消えた者の願いにもなるの?君って、本当に面白いね。」

「・・・。」

「面白い話を聞かせてくれたご褒美に、教えてあげてもいいよ。だけどいいの?僕は願いを叶える。その結果が何を導くかは、わからないよ。」

「今、世界は希望に、光に向かって動いている。例え、あなたが願いを叶えたとしても、それは闇を導くことにはならないわ。」

「ふふふ・・・。」

最初は小さな笑い声が次第に大きくなり、最後は哄笑となる。

「いいよ、本当に僕は君のことが大好きだよ。君の願いを叶えるよ。・・・またいつか会おう。」

シャリの体が空中に舞い上がり、回転するとふと消える。

代わりに、白い神官の服をまとった若い男が、台座の影から現れる。

「兄さん!」

「お兄ちゃん!!」

ヴィアとヴァイが大きな声で叫びながら、男にかけよる。

「・・・よう、お前たち。」

「お、お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん!!」

「わ、私、私達はね・・・。」

後は言葉にはならずに、泣き崩れる。



ゼネテスとジルは、わずかに離れた距離から三人の様子を見守る。失われた全ての記憶が、蘇りつつあった。ヴィアイライラとヴァイアリアリの兄、ツェラツェル。彼は、施文院からこの双子を救い出そうとし、施文院の大神官長エルファスの呪いを受けた。そして、呪いにより死に至る直前に、闇の神器である虚無の剣を抜き自らの記憶を消したのだ。彼を愛する人々全てから。この世界を、いや彼女達を守るために。そして、自らの喪失の痛みを彼女達に与えないために。



「お兄ちゃん、ひどいよ。エンシャントのスラムで。」

「ヴィアはあれから、毎晩、宿屋で一人泣いていたんですよ。」

「ヴァイだって・・・本当は弱いくせにいつも強がるから。」

「・・・悪かったな。もうじきお前たちの前から消えるのであれば・・・痛みを味あわせたくないと思っていた。俺は・・・俺は、お前たちのことが本当に大事だったんだ。世界の何よりも。」

「うん、そんな事、ずっとわかってたよ。」

「お兄さん・・・。」



ツェラツェルが顔を上げて、ジルを見つめる。

「よう。・・・相変わらず、喰えないな。あんたには勝てそうもないよ。」

「・・・。」

「だんまりも、相変わらずか。だけどあんたの言うとおりだ。記憶を失っても、痛みが消えるわけじゃない。・・・わからない痛みだからこそ、消すことはできない。自分でもよくわかっているはずだったのに。ありがとうな。あんたのおかげで、こいつらに、俺みたいな思いをさせなくて済む。」

ツェラツェルの言葉に、ジルが頷く。本当は不安だった。自分のしていることが、正しいのか。

―――だが、おそらくはこれで良かったのだ。

「ありがとう。」

「ん?」

「あなたが、ヴァシュタールから私達を救ってくれたのね・・・。」

「・・・。」

沈黙の中に、過去の記憶と気持ちが交錯する。

「・・・礼の代わりに、こいつらを頼むぜ。」

ツェラツェルの言葉に、ジルが頷く。



「ゼネテス。」

ツェラツェルが、ようやくかつての冒険仲間を見据える。

「・・・。」

「・・・もうそろそろ、思い出しているんだろう。あいつは・・・ミディアは、大いなるソウルの持ち主だった。闇の力でも全てを消し去ることはできない。あんたは、思い出そうと思えば思い出せたはずなんだ。俺も偉そうなことは言えないけどな。」

「ミディア・・・か。そうか・・・。」

「俺は、お前のことが許せなかった。あんたなら、あいつが忘却の剣を抜くのを止められたはずなんだ。それなのに、あんたは止めなかった。・・・だけど。お前も俺と同じように、苦しんできたんだな。だから、二度と誰にも背を託すことができなかった。傷つくことが怖くて、人の心に踏み込むことができなくなった。」

「・・・。」

「もう、思い出してやれよ。そして、その想いを過去にしてやれ。ミディアは、強くて優しい娘だった。きっとそれを願っていると思うぜ。」



ツェラツェルが、再び双子に向き直る。

「・・・もう、伝えたいことは、全て伝えた。そろそろ行くぜ・・・。ヴァイライラ。」

「お兄さん!」

「お前は、俺のもう一つの世界で一番大事なものと同じ位大切な、俺の宝物だ。」

「ヴィアリアリ。」

「お兄ちゃん!」

「お前は、ヴァイライラと同じくらい世界で一番大切な、俺の宝物だ。・・・二人とも、幸せになれよ。」



「じゃ、な。ジル、ゼネテス。」

手を上げると。現れたときと同様のさりげなさで、ふと柱の奥に消える。

高い天井には、双子のすすり泣きだけが響いていた。





星は、死者の魂だという。では、忘れ去られた人々の魂は、どこに行くのだろう。ふと、そんなことを考えながら、ジルは宿のベランダで夜空を見上げる。灼熱の砂漠から数日の距離にある、ここリベンダムは、心地よい夜風が吹いている。

「ジル様。」「ジル。」

小声で名前を呼ばれて、ジルは振り向いた。双子が、いつの間にか彼女の傍らに立っている。

「・・・ヴァイ、ヴィア。」

「・・・あの、本当にありがとうございました。ジル様のおかげで・・・思い出すことができて。」

「ありがとう、ジル。」

「・・・本当に、これで良かった?」

ジルは、ヴァイとヴィアというよりは自分に向かって呟く。忘れ去られた人の願い。忘れた人の願い。記憶を思い出すことが、本当に正しかったのか。



「・・・さっきまで、ずっとヴィアと話をしていたんです。」

「お兄ちゃんが、施文院から私達を助け出してくれたこと、そしてエルファスの呪いを受けたこと、私達がエリス様の配下として働いている時もずっと助けてくれたこと。」

「兄は・・・いつも私達のことを見守って、助けてくれていたんです。」

「話していると、何か涙が出てきちゃって・・・。ずっと泣いていたんだけど・・・。」

「不思議なんです。泣いているうちに、これまでずっと胸を刺していた痛みが、なんだか溶けていくような気持ちになって・・・。」

「お兄ちゃんに、もう二度と会えないこと、本当に悲しい・・・だけど、悲しいけど・・・。」

「・・・その悲しみを抱いたまま、生きていけるような気がするんです。」

双子の言葉に、ジルは目を瞑る。

「そっか、ありがとう。それを聞いて安心しちゃった・・・。」

頭上には、星々が三人を見守るように優しく煌いていた。





「・・・そんなことがあったんですか。」

ジルの言葉を聞き終えたオルファウスが、お茶を注ぎ足しながら相槌を打つ。

「えぇ。あの、それでオルファウスさん。この間おっしゃっていた、渡したい物って?」

「ふふ、あなたにはもう見当がついているのではないですか?」

賢者の言葉に、ジルが頷く。虚無の剣によって忘れ去られた者は二人。一人はツェラツェル。そしてもう一人は。かつてツェラツェル、ゼネテスとともに冒険をしていた無限のソウルの持ち主。無限のソウルの持ち主であれば、この屋敷に出入りしていたことは想像に難くはない。そして、オルファウスが渡したい相手は・・・。

「ミディアさんから、ゼネテスさんに・・・?」

「・・・先にヴァイライラさん、ヴィアリアリさんとともに、ロストールに帰って頂いた方がいいかもしれません。・・・お一人で考えたいこともあるでしょうし、あなたの帰りを首を長くしてお待ちになっている方もいらっしゃるかもしれないですしね。

「えっ・・・。」

オルファウスの言葉に、ジルが顔を赤らめて俯く。オルファウスの側に寝そべる猫の姿をした円卓騎士ネモが、わざとらしく鳴き声を上げた。



「じゃ、これで失礼しますね。お世話になりました。」

「さようなら。」

「失礼致します。」

口々に別れの言葉を告げて猫屋敷を後にするジルと双子を眺めながら、ゼネテスが頭を掻く。

「一体なんだい、俺だけこの屋敷に残れって。まぁ、これから酒盛りをするってなら歓迎だが。」

「お渡ししたいものがあるのですよ。ミディアさんから預かっていたものです。」

オルファウスがゼネテスに、古びた剣と黄ばんだ手紙を渡す。

「・・・これは。」

「では、私は夕食の支度でもしてきましょう。」



一人残されたゼネテスは、椅子に腰掛けると古びた剣を取り上げる。剣の柄に刻み込まれた紋章は、間違いなく七竜家の紋章だ。

かつで、自分がミディアに贈ったものだ。

目を閉じて、その姿を思い出す。柔らかなウェーブのかかった茶色の髪と、はしばみ色の瞳をした、気は強いが優しい少女だった。母を早くに亡くし、ディンガル帝国の士官であった父親もバロルの不興を買い殺された。その敵を討ちたいのだと言っていた。

何も似ているところはないのに、目の輝きだけはジルにそっくりだった。

ミディア、ツェラツェル、そしてゼネテス。まだゼネテスとミディアが16歳、ツェラツェルが15歳の頃の話だ。



賢者の森に捨てられ、この屋敷で育てられたネメアがバロルを倒すために旅に向かっていたとき、三人もまたバロル打倒を目指して旅をしていた。冒険の途中で虚無の剣の封印について耳にしたのは、偶然か、あるいは運命だったのだろうか。施文院の神官長であったイズは、バロルのために虚無の剣を使って不死の封印を施した。その封印を破ることができるのは、大いなるソウルの持ち主だけだった。



―――そしてミディアは。



古びた手紙を開く。懐かしい筆跡が、彼を迎えた。



「この手紙は、生涯、貴方の目に触れることはないかもしれない。それもいいわ。

・・・虚無の剣の封印の事を聞いてから、ずっと考えていたの。どうしたらいいのか。封印をとけば、この世界を救うことができる。でも貴方たちと会えなくなること、貴方たちの記憶から消えることは悲しいから。

今日、この森の中を歩いていて、本当にこの世界は美しいと思ったの。

・・・それは多分、貴方と旅をすることができたから。私が本当に救いたいのは、世界ではなくて、一緒に旅をしていた貴方たち、冒険で出会った仲間たちだとわかったの。

・・・これからも元気でいてね。貴方と、この世界に幸がありますように。」



夕暮れの猫屋敷には、焼きたてのパンと、暖かいシチューの食欲をそそる香りが満ちている。食卓に料理が並ぶ部屋に入ったゼネテスが、オルファウスに声をかける。

「よぉ、うまそうだな。」

「ちょうど、準備が出来たところです。あなたにはこちらの方が宜しいでしょうか?」

オルファウスが、卓の上の酒を入れた杯を示す。

「あぁ、それはありがたいな。」

しばらく無言で酒の杯を口に運んでいたゼネテスが、ようやくぽそりと尋ねる。

「・・・あんたは、ずっと覚えていたのか。ミディアの事。」

「そうですね・・・私も忘れかけていたんですよ。虚無の剣の話を聞いて思い出しました。」

「あいつは、何て言っていたんだ?」

「封印の話を聞いてから、しばらく悩んでいました。ですが、ある日、晴れやかな笑顔でやってこられて。もしも、あなたが自分のことを思い出したのであれば、これを渡してほしいとおっしゃっていました。」

「・・・晴れやかな笑顔か、そうだった。あの虚無の剣を抜いた日も。見惚れるぐらい綺麗な笑顔で。自分が世界を救えるなら、それでいいといっていた。・・・それで、俺はあいつを止めることができなかった。」

「あなたが何を言っても、止めることはできなかったでしょう。もう決意されていましたから。」

「ツェラツェルの奴は、俺なら止められると思っていた。ツェラツェルは、ミディアが俺に惚れていると思っていた。だけど、ミディアの本当の想いは、俺にもわからない。」

「ミディアさんは、自分が忘れられても、あなたたちのいるこの世界を守りたかったのですよ。それがミディアさんの気持ちです。」

「そうだな。」

「ミディアさんは、あなたが再び仲間とともに冒険をされることを願っているかもしれません。」

「・・・あんたの言いたいことはわかるよ。もう少し飲ませてもらおうか。」

「えぇ、明日は用事がありませんから、ゆっくりと飲み明かしましょう。」

オルファウスが、極上の笑顔を浮かべる。以前にオルファウスとともに夜明けまで飲み明かした翌日の惨状を思い出して、ゼネテスが一瞬ためらう。

「ま、そうだな。」

諦めたようにゼネテスが呟くと、新たに注がれた酒の杯に手を伸ばした。





昼間に訪れた頃は明るかった部屋に、西日が差し始めていた。一部始終を語り終えて、ようやくジルが口を閉じる。



ジルを見つめていたティアナが、静かに目を閉じる。

「・・・ミディア様。私もお会いしたことがあることを思い出しました。」

「ティアナ様も?」

ジルが少し驚いて聞き返す。

「えぇ・・・。ゼネテス様が冒険を始められた頃ですから、15、6歳の頃・・・私が6歳の頃ですわ。」

確かに、ゼネテスはエリスの甥、ツェラツェルはエリス配下のヴィアリアリア、ヴァイライライの双子の兄だ。王宮に姿を見せても不思議はない。

「・・・中庭でお会いしたのです。お優しい方で・・・私が一人で少し・・・悲しいことがあって。その時に、慰めて下さったのですわ。お話をしていると・・・何か大きなものに柔らかく包まれているような、そんな気持ちになりました。ふふ。そんなところは、ジル様とも少し似ていらっしゃいました。」

「私も、お会いしたかった気がします。」

ゼネテス、そしてツェラツェル。記憶から失われても、こうして人々の心の中に在り続ける大いなるソウルの持ち主とは、どんな人だったのだろう。

ジルの言葉に頷くと、ティアナがジルを真っ直ぐに見つめる。宝石のように美しい、薄紫の瞳。

「ジル様、本当にありがとうございました。・・・ジル様には本当に助けて頂いてばかりです。」

「そ、そんなことは全然ありません。それに、ゼネテスさんがミディアさんの記憶を取り戻して、それで・・・。」

「・・・そうですわね。それでどうなるかはわかりませんわね。・・・人の心は、思い通りにすることはできませんもの。」

「えぇ・・・。」

自分の無力さを歯がゆく思いながら、ジルが少し俯く。



「ですから、私、これからは自分の力でやってみようと思います。」

ティアナが、晴れやかに笑う。初めて目にする屈託のない笑顔に、ジルの心が軽くなる。

「ティアナ様、さすがは・・・。」

「えぇ、ファーロスの雌狐の娘ですわ。」

ティアナの部屋に、明るい笑い声が響く。



「・・・ずいぶんと楽しそうだな。」

「まぁ、レムオン様」

振り向いたティアナが、レムオンを招き入れる。

「ジルも来ていたのか。ところでティアナ、例の軍縮交渉の締結文書の件だが・・・。」

ジルへの挨拶もそこそこに、レムオンがティアナの方に歩み寄る。

「えぇ。その文言については、ザギヴ様と検討したのですけれど・・・。」

頭を寄せて手にした書類について話を始めた二人に、ジルは急に取り残されたような寂しい気持ちを覚えていた。



話の邪魔をしないようにそっと立ち上がると、静かに扉を開ける。

「・・・ジル、すぐに終わる。少し待っていろ。」

ジルの様子に気付いて、レムオンが顔を上げる。

「ちょっと、用事を思い出して。先に屋敷に戻ります。」

二人に向かって微笑むと、ジルはティアナの部屋を後にした。



「・・・。」

ジルの姿を目で追って、閉められた扉を見つめる。そのレムオンに、ティアナが声をかけた。

「レムオン様。色々とご協力頂いてありがとうございました。・・・早く、ジル様のところへお戻りになって下さい。」

「どういうことだ?」

ティアナが何も言わずに微笑む。レムオンが、立ち上がる。

「・・・そうだな。そうさせてもらおうか。」

「えぇ。・・・レムオン様のおかげで、ディンガル帝国との軍縮交渉も成功裡に終わりそうです。これから、ロストール王国とディンガル帝国は、一つになってバイアシオン大陸を平和へと導くことになると思います。」

「ロストール王国も、良い君主に恵まれたからな。」

「レムオン様のご助力を賜ればこそ、ですわ。」

「・・・大事な幼なじみ・・だからな。では、俺はこれで失礼しよう。」

扉に消えようとするレムオンに、ティアナが声をかける。

「レムオン様、お幸せに・・・。」

「ティアナもな。」

その言葉を最後に、扉が閉まる。





エストの実の母、そしてレムオンの育ての母。ロストール王国での夜をこの屋敷で過ごすことになって、セバスチャンが彼女へと用意してくれた部屋は、かつてはその女性が使っていたという部屋だった。王国で権勢を誇る大貴族の夫人の部屋というには意外な程、簡素な、だが居心地のよい部屋だ。

一人でベッドに腰掛けたジルは、小さく溜息をつく。味わったことのないような、胸が締め付けられるような寂しさと不安が心を満たしていた。

不意に響いたノックの音に、飛び上がる。

扉を開けたジルは、意外な姿を見て目を見開く。



「・・・レムオン。もっと遅くなるかと思ってた。」

「一体、どうしたというのだ。待っていろと言っただろう。」

「・・・。」

自分の感情を言葉にできず、ジルは横を向く。

「・・・私、何だか・・・。急に・・・ティアナ様は、お綺麗で、ロストールの女王で・・・レムオンは、ティアナ様を助けようと一生懸命で・・。」

「ジル。」

レムオンが肩を軽く掴むと、顔を向けさせる。ジルは自分の言葉に後悔しながら下を向く。

「・・・ごめんなさい。私、馬鹿みたい。本当に、呆れちゃうよね・・・。」

「たまには、嫉妬されるというのも、悪くない。」

「え?」

「全く、本当に困った奴だ。」

レムオンの片手が伸びて、ジルの頬を覆う。

「あの戦いの後、ずっと俺はお前と話がしたいと思っていたのだ。それを次から次へとギルドの依頼だの、頼まれごとだのを引き受けていたのは、お前の方だろう。」

「・・・そ、それは。」

冒険の間中、頼まれ事は疑問にも思わないほど当たり前になっている。指摘されて、ようやくジルはレムオンが不機嫌だった理由に思い至る。

「・・・俺がティアナを助けることにしたのは、ディンガル帝国との軍縮交渉はロストール外交の要だからだ。相手はあの老獪なベルゼーヴァとザギヴだ。・・・ロストール王国とディンガル帝国の和平がまとまれば、少しでも過去の過ちを贖うことができると思ったのだ。」

「・・・。」

「・・・第一、助けてばかりといえば、お前もあの男を助けてばかりいる。わかっているのか。」

「えっ?」

あまりにも意外な言葉に、ジルが目を大きく見開く。

「だって、ゼネテスさんは!全然違うじゃない!レムオンはティアナ様をお好きだったけど、私は、ゼネテスさんは・・・。」

「人の心は変わることもある。」

「・・・。」

「・・・認めるのは不愉快だが、あの政変で・・・。エリスを殺した俺を助けようとしたあいつにかなわないと思った。」

ジルが、レムオンを見上げる。

「・・・だけど、私が好きなのは、ゼネテスさんじゃない。貴方なの。冷たそうだけど、本当はすごく優しくて・・・。頑なで愛に不器用だけど、愛情に溢れてて・・・。あの黄金に輝く畑で初めて会った日から・・・貴方のことを愛しているの・・・。」

「・・・ジル。」

「・・・だから、不安になるの。貴方はロストール王国の大貴族エリエナイ公で・・・私は・・・。もうノーブル伯でいる必要もないし。」

「ノーブル伯が不服なら、エリエナイ公爵夫人でも構わないが、な。」

「えっ、ええっ!?」

想像もしなかった言葉に、ジルがのけぞる。

「だが、お前にロストール王宮は狭すぎる。大空を飛ぶ鳥を籠に閉じ込めるのは、無粋だろう。・・・それに俺にとっても。あの政変の後、お前と冒険を始めてから、俺は変わった。」

ジルが頷く。

「・・・変えたのは、お前だ。責任を取ってもらうぞ。」

「せ、責任?」

ジルが焦るのに、レムオンがふと口元を緩める。

「・・・この大陸を出て、新たな大陸を目指したいと思っている。お前も、ともに来て欲しい。」

「新たな、大陸・・・。」

ネメア、カルラ、ヴァン、ナッジ・・・すでに、今回の冒険中に知り合った人々の中でも、この大陸を後に、新たな地へと旅立っていった人々も少なくはない。だが、自分自身については、考えたこともない選択だった。



「嫌だと言っても、さらっていく・・・。」

レムオンの長い指が、ジルの頬を慈しむように滑り降りる。やがて顎に行き着いた指が、その顎を持ち上げる。見上げたジルの瞳に、レムオンの瞳が写る。優しく、柔らかで、深みのある大好きな瞳。



近づいてくる顔に、ジルは、ゆっくりと目を閉じた。






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