Novel 2

《第一次ロストール戦後@》


高い柱で支えられた、ロストール王宮の大広間。ディンガル帝国の防衛戦における殊勲の式典を終えたそこには、まだ今回の戦役に参加した多くの人々が残る。

この戦役で武勲を立てたのか、顔を興奮に染めて声高に戦の様子を描写する者もいれば、身内の死に直面したのか、がっくりとうな垂れて口も利かずに足早に立ち去る者もいる。幾多の武勲による歓喜と幾多の戦死による悲哀とが奇妙な交じり合い、不思議な対比を作り出す。

敷き詰められた豪華な真紅の絨毯を並んで歩きながら、ジルは傍らのレムオンというよりは自分に向かって呟く。

「・・・こんな風に褒章されるなんて、変な感じ。」

「このたびの戦役であのドラ息子に次ぐ武勲を立てたのは、間違いなくお前だ。おかしなことはない。」

「そうじゃなくて。」

小さく首を振ると、ジルはまだ生々しい戦場の記憶を呼び起こす。土煙を上げて疾走するウマ、振り上げられる刃、飛び散る血飛沫。生と死は、運命の女神の一瞬の気まぐれが決める。地に崩れた兵士の死に顔が、彼女と年もさほど離れていないあどけない少年のものだったことを思い出して、彼女は小さくため息をつく。

「なんだか、ここは・・・。戦場とは、全然違う。そんなところで殊勲なんて。」

「・・・王宮とは、そういう場所だ。」

「そうだけど・・・。」

なおも口を開こうとしたジルの傍らに、膨らんだ袖口と丈の短いスカートという、愛らしい侍女姿の少女が近づく。それがティアナ王女のそばに仕える侍女だったことを思い出して、ジルは言葉をとめて小さく会釈をする。

「エリエナイ公レムオン様、ノーブル伯ジル様。お話中失礼を致します。ティアナ王女がお呼びでございます。」

侍女の言葉に、ジルとレムオンは顔を見合わせる。

「・・・すぐに参ると伝えてくれ。」

「かしこまりました。」

うやうやしく最敬礼をして去ってゆく後ろ姿を見ながら、ジルが首をかしげる。

「一体、どうしたのかしら。」

「さあな、女の気まぐれとは困ったものだ。」

「うれしいくせに、お兄様は素直じゃないのね。私はお席を外しましょうか。」

「宮中の下らぬ噂に毒されているとは、困ったものだな。・・・では、行くぞ。」





中庭を取り巻く回廊を抜け、空中庭園を通り過ぎると、ティアナ王女の部屋に辿り着く。

扉を開けると同時に、華やかで澄んだ声が二人を出迎えた。

「レムオン様、ジル様、ようこそいらして下さいました。」

柔らかに巻く金の髪が、透き通るような白い顔を取り巻き、品の良いドレスの上に流れ落ちる。真っ直ぐに人を見つめる紫の瞳と、人を惹きつけてやまない明るく愛らしい微笑。光の王女の名に相応しく、まさに春の陽光を集めて織り上げたような美しい王女。

「ジル様におかれましては、このたびの戦役で大変なご活躍。ティアナは心より祝賀を申し上げます。」

優雅なしぐさでうやうやしく貴族礼をしてみせるティアナに、ジルは小さくうなずき返す。

「レムオン様も。」

こちらは完璧な貴族礼で応えてみせるレムオンに、ティアナが小さく首を傾けて微笑む。

「お疲れのところでしょうに、お呼びたて致しまして申し訳ありません。」

「まったくだ。」

「まぁ、レムオン様、そういう時はお世辞でも構わないとおっしゃって頂きたいですわ。」

「それは、不調法で失礼した。」

いつも変わらぬ調子のレムオンとティアナのやりとりを耳にしながら、ジルは光が溢れる室内を見渡す。クローゼットの前に飾られた一着のドレスに目を留めて、ジルは小さく感嘆する。

海の色を連想させる紺碧を基調としたドレス。美しい形に広がった裾。左の胸元から右の足元にかけて、まるで星が散りばめたように小さな宝石が斜めに縫い込まれている。

凝視するジルの様子に気が付いて、ティアナが微笑みを浮かべる。

「素敵でしょう。いらして頂いたのは、これをお見せしたかったのです。」

「結婚式に着る衣装か。」

「違いますわ。」

この話題になると、温和なティアナの口調に小さな棘が混じる。

「・・・美しい衣装だが、ティアナにはもっと淡い色のドレスが似合うのではないか。」

「ですから、これはジル様にですわ。その漆黒の御髪と深緑の瞳によくお似合いになりそうでしょう。」

「え?」

嬉しい驚きに、思わず声が漏れる。慌てて傍らのレムオンを見上げると、予想に違わず苦虫を噛み潰したような表情を目にする。

「・・・ジルは。」

「レムオン様が大切な御妹君を王宮の方々の目に触れさせたくないのはわかりますけど。華々しい戦功を立てられたレムオン様の御妹君、ノーブル伯ジル様とお話したいと宮中の皆様方は大変熱心なご様子。先の戦役から毎日のようにジル様にご紹介頂きたいと皆様からせかされております。今夜の戦勝記念舞踏会にこのドレスでご出席頂けませんか?」

「残念だが、妹は礼儀作法など全くなっていない。とても舞踏会に出せるものではない。」

「そんなことはございませんわ。それに、ジル様のお考えを伺っていませんわ。」

急に二人から視線を向けられて、ジルは焦って呟く。

「ええと。」

この美しいドレスの袖に腕を通したくといえば嘘になる。日頃レムオンやティアナから耳にする王宮の人々の様子にも興味はある。だが、渋い顔でこちらを睨み付けているレムオンの顔を見ると、それを口にするのもはばかれる。

「遠慮することはない。お前は出席したいのか。」

「・・・。」

少しの間逡巡した後、無言で頷く。ティアナが手を叩いて歓声を上げ、レムオンがこれ見よがしの大きな溜息をつく。

「うれしいですわ。私、一度ジル様と舞踏会に出てみたかったのです。」

「全く、一人でも始末に負えないというのに、二人がかりで我儘を言われてはどうしようもないな。」

「ふふ、今回はレムオン様の負けですわ。」

「全く、さすがはファーロス家の・・・。」

「血は争えませんわね。ジル様、意地悪をおっしゃる方は放っておいて、こちらにいらして下さいませ。今、侍女を呼びますわね。」

レムオンの視線が、興奮した様子で部屋を後にするティアナから、再びジルに戻される。

「お前という奴は。」

お詫びのつもりで小さく頭を下げると、レムオンが諦めたように溜息をつく。

「せいぜい、正体がばれないように気を付けるのだな。もしもばれたら、ただでは済まないからな。」

「はい。」

「・・・返事だけは素直で結構なことだ。では、俺は外にいる。あまり待たせるな。」





滑らかに心地良く肌に触れる、柔らかな布地の感触。職人が技をこらしたに違いないその仕立ては、まるであつらえたようにぴったりと彼女を包み、若々しい身体の線を美しく際立たせる。足を動かすと、広がった裾が微妙に色を変えて流れ、微かな衣ずれの音が柔らかく耳をくすぐる。

「まぁ、本当にとても良くお似合いですわ。」

ティアナが感心したように小さな溜息を漏らす。

「本当に?」

「えぇ。早くレムオン様をお呼びしましょう。きっと楽しみにしていらっしゃいますわ。」

ティアナがくすりと笑い、侍女に何かを言いつける。

心が浮き立つような、それでいて自分が自分らしくないような少し不安の混じる不思議な感覚を胸に、ジルは扉を見つめる。

侍女に続いて部屋に入ってきたレムオンが、数歩足を進めて立ち止まる。

「・・・ほう。」

「ふふ、レムオン様、御妹君の晴れ姿に声もでないご様子ですわね。」

「そうだな、まるで大貴族のご令嬢のようだと感心していたのだ。」

「まぁ、それは褒め言葉ですの?ですけど、本当にまるでジル様の方が王女のようですわ。きっとジル様が王女でしたら王宮ももっと自由で楽しいでしょうね。」

「あぁ、さぞかしいい見ものだろう。王宮の作法などめちゃめちゃになるだろうからな。・・・そういえば、ティアナ、侍従長殿が舞踏会の準備の件で話があるそうだ。」

「まぁ・・・、それではお二人は先に大広間に向かって頂けますか?私もすぐ参りますから。」





「それにしても。」

ティアナがあわただしく部屋を出て行くのを見届けて、レムオンがジルに向き直る。

「見事に化けたものだな。」

「・・・全然、褒められている気がしないけど。」

「それは失礼した。不器用な兄を許してやってくれ。」

「もう兄さんの失礼には慣れたわ。」

「ジル。」

「はい。」

突然浮かんだ真剣な眼差しに、ジルはあわてて姿勢を正す。

「言っておくが、王宮はお前が考えているような愉快で楽しい世界ではない。くれぐれも気を引き締めるのだな。」

深く頷くジルに、レムオンがさらに言葉を続ける。

「何が耳に入っても気にとめるな。話しかけられたら、適当に笑って相槌を打っておけ。正体が見破られないように、自分からは何も話すな。大広間では、俺はずっとお前の側についていることはできないからな。」

次第に不安が募るジルを置いて、レムオンがさっさと歩き出す。

あわててその後を追って、ジルは大広間へと向かった。





ほんの数刻の間に、大広間は大きくその様相を変えている

贅を尽くした色艶やかなドレスに身を包んだ貴婦人達、そして竜騎士の甲冑や貴族服をまとう貴族達。ひそひそと何かを囁きあう人々。身を乗り出して貴族の令嬢に話しかける若い貴族。戦について熱弁をふるう老兵士。

その全ての人々の視線が、入口に現れたレムオンとジルに一斉に集まる。

一瞬の沈黙に続き、ざわざわとした興奮の波が広間に広がる。



広間中の注目を一身に集めながら、レムオンは顔色ひとつ変えずに中央に進む。

後に続くジルの耳に、小さな囁きが届く。

「・・・レムオン様のおそばにいらっしゃる、あの方は・・・。」

「・・・先代のエリエナイ公が奥方以外の女性に・・・。」

「・・・妹君であらせられるノーブル伯の・・・。」

「・・・中々、お綺麗な・・・。」

「・・・ですが、ご本人も荒くれに混じって冒険者をされて・・・武勲を立てられたといっても所詮は身分の低い・・・。」

興味と好奇心、好意と侮蔑、様々な憶測の入り混じる囁きに、半ば驚き、半ば呆れながら、ジルはレムオンの後を追う。何を聞いても気にするな、とはこういうことなのだろう。

「シドア侯。」

レムオンが一人の貴族の前で足を止める。華麗な衣装と豪華な装飾品を除いては、これといって何の特徴のない、気だるく狡猾そうな目をした初老の男だ。レムオンが優美な仕草で頭を下げるのに、呼びかけられた相手は尊大な様子で礼を返す。

「ご挨拶が遅れました。我が妹、ノーブル伯ジルと申します。」

「ノーブル伯というと、先の戦役で・・・。」

「非才の身ながら、僥倖に恵まれました。・・・ジル、こちらが名高い七竜家当主のシドア侯であられる。」

「初めてお目にかかります。ノーブル伯ジルでございます。」

「どんな勇ましい女丈夫かと思ったが、誠に可憐なご令嬢であられる。・・・ところでエリエナイ公、先日の件だが・・・。」

シドア侯は、レムオンに何かを小声で囁きかける。ジルがそこにいないかのように、たちまち話に熱中する二人に、ジルは手持ち無沙汰で広間を見渡すが、当然ながら知った顔もいない。

しばらく周囲の人々を観察していたジルの目が、外のバルコニーに通じる小さなアーチにとまる。左右を見渡すが、すでに人々は関心を失ったようで、彼女に注意するものもいない。傍らの二人が話に集中している様子を確認してから、ジルは誰に見咎められることもなく、するりとバルコニーへと滑り出た。





気持ちのよい春風が、バルコニーの先にある中庭を吹きぬけて、ジルの髪をなぶる。石の手すりに両ひじをついて、ジルは大きく安堵の溜息を漏らす。確かに、この堅苦しい王宮よりは冒険の方が楽しいかもしれない。ティアナが時々自らを金の籠の鳥と称するのも無理はない。

「よ、ノーブル伯。」

聞き覚えのある声に、ジルは勢いよく振り返る。

「まぁ、これは総司令殿。」

「お互い、珍しい所で出会うもんだな。」

「本当に。どうしたんですか?」

「叔母貴に頼まれてな。お前さんこそ、よく過保護のお兄様のお許しがでたな。」

「ティアナ様のおかげなんです。」

「女性のお願いに弱いのは、共通ってわけだ。それにしてもずいぶん綺麗な格好をしているな。まるでお姫さんみたいだぜ。」

照れるジルに小さく笑いかけると、ゼネテスは大広間に向かって顎をしゃくる。

「退屈だろ、王宮ってのは。」

「それで、ゼネテスさんは冒険者になったんですか?」

「どうだったかな。昔のことは忘れちまったが。・・・アンギルダンのとっつぁんの影響もあるんだろうな。」

ゼネテスの口から出た意外な名前に、ジルがゼネテスを見つめる。ディンガル帝国の朱雀将軍としてロストール侵攻軍を率いたアンギルダンは、ゼネテスとの一騎打ちの末に壮絶な戦死を遂げた。その結果、ロストール軍は甚大な被害を受けつつも、からくもディンガル帝国の侵攻を退けたのだ。

「そういや、お前さんもとっつぁんのことを知っているみたいだったな。」

「冒険の途中に出会ったんです。死竜の洞窟で。それからリベンダムの酒場で何回は話をしたことがあって・・・。」

昔のことを懐かしげに語るアンギルダンの巨体を思い出し、ジルは表情を曇らせる。豪胆で、頼りがいのあり、愉快な尊敬すべき人物だった。うつむくジルに、ゼネテスがまるで独り言のように呟く。

「・・・昔、アンギルダンのとっつぁんはロストールで傭兵をしてたことがある。俺が物心つくかつかないころだ。・・・だが俺は鮮明に覚えてる。ホントにでけぇ人だった。肩車してもらったこともある。とっつぁんは覚えちゃいなかっただろうがな・・・。」

淡々と呟くゼネテスの気持ちを想像して、胸が痛む。

「・・・おっと、しんみりしちまったな。ところで音楽が始まったみたいだな。」

すでにいつもの飄々とした声を取り戻したゼネテスが、大広間を指差す。

「あ、本当。」

王広間に溢れる色とりどりのドレスが、音楽に合わせて花畑のように揺れる。その中に、思わずレムオンの姿を探す。

「お前の兄貴は踊らないだろうがな。そもそもこんな会に出席する自体が珍しい。」

「そう・・・なんだ。」

「んじゃ、俺はそろそろ帰るな。叔母貴への義理も果たしたことだし。」





声を掛ける人々に適当な挨拶を返し、大きな足取りで大広間を横切る。まさに外に出ようとした瞬間に、険しい声が追う。

「近づくな、と言ったはずだが。」

苦笑しながら、ゼネテスが振り返る。

「あんまり退屈そうだったんでな。」

「余計な世話だ。自分の面倒を見れない年頃でもあるまい。」

「そりゃそうだが。そんなに大事な妹なら、もう少し相手をしてやってもいいんじゃないかい。お前さんと一曲踊りたいようだったしな。」

「ふざけるな。俺は・・・。」

「お前さんが浮いた噂一つ立てない潔癖症の面白みのない仕事人間だってことはよくわかってるがね。実の妹が相手なら噂にもならないだろう。ティアナ王女と違ってな。」

あまりにもとぼけた口調に、冗談なのか嫌味なのかを測りかねている間に、ゼネテスがさっさと入り口に向かう。

「ほら、俺よりタチの悪いのが行ったみたいだぜ。」

ゼネテスの言葉に、レムオンが思わず振り返る。その言葉を最後に、再び向き直るのを待つまでもなく、ゼネテスは完全に大広間から姿を消した。





「ノーブル伯ジル様とお見受け致します。」

「はぁ・・・。貴方は・・・。」

目の前に突然現れた青年貴族に、ジルは戸惑いながら微笑を浮かべる。

「七竜家に名を連ねるアルガ家当主の甥の従兄弟にあたるリンプ・アルガと申します。以後お見知りおきを。」

「ええ。」

あまり話をするなというレムオンの言葉を思い出して、ジルは適当な相槌を打つ。

「このたびのロストール戦役、私も参戦致し、ジル様の素晴らしいご活躍を目に致しました。鎧姿もまさに救国の英雄に相応しく勇ましいものでしたが、ドレス姿がこのように美しいとは。レムオン様も素晴らしい御妹君をお持ちになって、まことにお幸せでございますね。」

歯の浮くようなお世辞に、どう反応を示してよいかわからずに、曖昧にうなずく。

「ところでジル様、私と一曲お相手願えませんか。」

「え、わ、私ですか。」

「そのようにお恥じらいになられるところも奥ゆかしい。」

「・・・も、申し訳ないのですけど、私、踊れませんの・・・。」

「何をおっしゃいます。先ほどから音楽に合わせて軽快なステップを踏んでいらっしゃったではありませんか。」

大広間で踊る人々を眺めながら、何気なくステップを真似ていたことを指摘されて、返す言葉を失う。

「さ、ジル様。」

腕を取って大広間へと向かおうとするのに、困惑して首を振る。



「これは、リンプ男爵。」

「エリエナイ公。」

「お兄様!」

突然現れたレムオンに、二人がそれぞれ同時に名を呼ぶ。

「歓談中に申し訳ないが、不肖の我が妹が、卿にご迷惑でもおかけしているではと気になって、様子を見に来たのだ。」

「ご迷惑など、とんでもない。ただいま御妹君に一曲お相手を願っていたところです。」

意気揚々と告げるリンプに、レムオンはまず視線を投げ、ついでジルへと視線を落とす。

「・・・ええ、でも私、ええと・・・。」

必死で断る理由を探す。ふと思いついた一言が、口からするりと滑り落ちた。

「そう、最初の一曲はお兄様と踊ると約束をしているのです!」

その言葉を聞いた途端に浮かんだレムオンの複雑な表情を目にして、ジルは自分の言葉を激しく後悔する。

「そう、ですか。」

一瞬失望の表情を浮かべた後、リンプは再び明るい声を出す。

「レムオン様がダンスを踊られるとは、素晴らしい!やはり御妹君は特別でいらっしゃるのですね!!では、三人で広間に戻ろうではありませんか!!」

「誠に済まないがリンプ卿、俺は少しジルと話がある。外してもらえないだろうか。」

丁寧ながら有無を言わせぬ口調に、リンプが一瞬ひるむ。

「で、では私はこれで。」

挨拶もそこそこに、そそくさと広間へと戻るリンプの姿が完全に消えたのを確認して、レムオンがジルに片手を差し伸べる。

「ほら。」

その意味を測りかねて、首をかしげるジルに、レムオンが無愛想に答える。

「一曲、踊るのだろう。」

「え?」

予想外の言葉に、ジルが思わず聞き返す。

「兄が相手では役不足というのなら、俺はもう戻るが。」

激しく頭を振ってその言葉を否定するのに、レムオンが微かに口元を緩める。その微笑に後押しされるように、ジルはそろそろと手を伸ばして、差し出された手に重ねる。

柔らかく温かい感触に包まれて、胸が高まる。

「もっと、近くだ。」

レムオンが繋ぎ合わせた手を自分の肩の辺りに引いて、ジルはよろけるように数歩前に踏み出す。レムオンの胸元に吐息がかかるほどの距離に、心を落ち着かせることができない。

目を上げることができず、胸元の服の模様に視線をさまよわせながらジルが呟く。

「わ、私、踊りなんて・・・。」

「心配するな、俺がリードする。・・・怪物相手に剣を振り回すほど難しいことではない。」

言いながら、片方の手が背に回される。

宮廷楽師の一人が合図を送ると、軽やかな旋律の演奏が始まる。

「右足を下げて、左、右・・・そうだ、筋は悪くない。」

体を動かすたびに、ドレスに縫い込まれた宝石が煌いて、夢のような光の河を作る。次第に動きに慣れて、ジルは半ば夢見心地でレムオンのリードに身を任せる。

創造主が丹精こめて作り上げたに違いない完璧な美貌。一見冷たい整った造形の中、穏やかで柔らかい光を湛える深い瞳に見つめられて、一瞬息が止まるような感覚を覚える。



・・・このまま時間が止まればいい。



軽やかにくるりと回転すると同時に、広間から響く音楽が止まる。

永遠とも思える長い時間、それなのにほんの一瞬の短い時間。魔法のような不思議な時間が破られる。





「・・・。」

まだ夢を見るような気分で、ジルがレムオンから離れる。繋いだ手を離す瞬間に、一瞬レムオンがためらいを見せた気がした。

「・・・楽しかったか。」

無言で頷くと、レムオンは普段と変わらぬ口調で告げる。

「では、そろそろ帰るか。もう王宮は十分だろう。」

「えぇ。」

「・・・全く、俺が舞踏会など。」

「でも、お兄様と踊りたい方はたくさんいらっしゃるんじゃないかしら・・・。さっきから大広間の若い綺麗な方々がずっとお兄様のこと見つめていらしたもの。」

「相変わらず甘い奴だ。あいつらは、もし俺がリューガ家の当主でなければ、見向きもしないだろう。貴族とはそういう種族だ。」

冷酷に吐き捨てるレムオンの背中を見ながら、ジルが呟く。

「そんなことないと思うわ。」

「・・・。」

「貴族とか平民とか、そんな事本当は関係ない。本当に大事な人なら、誰だって・・・。私だって、お兄様がリューガ家の当主だろうと、そうでなかろうと、関係ないもの。」

肩越しにジルを見下ろすレムオンが、ふと視線をそらす。

「・・・俺は、お前が思っているような人間ではないかもしれないぞ。」

「私はお兄様がどんな人か全てはわからない。だけど、お兄様は優しい方だと思う。ノーブルで、お兄様は私を見捨てて自分の密書を取りに行くこともできた。だけど、そうしないで見も知らずの私を助けてくれた。自分の危険を冒しても。」

「・・・そんな風に簡単に人を信用すると痛い目にあうぞ。もし俺が、お前を利用しようとしている闇の者だったらどうするのだ。」

レムオンの言葉に、ジルが静かに首を振る。

「もしもお兄様がダークエルフでも魔人でも、お兄様の事を信じている。」

「そうか・・・。」

レムオンが、ジルに微笑みかける。

日頃は目にすることのない、優しく無防備な表情に、奇妙に胸が締め付けられる。



もう一度視線を落としたレムオンが、何かを思いついたようにジルを振り返る。

「そういえば、この腕輪だが。」

「ええ。」

「サラミスの腕輪だそうだな。知っていたのか?」

「えっ・・・と、そういえば鑑定をしてくれたダイダロさんがそんなことを言っていたような気がする・・・。」

「・・・全く、お前らしいな。」

今度は少し困ったような笑いを浮かべるレムオンに、ジルが首を傾げる。

「・・・その腕輪を見つけたときに、女の人の声がしたの。守りたい、大事な人がいるのかって。そうであれば力を貸すって。それで、その腕輪は絶対お兄様に渡そうと思っていたの。」

「・・・。」

それ以上は何も尋ねずに、レムオンは広間へと向かった。





「楽しんで頂けましたか。」

「ええ。ティアナ様、ありがとうございました。」

普段の服装に着替え、くつろいだ姿でお茶を飲みながらジルが答える。

「女性の気紛れは、もうこれきりにしてもらいたいものだ。」

その脇から、レムオンが口を挟む。

「まぁ、ゼネテス様と同じようなことを。」

「ゼネテス?」

レムオンの眉が、剣呑に持ち上がる。

「お母様に言われて、舞踏会に出席されたんですって。・・・きっとこのお部屋にお見えになったのも、お母様に言われたのでしょう。昼間からお酒を召されて。このお部屋、お酒くさくありありませんか?」

「・・・。」

レムオンが不機嫌に黙り込んだのに、ジルは慌てて話題を変える。

「でも、今日は本当に楽しかったです。」

「それは良かったですわ。そういえば、リンプ様がジル様に冷たくされたとこぼしていらっしゃいましたの。」

「何をお話したらいいかわからなくて。一人になりたかったのですけど、そういうときどうしたらいいのかしら。」

「ふふ・・・ジル様って本当におもしろい方ですね。」

鈴を転がすような涼やかな声で、ティアナが笑う。

「笑わないでやってくれ。冗談で言っているのではない。こいつは王宮のしきたりにうといのだ。」

「でも、無意味なしきたりばかり。おじぎの仕方、お食事の席順や作法。」

「これは意外だ。いつも、フィアンセ殿の不作法を嫌っているではないか。」

「あれは、あの方は度を越えています!」

語調を強めるティアナに、レムオンが冷笑で対応する。

「確かに、な。どうせ昼間から酒と賭博に明け暮れ、薄暗い酒場で女をはべらし、鼻の下を伸ばしているのだろう。貴族の名を盾にな。」

「それは違います!あの方はそんな方ではありません!ましてや、貴族の名をひけらかすなんて・・・!」

真剣な口調で言い募るティアナに、居心地の悪い空気が流れる。

「・・・ごめんなさい。私、何をムキになっているのかしら。」

「何も謝ることなどないさ。では失礼する。愛しのフィアンセ殿によろしくな。」

立ち上がってさっさと部屋を出るレムオンの後を、慌ててジルが追う。





リューガ家までの道のりを、長い沈黙が支配していた。

館の門前までくると、ようやくレムオンが小さく呟いた。

「みっともないところを見せてしまったな。」

「・・・お兄様は、ティアナ様がお好きなのね。」

先ほどから胸につかえていた言葉を、ジルはようやく口にする。

「バカを言え。ティアナはファーロスの雌狐の娘だ。誰がファーロスの血を引く女などに心を奪われるものか!」

「だって、お兄様は・・・。」

「黙れ!俺は・・・。」

珍しく声を荒げた自分に気が付いて、レムオンがジルに背を向ける。ジルが数歩歩いて、再び背を向けたレムオンの正面に立つ。

「・・・お兄様。」

「・・・。」

「誰かを好きになることは、悪い事ではないでしょう。それに、ファーロス家とかリューガ家とかそんなことは・・・。」

「・・・そうだ、お前の言うとおりだ。」

「・・・。」

「俺はティアナを好きだった。あんな男と婚約する前から・・・幼い頃から、ずっと!ずっと!」

自らの感情を吐露する姿を、複雑な気持ちで見守る。

「だが許されないことだ!この想いを告げることも。いや、こんな気持ちを抱くことすら許されないのだ。」

レムオンが、力無く自嘲の笑みを浮かべる。

「・・・満足か?・・・俺のこんな姿を見て満足か?」

その言葉に、ジルが小さく首を振る。

冷酷な外見と振る舞いの下に隠された心の奥に触れて、切なさと愛おしさが混じった感情が湧き上がる。

「すまん・・・。貴様には・・・つい・・・甘えてしまう。」

呟くと、再びジルに背を向ける。

「お前に見放されたら、俺は・・・。」

何かを言いかけて、再び自分の言葉に気が付いたように続きを飲み込む。

小さく頭を振ると、今度はもう振り返ることもなく門をくぐる。

「・・・いや、なんでもない。まさに醜態だった。忘れてくれ。」





そのまま宿に戻る気にもなれず、ジルは宿屋前の酒場の扉をくぐる。主人自慢のルーマ・ティーを注文して、カウンターに腰掛ける。

ティアナ様に対する感情には薄々気付いてはいた。

想い人がいたことに衝撃を受けていないかといえば嘘になる。だが、初めて見られた素顔への愛おしい気持ちが勝る。千々に乱れた思いでカウンターに置かれたお茶をすする。

それにしても・・・。

「動転しているにしても、甘えちゃう相手に対して「貴様」はないわよね・・・。」

「何さっきから、一人で百面相しているんだ。」

突然声をかけられて、危うくお茶を吹きそうになる。

「ゼ、ゼネテスさん。な、何でこんなところに!?」

スラムの酒場でしか見かけたことのない男の姿を認めて、ジルは慌てて左右を見渡す。

「普段はこっちじゃ飲まないんだが、料理がイケてるんでな。たまに来ているんだ。」

「そうなんですか。」

他に言葉も見つからず、再び湯気の立つお茶をすする。

ジルの横顔を眺めていたゼネテスが、呟いた。

「ま、お前さんも人を好きになるだろうが、好きになる相手は選んだ方がいいぜ。うまくいかないと辛いからな。」

一体どこまでわかっているのか、意味ありげな言葉にジルはゼネテスを凝視する。

「・・・相手を間違っていると思います?」

ジルの言葉に、ゼネテスが顔を掻いてみせる。

「お前さんの相手が誰かは知らんが、そいつはお前さんが決めることだろう。それに、未来なんてもんは誰にもわからないしな。」

含蓄のある言葉に、ジルは頷く。

「・・・ところで、ゼネテスさんは。」

「あいよ。」

「誰か、好きな方がいらっしゃるんですね。」

酒のジョッキを手にしたゼネテスが、片方の眉を上げる。

「ん〜、ま、好きっつうか憧れていた人はいたがね。」

「それは、どんな方なんですか?」

「そうだな・・・キツめの美人だが結構おっかない剣呑な性格で、誤解されやすくて敵も多いタイプだな。でも身内にはめちゃめちゃ優しくて甘いっつー感じだ。」

「う〜ん・・・。」

少し考えていたジルが、おそるおそる口を開く。

「それって、まさか・・・。」

「ん?」

「まさか、レムオン様!?」

ジルの言葉に、ゼネテスの顎が落ちる。次の瞬間には、割れるような笑い声が酒場中に響いていた。カウンターに伏して、台を叩きながら、笑いに体を震わせる。

「いや、お前さんは本当に退屈しないな。」

存分に笑って、ようやく笑いが収まったゼネテスが、目の端の涙をぬぐう。

「・・・やっぱり違いますよね。よかった。」

少しほっとして、ジルは再び考え始める。

「あ、もしかしてエリス様、とか?う〜ん、違うか。」

ジルの言葉に、ゼネテスの目がわずかに細められる。

「いや〜お前さん、本当にとぼけてんだか、ぼけてんだか、わかんねぇな。」

「え?何ですか、それは。」

「いや、こっちの話だ。」

「・・・でもエリス様じゃないですよね、誰かもっと他に・・・。」

「へぇ。何でそう思うんだ?」

「だって、ゼネテスさん、時々すごく遠くを見るような目をされるじゃないですか。何かを思い出したいけど思い出せないっていうような。・・・ゼネテスさんが、本気で好きだったのは、もしかして・・・。」

「・・・お前さんは、本当に喰えないな。油断していると足元をすくわれそうだ。」

完全に笑いを収めて立ち上がったゼネテスが、ジョッキを置いて立ち上がる。

「んじゃ、俺はそろそろ撤退するわ。キツめの美人によろしくな。」

ひらひらと手を振って、酒場を後にする。



あとには釈然としない表情のジルが、冷え切ったルーマティーのカップを片手に取り残された。




原作中ではティアナが「いらして下さるとわかっていたらドレスを用意させましたのに。」と言っていたので、たまには本当にドレスを用意してくれ〜って感じで書いたお話です(笑)。いや、やっぱりお約束ですよね。農家の娘さんがドレス着て「馬子にも衣装だな。」とか言われるのはね(←ジルオールの世界にこの諺はないと思いますが・・・)。エリスのセリフで「舞踏会で・・・。」とかいうセリフがあったので、どうもロストールには舞踏会があるらしいですね。剣術試合とかもあって、中々楽しそうです(笑)。



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