徒然なるままに

2020.1.1-


 to Top   to Photo   to Saxmente  to Furajotry 


 
かつて護念さんがくれた「ガンバレ和尚」のgif
WitとParodyとCaricatureとInvectiveに付いていくのは大変だろうね

click→ My Youtube ←click


2020.02.18



朝日に輝く村の朝

 昨日から大雪の予報だったが、うっすらと屋根が白くなっただけで、朝日が昇るとそれも消えていった。風邪は冷たいが青い空に綿雲が浮かんで、まるで『早春賦』の歌詞のような景色になっている。

 この時期、私の村では恒例の選挙がある。集落自治の役員を選ぶのだ。自治会長・隣保長・衛生係・体育係ろ交通安全などなど、たくさんの役があるが、高齢化で大変だ。かつて75才の独居の爺様が「体育委員」を受けられてご苦労になられたこともあった。

 が、「選挙」という仕組みは一見「公平」な仕組みのように見えるが、立候補者が全くない中での選挙というのは「多数による役の押しつけ」という様相になる。

 票が集まる当事者は全く知らされない中で、陰で票がまとめられることもあるから、まさに「突如としてのスケープゴート」にならぬとも限らない。

 そんな中で、昨年から少し様子に変化が現れた。「立候補者」が現れたのである。自治会長や副会長などで、毎年「やっさ もっさ」と揉めるのを見て来た次世代の人達が、「立候補する」と手を挙げるようになったのだ。しかも今年は女性の副会長に、勇気を出して手を挙げてくれた人がいた。

 年寄りから若い者を見ると危なっかしさを感じるかも知れないが、経験を積んで行くことで村の行政も出来ていくのだ。押しつけられて何もしないということよりも、よたよたと千鳥足になりながらも、「何んとかしよう」と、前に向いて歩く方が良い。

 年寄りは、「助言者」にまわり、「良き理解者」であり、時には「良き助っ人」になれば良いのだ。「自分さえ良ければ」という浅はかな風潮を考え直し、「皆が寄り添って生きる村」へ舵を切って進む船出を祝福したいものである。

 田舎に住んでいると、いろんなことが身の回りにあるのも事実だ。「共同募金」・「緑の募金」・「社会福祉協議会の会費」・「歳末助け合い募金」・「赤十字社資」などもある。役員が一軒ずつ回って集めていたが、留守の家もあって、自治会費の中に組み込んで一括して応募するシステムにした。

 しかし、「募金」そのものに反対の意見を持つ人もいないではない。「政府がやればよい」という人もいる。税金で対処するのは簡単なことだろうが、それでは「意識」が廃れてしまう。「情けは人の為ならず」という言葉があって、「助合う」ことこそが人間を生きる大切なことなのだ。


2020.02.17

 新型ウィルスの感染が広まっている。人類は過去に何度も感染症に襲われたが、衛生観念の普及と、なにかしら

の免疫が作られたのか、かろうじて乗り越えて来た経緯がある。

「人-人感染はない」と言われたが、今や「人-人感染はある」という事実になった。「変化したもの」が生き残る。「生き残るため」に変化したのではなくて、「突然変異」的に何処かの部分が変化したものが新しい「生命存続環境」の中で行き延びる。

「生物の進化」というものは、その個体が行き延びる方法(変化)を考えて変化したのではなくて、ある部分が少しだけ「突然変異」したものが、新しい「生命存続環境」の中に偶然にも少しだけ適応することができ、またその次の経過の中で、その「変異」が繰り替えされて行く。全てのウィルスが全部「変異」するのではなくて、何100万分の1個が「変異」して増殖し、またその中の何100万分の1個が「変異」して増殖するということが、極めて短い時間の中で継続するということだろう。

 拡大感染を抑えるためには、発生の初期の段階で拡散することを防ぐことが一番大切。それを逃すと、手の付けられないことになる。

 同じ理論に当てはめるとおかしいことではあるが、役所の窓口で「もめ事」が起こり、「課長を出せ!部長を出せ! 市長を出せ!」と、ことが大きくなることが時たまあった。事の発端はちょっと下「言葉のやりとり」のまずさが原因のことが多かった。

 「窓口での対応の最初の20秒を丁寧にすること」と良く言ったものであった。「課長を出せ!」と言われて出で行った課長は、そもそも何が原因なのか別らないからまたまた「こと」の説明を求める。「同じことを何度言わせるのか!」とまた火に油を注いでしまうことになる。

ことほどさように「初期対応」というものは大切なのだ。これを判断ミスすると、「後手後手」になってエライことになる。

 隠蔽をしようとすればするほど「ほころび」が出てくるのと「不信感」が増大する。庶民であれば、だんだんと窮地に追い込まれてしまうのであろうが、タイムオーバーを待てば、また大手を振って肩で風が切れる人たちは良いねぇ。

 どうしても「はぐらかし」と「言い逃れ」にしか聞こえない国会中継を聞きながら「せつぶんそう」を見に行った。道ばたの斜面に、地域の人達が保護している「せつぶんそう」の自生地がある。今まさに「満開」だった。

 直径2㎝程の白い花が、ミゾレが降ろうとしている中に震えるように咲いていた。今夜から明日にかけて大雪との天気予報。なにとぞ「お手柔らかに」だ。


2020.02.11

 今日は火曜日。火曜日の午後は村の中に喫茶店が開きます。有志の当番が看板を出し、回転灯をつけて、かつての郵便局舎を改装


看板が出て開店準備ができました。

厨房は当番さんです。

早速やって来た人達。

笑顔が弾けます

なごやかに時間が過ぎていきます。

した「ふれあいセンター」を使って、「ふれあいカフェ」を開くのです。

 わずかに2時間の開店ですが、多い時は30人もやって来ます。協力金はお一人100円。箱の中に入れるのです。これがコーヒー豆の仕入れ資本になります。村からもわずかな補助金が出ています。今日は入れ替わり立ち替わり15人がやって来ました。

 メニューはティーバック紅茶とホットコーヒーです。コーヒーはコーヒーメーカーを使っていれるので本物の喫茶店並です。

こんな田舎ですから、本物のコーヒーなんて飲んだ事もなかった人もいました。でも今ではなかなか「コーヒー通」になりました。

 到来物のお菓子などが持ち寄られ、「別腹」を楽しみ、話に花が咲きます。

古手のエアコンも公民館から引っ越して来ましたから、暖かく・涼しく過ごせます。

ここでの約束が一つだけ決められています。それは、
「人様の悪口は言わないこと」
です。

シルバーカーを押してやってくる婆ちゃん。杖をついてやって来る爺ちゃん。
みんな火曜日を楽しみに待っています。


2020.02.07

 2年ほど前のことであっただろうか。あるグループの年末の例会があったのだった。例年このグループは、ささやかな「歳末助け合い」に参加していた。

 お金でも良い、品物でも良い。セロハンの袋に入った「まっさらな肌着」も良い。タグの付いた真っ赤な「スカーフ」なとは素敵だ。1カートンのティッシュボックスも喜ばれる。ちょっぴり「足長おじさん」の気分を味わうのである。

 しかし、「例会の案内状」にはこんな風に書いてあった。

恒例の歳末助け合い運動の季節になりました。例会にご参加の時には、ご家庭で不要になった品物をご協力していただければ幸いです。

と書かれていた。

 「ご家庭で不要になった品物」?

 歳末助け合いは、不用品処理の機会なのか?

 歳末助け合いは、「着古した物でも良いではないか?」という「驕り」の思いで行うことなのか?

 「名を成した人」がリーダーをしているグループで、こんなにも貧相な「感覚」を目の当たりにすることがあった。困っている人を見下した認識の上に立った「歳末助け合い」。こういう感覚で行われてきたのかと思う。

 「貧者の一灯」という仏教説話があるが、単なる貧富のことを言っているのではなく、ものすごい中味のあるお話だが、「心の貧困」を伺い知ってしまった。

恒例の歳末助け合い運動の季節になりました。例会にご参加の時には、どうぞ「心のこもった一品」をご持参ください。
 
こういう表現のしようがあろうものに。

 少々調べねばならないことがあって、隣村の子孫のお家を探すことになったが、今では調べることが殆ど不可能に近い状態になってしまった。100年も経過すると人の記憶の彼方に行ってしまうのだ。

 古い古い「お墓」の祭祀後継者が誰なのかということだ。明治28年に調査された一覧表には名前が

宗門人別帳 (住民台帳兼課税台帳のようなもの)
妻には名前が書かれていない。庶民もハンコを持っていた。

明記されているが、果たしてそのご子孫たるや如何におわすかと。

 かつての『宗門人別帳』には、出生地は記載されていても「名前」が記載されている例は極めて稀である。明治になるまでは『過去帳』にも「〇〇兵衛の妻」とか「〇〇兵衛の女」としか書かれていない。

子どもと年寄りの女性は「名前が書かれていることが多いが、それでも「〇〇兵衛の母」とあって、結婚している女性は「夫の所有物」という見方になっていたのだろう。夫と死別して、いわゆる昔の用語での「女世帯」では女性の名前が書かれている。そうしないと判別出来ないからだろうが、日常的には「〇〇さんの奥さん」で不便をかんじなかったからだろう。

 目星を付けたお家に伺って訳を話して『過去帳』や『位牌』をも見せてもらったが「名前」がしっかり書かれている女性には遭遇出来なかった。

 上野千鶴子さんの書き込みに、「日本は何もしなかった。ジェンダー・ギャップ指数は153ヶ国中で過去最低の121位となった」という。他の国は「男女平等」という意識づくりに力を注いで来たから日本を追い越して行った。「何もしなかった」から、追い越され、「おいてけぼり」にされるのは当たり前のことだ。

日本は「男女が共同して生きて行く国」という建前と実際がかけ離れている国だ。仏教経典の女性差別と、「ケガレ」意識が女性蔑視の文化を築いて行ったのは間違いない。入学試験で女性の採点に差があったのは今年発覚したことではない。採点に意図的な差別があったのは、「女性は妊娠・育児等で休んだり辞めたりするから戦力にならない」とあった。

 いや、それは事実であるだろうが、そういうことを全て女性に押しつけるのではなくて、社会的にカバーし支援して行く「社会構造」を構築しないと、人口減少になり、社会の「相互扶助」という仕組みが崩壊してしまう。

 自治会の役員は男の名前でなければならないという「男性優位観」が亡霊のように支配している。「女性が自治会の役員では駄目なのか」と言うと「時期尚早」と言うのだ。いつになったら「時期相応」の時代になるのかと。「時期尚早」という観念でものごとを先送りしようとすることが、実はその社会構造にとっては「獅子身中の虫」になるのだ。進化はしない。後退していくことになる。

 明日、大阪で「土俵の女人禁制」をテーマに講演とシンポジウムが開かれる。「伝統と性差別」「大学入試での女性差別」などが議論に上がると新聞記事に書かれていた。参加して来ようと思っている。


2020.1.31

 何んとなくYouTubeをサーフィンしていると懐かしいたくさんの曲に出会うことになった。『あの素晴しい愛をもう一度』、『風』、『花嫁』などなど。いや『西海ブルース』もなつかしい。

 もう50年も前の出来事だったなぁ。「はしだのりひこ」は逝ってしまった。年齢は重ねたが気持ちは当時のままだ。若い時代は革新で、中年になったら保守に変り、晩年には右傾などという人をたくさん見て来た。どうしてそんなに「変わり身」が出来るのかと不思議さよりもブレていくことに「軽蔑」すらおぼえてしまう。

 いつまでもブレないからマイノリティーになってしまった。妥協しないから衝突してしまう。いやもうそれでよい。おべっかを言い、忖度し、自分を殺して「幇間」のような生き方はしたくないのだ。わずかな募金も避けて通るような けちん坊な生き方はしたくない。

 そんな「若い日の想い」を思い返した。若い日の想いを貫いているなぁと、ちょっとばかり誇らしげに思うのであった。

 心を金のために売らないで行こう。生き方の判断基準に「損か得か」を持ち出さないで行こう。お宮に行けば少しばかりのお賽銭を。お寺に行けば少しばかりのお賽銭を。道ばたで高校性が募金をしていたら、少しばかりのコインをそっと箱へ入れて行こう。

 寒い日に、近所の婆ちゃんに出会ったら「風邪ひくなよ」と声をかけて行こう。もっと言葉を素直に理解しよう。

「募ってはいるが募集はしていない」とはどう言うことなのか。「ウソ」や「言い逃れ」、「知らない」「破棄した」と誤魔化すのは止めようではないか。そして、軍部が社会を支配していたあの時代を賛美することを止めようではないか。ナチに協力したことを今になっても謝罪した国のリーダーもいる。そんな国も存在するのだ。

 A高校出身を自慢げに言う。BもCもDも、4つも高校があった。そういうことを自慢する時代は終わった。そんな亡霊にしがみついているみっともさとKYガチガチの老人が可哀想だ。♪野に咲く花の名前は知らない だけど野に咲く花が好き♪と歌ったのはもう50年前のことだったぜ。

 思い出すことだ。昭和10年代。髭を蓄え、ピカピカの長靴にサーベルを下げて、颯爽と軍馬にまたがってこの村にやって来た中将閣下。村人の多くが出迎えているその前で、馬が尻を振ったのだ。閣下は見事に馬から振り落とされた。80年経った今も、「馬に振り落とされた閣下」の話は忘れられていない。人の記憶は80年どころか1000年経っても言い伝えられる。子孫がおる。「この人の爺さんは馬に振り落とされたんだ」と。

 天台宗の慈覚大師(圓仁)が最後の遣唐使と共に唐の都へ渡って9年間、彼の地で勉強をした。広い中国を旅するには、村から村へと渡り、民家に宿泊させてもらう旅だったが、彼は9年間の「日記」を残している。その中で、「今夜の宿の主人はドケチであった。粗末な茶碗一杯の飯と煎餅布団だった」と、村の名前と主人の名前も記して残しているのであった。それも一人や二人ではない。もしかしたらその子孫達が居るかも知れない。『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』(中公文庫)だ。ケチは1000年経っても言い伝えられるからケチらない生き方をすることが肝要だぞ。


2020.01.25

寒さがちょっとばかりやって来た。が雪は降らない。あちこちのスキー場は雪がなくて商売にならないだ

2本あっても一度には1本しか・・・

ろう。こればっかりは人間の自由に操る事はできないが、「地球温暖化」が原因であろうことは想像の域だろう。「大寒」というのに。子どもの頃は「竹スキー」や「ソリ」で雪の坂道を滑ったものだ。

 環境問題や地球温暖化の問題について、素人の発言は・・・とイチャモンを付けた肩書のある(?)大人に対して、「博士号がなくてもメッセージを発っすることは権利である」というようなグレタさんの見事な切り返しは名刀正宗のような感じがする。

 物事には賛否両論があるのは世の常だが、経済優先で次の世代のことを考えずにやって来た「金の亡者」たちの何とオソマツなことか。

「大人にいいように操られている」という記事を見たが、大多数の大人が、極々一部の金持ちに操られているのも事実だ。世界の人口の4分の3の人間の所得の合計よりも、2000人強の大富豪の収入の方が多いというのは、まさにものすごい極端な「貧富の差」が生じ、金に物を言わせてこの星を自由にしようとしている「限りない欲望」の姿だ。

 今また世界が注目しているのは新型コロナ・ウィルスによる肺炎の拡大。こういうものは「初期対応」を間違うと拡散して行くのはかつての経験からわかっているはず。病気だけではない。「隠蔽」がどのような結果をもたらすかは歴史が証明している。

 如何にシュレッダーでもみ消そうとも、起こったことは起こったこと。辻褄合わせをしようとすればするほど「ほころび」が広がる。ウグイス孃の日当も、桜を見る会の経費も。ウン? モリカケはどうなった?

毎日碌なことの報道がない。4人の子どもを放置してパチンコに行き、乳児が死亡したというのが報道された。えっ? よく見ると昨年の11月の出来事ではないか。困った世の中になったものだ。

 そんな中、6日ぶりにSaxを吹く。練習中の『The Entertainer』だ。ピアノ伴奏に合わせると突っかえてしまう。テンポを「74」にまで落とす。とにかくブレスの場所が少ないのと、4連符の連続で気持ちがあせるのだ。ここ3ヶ月はこればっかり。その内、伴奏に合わせて行けるようになろうて。


2020.01.16

明日は阪神淡路大地震から25年目になる。大きな縦揺れが暫く続いて、布団をかぶって堪え忍んだことを思い出す。それから役場では救援態勢を敷き、友好都市であった芦屋市への支援を始めた。

 自治会長さんに集まってもらい、救援物資の手配を各集落で直ちに初めてもらうことが第一の仕事であった。集まって来るお米・衣類・日用品などで、公民館のロビーはすぐにいっぱいになった。

 給食施設を使っておにぎりを作る。学校給食の開始時間前にということで、早朝5時から女性グループに協力を戴いた。出来たおにぎりは車に積み込み、消防指令車の先導で、唯一通行できた六甲トンネル経由で芦屋市へ運んだのであった。物流が回復する迄の1週間であった。

救援はどうあるべきかということが、日にちが経るにつれて変わって行くことを実感したのであった。25年前のことを昨日のように思い返す。

 震災の経験者が少なくなって来たと報道される。でも、当時高校生だったら、今はまだ40代だから、たくさんの人が経験者として存在するはずだ。経験した事を次の世代に言い伝えて欲しいものだ。

 それにしても、最近の政治家(屋)と言われる人達の「不見識」には恐れ入るものだ。「収賄」、「公選法違反」の容疑で捜査されている。議員の報酬は「身分」に支給されるので、「雲隠れ」して国会に出なくても支給されるのだというから、庶民感覚ではスンナリとは納得出来ない。

 「議員を辞職するか?」との問いに、「捜査に協力するために辞めない」と言われるが、辞めても捜査に協力出来るよねぇ。その内、誰かが「もみ消し」てくれるのを待っているのだろうか?

「言い逃れ」「居直り」「はぐらかし」「忖度」「知らぬ存ぜぬ」「記憶にない」と、便利な言葉が用意されている。こんなに「おかしい?」と思うことが次から次へと出て来るのは、余り「記憶がない」のである。

最早「時代劇」の世界を見ているようだ。「倫理観}が何処かへ飛んで行き、「良心」は喪失されているのではないか?

「主権在民」と教わったが、「民」は「税金を納める為に生まれて来た虫」とでも思わないとやっておれんのが「政治家(屋)」という商売なのだろうか?

 選挙のためにウソを並べ立て、ペコペコ頭を下げるが、当選した途端にふんぞり返り、「知らぬ・存ぜぬ・記憶にない」と言えばよいのだから、「3日やったら辞められない」商売なのだろう。そして、これは最早「性癖」なのだろうが「失言」が繰り替えされては「取り消され」る。「2000年にわたって同一民族」などは歴史的にはあり得ないことが立証されている。

 「事実が歪曲」されて行く世の中は本当に「幸せな社会」ではない。「忖度」すべきは財閥や権力者ではなくて「国民」に対してだ。


2020.01.15

 朝夕寒くなって来た。村の年寄りも外へは出たがらない。コタツに潜り込んでいるそうだ。そんな生活をしていると、「もうまた晩ご飯か?」と、一日があっと言う間に過ぎて行く。

 今日は猫の通院だ。点滴をしてもらって薬をもらって帰る。人間様よりも支払いは高く付く。私などは「1割負担」だから医療費が高いとは思わないが、本当は自己負担分の10倍が医療費なのだから、先日の検査の採血が3千円だと言うことは、医療費の実額は3万円ということになる。

 猫は保険に入っていないので、点滴と薬代が8100円。これが月2回。トイレの砂代、猫用フード代で、お小遣いの大半が猫に消えて行く。

 私の兼務している寺の集落にはちょいちょい猫が捨てられたり、野良がやって来る。その都度村の人は、「かわいそうだから」と家猫にしてやるのだ。そして、名前をつけ、調子が悪くなると獣医さんへ連れて行く。鼻が白いから「はなじろう」というのもおった。もと野良君が3匹もいる家はザラなのだ。

 「おーっさん 猫の手術代で2万円かかったよ」と言う。もう一方では、捨て猫が警察の「遺失物」になっていて、「かわいそうだ」と2匹の子猫の里親になってしまった人もいた。いや、実はもう25年も前、町役場の猫担当だった「課」に配属になった新卒の職員が、早速「猫担当」に。役場に持って来られる子猫は「動物センター」へ連れて行かれて「殺処分」になる。

 毎回センターへ連れて行くと「かわいそう」になって、その新卒の職員は家に連れ帰って子猫を飼っていたという。一時は「猫屋敷」になったというから、まさに「優しさ」の象徴のような。

 「動物愛護」の考え方が今のような状況でなかったから、避妊手術もしないで、生まれた子猫は段ボール箱に入れて道ばたに捨てたり、役場へ持って行ったりの時代だった。今から思うと「かわいそう」な対応をしていたものだった。

 が、今も結構の野良猫がおり、飼い猫もたくさんいる。飼い猫は避妊手術を受けているのが殆どだろうが、野良は数ヶ月ごとにお腹を大きくしている。

 捕まえて獣医さんへ連れて行って避妊手術をと思った。そしてネットで調べると、そうした事に対する補助制度を作っている自治体が増えて来たので市役所へ行ってって訊ねたら、「本市では補助制度はしていない」という。

 「地域猫」として、対応してやりたいとは思うが、ドンドン増えて行くのも・・・。あの村に迷い込んだ野良猫は、保護した人が獣医さんへ連れて行って自費で術を受けさせている。一度や二度ではないし、「年金暮らし」の小規模農家のばぁちゃんでは大変だ。

 丹波篠山市も「野良猫対策(動物愛護として)」としての「避妊手術助成金制度」を作って欲しいものだ。それも、「心ある人」の善意に乗っかった「補助制度」ではなくて、捕まえて連れて行くのはボランティアであっても、手術代は全額を公費負担で獣医さんへ直接交付されるような仕組みをだ。

 かつて、道路などで死んでいる猫や狸などを回収して、畑の隅などに埋葬した人には、1件につき500円が支給されていた。市に合併する前にあったあの制度はどうなったのだろうか。

 家猫と野良猫は、同じ命に生まれて来たのに「天国と地獄」のようなものだ。「野良猫は追っ払ったら良い。水をか

我が家のペースケ

けたら段々来なくなる」と窓口で言われたが、こっちで追っ払ったらあっちへ行くだけ。「猫も生きて行きたい」わなぁ。

 間もなく「年寄りは邪魔者」の社会がやって来る。年寄りは水をかけられ、追っ払われるのだ。運の良い年寄りは「姨捨山」へ連れて行かれる。いやなに、老人施設だ。

 先日、「認知症」を専門に研究していたお医者さんが認知症になった。「自分の姿を取材してくれ」というので「ドキュメンタリー」が放送されていた。

 元気な時は「デイサービスに行きなさい」と指導をしていたが、いざ自分が認知症になってデイサービスに行ったら、何んとつまらん所だとつくづく思ったという。みんな一緒に同じ事をする。リハビリだとは言いながらも、それぞれ人は好みがあって、画一的なことをされるのは嫌だと思ったという。私なんどは、「チイチイパッパ」は絶えられぬと思う。

 それでも施設に入所するのは、水をかけて追っ払われるより良いかも知れない。この寒空に、塒(ねぐら)でうずくまっている野良猫を思うと、「かわいそうになぁ」と思われて仕方がない。


2020.01.11

 村の3大イベントとは、正月早々の「十日戎」、夏の「地蔵盆」、師走の「義士祭」だ。そのほかに、春の「桜を見る会」も

準備完了の十日戎

、秋の「敬老会」もある。とにかく忙しい村なのだ。

 3大イベントの「十日戎」が歴史的に盛大に行われるようになったのは明治30年から。「日清戦争」で勝利したとの好景気で、それまで小さな洞であった蛭子社を大きく再建し、盛大に蛭子祭りを行うようになった。

 村は宿場町で、旅籠が5-6軒もあり、全ての家々が何らかの商売をしていた。「蛭子祭り」は格好の「客寄せイベント」になって行ったのだ。商家の主は商売に大変なので、「青年会」がイベントを請け負った。

 大阪と福知山を結ぶ「阪鶴鉄道」は明治32年に古市駅も開業するので、その少し前で、旅人はテクテク歩いて宿に泊まりながらという時代であった。

 その頃から今まで、村は主宰者の変遷を見ながら今日まで「十日戎」が開かれている。宗教の別も職業の別もなく、「村のイベント」として村の中の4区画が4年に一度の当番で運営している。

 このイベントの狙いは「商売繁盛」を願った「吉兆」を売りさばくことである。この売り上げが当番の向こう4年間の経常経費として充当される。

 いや、4年間の経費が捻出されるというが、この「お祭り」の為の労役費は「無償」なのだ。これが労賃を支給されたら「赤字」になる。

 信仰的なものは初めからない。「イベント」なのだ。だから宗教の別もなければ職業の別のない。坊さんも村の一員として一緒に強力する。いや、この村はそういう「堅いこと」を抜きにしている。坊主が自治会長に選ばれることもある。「政教一致」みたいなこともある。が、特定の宗教を押しつけることはない。

 2つ目の「地蔵盆」も天保14年に勧請し、夏の客寄せイベントとして続けられてきた。3つ目の「義士祭」は昭和7年から旧村の一代イベントとして村長が先頭となって開かれてきた。

 つまり、この村のイベント(?)は、「信仰」とは無関係に存在している。そんな「十日戎」にも近在近郷の人達がやって来て「吉兆」を買ってくれるので、村にとっては「ありがたい」ことなのだ。今や町の中の商売は殆どなくなり、少子高齢化の典型的な村なのに、なぜかこの村の「吉兆」の人気があるのが不思議なのだ。100年もの時間がけいかすると、最早大昔から「敬虔」にやって来た宗教行事のように錯覚するから不思議なものだ。難しい言葉で言えば、「ことの濫觴を尋ぬれば」ということになるが、そもそもの発端はお「大売り出しの仕掛け」だったのだせなぁ。

まだ眠っている村の中

「吉兆」の売り子は、「爺ぃ」や「婆ぁ」がやっていたが、今年は学生アルバイトを頼んだので、少々華やかであった。しかし簡素化は当然避けて通れない。「餅撒き」は数年前から廃止された。これが結構大変な手間暇がかかる。櫓を組み、景品の提供を募り、餅を撞いて、景品番号を入れる。当番のみんなは本音を出すのだ。「餅撒きを止めにしたので助かるなぁ」と。4年間の経費は欲しいが、さりとて手間暇がかかることは御免蒙りたいと。この当番の出役に答えられない家が出て来た。4年先にはもっと出て来る可能制が高い。

マービックの規制範囲の飛行許可証が航空局から届いた。が、このマービックが、機体などのシステム異常がない限りは、相当な操縦テクニックは不要な程に安全飛行が出来る。インスパイアーより遙かに操縦が楽なのだ。障害物に近づくと警報が鳴り響き、自動的に停止する。手軽に村の風景を撮影できるのだ。



2020.01.05

「10時晴れはア◇が喜ぶ」という言葉があって、10時に晴れているからその日は1日中晴れるとは限らないのだ。が、10時に晴れていたので、お隣の猪名川町の大野山へカメラを持って登ることにした。

篠山には「スーパー林道」がなくて、高い所へ行くには「エッチラ オッチラ」と登山しか方法がないが、この大野山の頂上に

棚田の集落

は「猪名川天文台」があって、車で頂上まで行けるのが嬉しいかぎりだ。

 細い一方通行の道を8合目まで登って行くと、低木には雪がうっすらと付いていた。雲が一面に広がっていて、ビデオの画がきれいに撮らない。

 北は敦賀、南は大阪から家島・小豆島あたりもかすかに見える。お天気であれば瀬戸内海の水に反射したキラキラとした景色も見えるという。篠山は山の合間に一部分が見える。寒風が吹いていたので、お天気の日に再来すべく山を降りることにした。

 山の麓は柏原という谷間の村で、段々畑の中に古民家が建っている。童謡を連想させる風景が素晴らしい。ここはやはり季節を選んで弁当を持ってやって来るべき所だった。

 昨年末も相変わらず「喪中はがき」が10通ばかり届いた。が、出された方達は本当に「喪」に服しておられるのか極めて怪しい。お葬式に業者の方が関わって執行されるようになってから、こういうものが「付加価値」として行われるようになり、差出人の方は「喪に服する」とはどういう生活を過ごすのかを知らないでハガキだけを出しておられるのではないかと思うことがいっぱいある。

「喪中・忌中」というものは『服忌令』というものに定められており、江戸時代にもたびたび改訂されたが、明治7年(1874)の「太政官布告」で改訂されたのが最後なのだが、この「布告」が廃止された形跡がない。廃止になったものは欄外に日付とともに廃止の旨が記載されているのだ。つまり、この『服忌令』は、守らない人もいるが布告という法制上では生き残っていることになる。

 『法令全書』というものに慶応3年からの布告や法律が掲載されている。『服忌令』は『第108号 服忌は武家の制を用い京家の制を廃す』という題名で布告されている。

「喪に服す期間」と「忌中の期間」は、亡くなった人と自分との関係性によって期間が異っている。爺ちゃんが亡くなった時に孫は「服30日・忌10日」だか、これはあくまで嫡孫(跡取り)で、末孫( 跡取りでない孫)は「服10日・忌3日」なのだ。

 父母が亡くなれば、子は「服13ヶ月・忌50日」。夫が亡くなれば、妻は「服13ヶ月・忌30日」。妻が亡くなれば、夫は「服90日・忌20日」。夫の父母が亡くなれば、妻は「服150日・忌30日」。しかし、妻の父母がな亡くなっても、夫は「服」も「忌」も勤めないことになっている。

 これは「家制度」「男系制度」のもとで作られていった制度だから、現在の人権感覚ではおかしなことになる。おかしなものであるが、制度が男女平等ではない時代に作られた、そして、今や誰もまともにはやっていないことである。「やりもしないこと」をわざわざハガキで通知することもない。50日も経過したら普通に生活したら良いと思う。

 で、たまに「喪中はがき」に一家全員の名前が連られているが、そもそも、そういうことではなくて、子・孫・妻など、亡くなった方との関係で期間が違うから、連署の「喪中はがき」というものは、この制度から言えばおかしい書き方になる。

 いや、それよりももっと驚いたのは、年末にお葬式をした爺ちゃんから年賀状が届いたことがあった。早々と年賀状を用意して投函した後でお亡くなりになったのだ。そういうこともよくあるのだ。元旦に亡くなられた方も何人かおられた。

 おかしなものは、「六曜」もそうだ。大安・友引・仏滅などは「占い」そのものなのだから、そんなものがカレンダーに堂々と印刷されていること自体がおかしい。「恵方」もそうだ。

 「政教分離」ということを知ったかぶって言う人がおるが、先の戦争が終わって、新しい憲法が制定されたときに、「政治に国家神道を結び付けないように」ということで言われたことなのだが、自分の都合の良いように解釈して、「政教分離」という言葉を利用する人がおる。

 ならばクリスマスパーティーはどうなるのだ? 七夕祭りはどうなるのだ? 村のお宮のお祭りはどうなるのだ?

 「政教分離」は「政治」に宗教を利用しないことを言うのであって、村の行事をおこなうこととは関係がない。厳密にここで言われる「宗教」は「国家神道」のことなのだから。「朕を現人神」にし、その「現人神」というものを利用して国民を統制し、軍部が暴走して行ったあの政治体制を二度と惹起させない為の「いましめ」である事を理解すべきなのだ。


2020.01.04

 静かな隣の集落


 早くも4日が過ぎ去った。ようよう片付けが一段落する。宗玄寺は正月3日の夕方から正月飾りを片付ける。年来の慣習だ。

 除夜の鐘の為の焚き火の後始末、本堂のお飾りも普段に戻す。ぜんざいの後始末は大変。抹茶席の後始末もだ。たくさんの抹茶茶碗が片付くのを待って「水屋」の後片づけになる。茶碗の片付けの合いの間を狙って初フライトに行く。

 紅葉の撮影以来のマービックだが、山はモノトーン。きれいな色彩はどこにもない。雪が積もって、一面の銀世界はまた写真になるが、このところの景色はどうにもならない。撮影ではなくて「飛行訓練」のようなものだ。

 村の中は「藁灰に水を打った」ように静まり返っている。十日戎の幟旗が退屈そうにヒラヒラとなびいているだけだ。


2020.01.01

気楽に茶席にやって来る人達

 何もない。いつもと同じ元旦だ。昨夜はお気が少し気になったが、気にしたところでどうにかなるものではない。それでも一時はあふれるほどの人が除夜の鐘を撞きにやってきた。

 ぜんざいに舌鼓を打ち、本堂内ではお茶席にちょっぴり畏まって座っている。知り合いなのだろうが、シドニーからやって来た女性を伴ってやって来た家族の方がいた。英語でないとと身構えたが心配無用だった。日本語がペラペラなのだ。大阪からはもう今年で25回になるという家族も。

 戦争での「金属供出」によって「出征」した釣鐘が復活したのは197

外は除夜の鐘で年を越す

5年。45年間の月日は、最早3代目の人達がやってきている。初めの頃に鐘を撞きに来ていた人達はいなくなり、孫や曾孫の世代に変わっている。

 今のところご近所からの苦情はない。108つの記念品とお茶席の饅頭と、大鍋のぜんざいはすっかりなくなってしまった。「なにごともない」年であることが一番だ。

 兼務寺の修正会も終り、門徒さんらとお寿司やたくさんのおつまみを囲んで暫しの新年会。この寺での恒例行事だ。毎年記念写真を撮って額に入れて本堂に飾る。

 「額は増えていくが、写っている人が段々いなくなる」と。かつてはたくさんの子どもたちで賑やかだった本堂も、みんな成人してしまった。「新年早々敬老会だねぇ」とみんなで大笑い。