山 国 丸 遭 難 記

                 (便乗した女性から同僚の遺族への報告)

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 入間市の大崎さん(義姉を山国丸の戦没で失った)から、同乗していて助けられた「吉野富美子さん」の本船遭難時の記録が寄せられました。吉野さんはラバウルの海軍集会所の会計係で、義姉持田さんの同僚でした。

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 昭和18年12月21日にラバウルで山国丸に乗船して、25日にトラック島に着きました。トラック島に1週間居りました。元旦は船の中で祝いました。

 1月2日の午後4時出港して11日に横須賀に着く筈でしたが、10日、八丈島の沖で一緒に来た山彦丸という船が、5時半頃魚雷にやられましたので、その船をひいて1日航海するうち、急に山彦丸が真中から二つに割れてしまい、後半分が浮かんでいるので、これを八丈島までひいてゆくことになり、3日間もその周りをぐるぐる廻っているうち、1月14日の午前0時35分、突然夜のしじまをやぶり船が左右に激しく振動しました。そのうち火薬の匂いがぷんぷんしてきて、またグラグラとゆれました。あとで聞きますと魚雷11発中3発が命中し、1発は不発とのことでした。

 私達は船の後の方に登っていきましたが、船が50度位にだんだん傾き、登っていくとずるずるすべってしまいそうでした。皆がひとかたまりになっていましたら、1人の兵隊さんが「大丈夫、この船は2〜3時間はもつ」といっているうち、船がゴーツというすごい音と共に見るみる波にのまれていきます。私達は救命胴衣も行き渡っていませんでしたので、男子も女子も“万歳”を叫び、船と共に巻き込まれました。

 男の方が4人助かりましたが、其の人達は下の方にいたので、早々に飛び込んで巻き込まれなかったそうです。持田さんお二人は私達のところには見えず、避難が遅れ下の方にいらしたのかもしれません。船の人が女性だけでもボートに乗せようとしても、ボートがひっくりかえり、どうしようもありませんでした。

 私は渦にまかれて苦しさのあまり気がつき、水面に出るとき頭に板がぶつかり、それにつかまって1時間半以上浮いていて、カッターに助けていただきました。
 後の人は浮き上がってもつかまる物がなかったのか、それとも船の下になってしまったのか、上から落ちてくる金物で怪我をされてそのままになったのか、全然わかりません。

 後で兵隊さんに聞きますと、女の人が4・5人かたまって、死んで浮いている所を見たと言われました。女子7人中6人の方が亡くなりました。私は船に助けられて、女子では私1人が助かったと聞いて驚きました。

 また、あの生々しく恐ろしい出来事が目に浮かび、万歳のあの声が耳の底に残って、女性の身でありながら雄々しく散った御霊に、この仇はきっと討つと誓いました。

                                              −以下略―

【山国丸の航跡】

○昭和18年(1943年)

12月25日(土)トラック島到着、7日間停泊したので19年元旦を船内で迎えた。(この間ビスマルク諸島からの引揚者を乗せた輸送船数隻がトラック島に結集したと思われる)

○昭和19年(1944年)
・1月2日(火)午後4時、山国丸他の輸送船団がトラック島を出航、11日横 須賀着予定。
・1月10日(木)午前5時30分、僚船山彦丸が八丈島において被雷。
 損傷した同船を山国丸が曳航して八丈島に向かった。
・1月11日(金)山彦丸は船体が真二つに割れて前部は沈没。
 残った後部の周囲を山国丸は3日間も旋回していた。
・1月14日(月)午前0時35分、山国丸は敵潜水艦の雷撃を受け、大音響と共に船体は50度に傾いた。甲板にいた兵士が「大丈夫、2〜3時間はもつ」と叫んだが、被雷後17分、轟音をたてて沈没した。
               (戦没船を記録する会・会報第10号(1996年発行)より)