船は真っ二つに折れて沈んだ
 
辰羽丸受難の記録   玉田 喜作
 
辰羽丸

 2月15日(昭和19年)、松本連隊を乗せた輸送船団はトラック北方エンタービー沖にさしかかっていた辰羽丸の兵士たちは、敵潜の海をようやく乗り切った安堵感とまだ見ぬ南の島への期待に胸を躍らせていた。
 トラック基地はサンゴ礁に囲まれた天然の要塞をなし、ここに日本海軍は30年来、連合艦隊の根拠地として築き上げ世界3大要塞といわれていた。
 この中で春島が一番大きく、周囲16キロ海抜230メートルのゲンコツ山の陰には、海軍の第1、第2飛行基地があり、零戦、一式陸攻がずらりと機首を並べていた。トラック島の攻撃主力はもちろんここにあった。小野少佐指揮下の第3大隊が先発隊で既に1月7日到着して、この山一帯に陣地を構築していた。

 昭和19年2月17日、58機動部隊が猛然と襲いかかったのはこの時である。
 午前4時20分、グラマンに奇襲された日本機は1機も上空にはなかった。完全なる敗北であった。富山連隊は水曜島、金沢連隊はマーシャル群島、松本連隊はまだ主力が到着していない基地の心臓部夏島は整備ができておらず無防備状態だった。

 石油タンクは爆破され前戦に送る多量の物資も荷積みにされたまま焼き払われ、見られない惨状となっていた。幸い連合艦隊の戦艦、大和、武蔵以下数十隻の艦隊は2,3日前パラオに逃れて事なきを得たが、環礁内にいた新田丸、図南丸など20数隻の艦船が赤腹をさらして転覆していた。
 58機動部隊の艦載機にトラック基地が空襲を受けている頃、松本連隊を乗せた輸送船団、暁天丸、辰羽丸、新京丸もトラック北方海面で期を同じくして敵機動部隊の攻撃を受けていた。

 この払暁、敵潜水艦に撃沈された僚船、暁天丸の第1大隊師団大行李など約2千の兵員を見殺しに必死に危険海域を脱出していた辰羽丸にグラマンの1群が襲いかかったのはこの時である。
 上甲板で必死に対空射撃をしていた船舶砲兵や機関銃陣地は1発の爆弾で吹っ飛び、これが第3ハッチ中甲板の積荷のダイナマイトに引火して大爆発、砲座は崩れ、兵隊たちは肉片となって跡形もなく飛び散った。それはあっという間の出来事だった。
 第3ハッチ付近より辰羽丸は真っ二つになり、見る見るうちに沈みだした。兵隊も乗組員もブリッジ付近が完全な全滅に近く、命令系統の上層部が殆ど戦死であった。

 この船には松本連隊第2大隊(大隊長 北川博少佐)と52師団野戦病院、 計2千数百の兵員と膨大な軍需品が積み込まれていた。乗組員は戦時体制で見張り員および備砲隊、臨時賄い員を含め百数十人乗組んでいた。私も甲板員(2等水夫心得)として乗船していた。

 空襲と同時に、船首チェンロッカー付近に行き船首の高射砲、弾薬の運搬係で機銃掃射の中、船首まで急行した。途中管甲板長は3番ハッチ上の戦車の上にいたが、もろに吹き飛んだと思われる。爆発の時、船首の中にいたがものすごい爆風と火災が飛び込んできた。瞬間気を失ったようだが、次の瞬間、無我夢中で外に出ようとしたが入口が塞がり、1箇所開いていた箇所より火の中を外に出られた。船首の中に相当な人数がいたが、われ先となり人を押しのけて出たと記憶にある。

 船首に上がったとき、船は相当持ち上がり2,3人を見たがそれどころではなかった。庫手が頭から血を流してハンドレールにもたれていた。大和田君が右舷から勢よく飛び込む、小林君、益井君、玉井さんもそれにつられて飛び込む、私は船首に行き飛び込んだら鎖の上に止まり、また飛び込んだ。
 大和田君、益井君、小林君4,5名で筏に捕まり漂流していた、これで終わりと思った。
 兵隊も2,3名いたが、重装備で沈みながら兵器を捨てられず、しがみつかれ装備を捨てるのに大変だった。爆発より二つに折れて沈没まであっという間だったので相当な犠牲が出たと思う。

 暁天丸遭難者の救助を終わり(駆逐艦藤波)が辰羽丸沈没現場に到着したときは既に夕暮れが迫り、しかも狭い館内には暁天丸の救助者であふれていた、暗くなった海面には相当な人数が残っていたが、駆逐艦艦長は転覆の恐れあり、と救助の打ち切り命令を出した。激しいやり取りが陸軍と軍艦にあったが、暗闇の中に非情な出艦命令があり、艦は静に動き出した。黒い闇は刻々と深まり、もう後救助に来る見込みは全くなかった。絶望とも不信ともつかない地獄の声を後に駆逐艦は見る見る速力を上げていった。

 幸い私等は一番先に救助された。数時間も漂流してせっかく救助されたものの、気を緩めた瞬間眠るように息を引き取るものが続出し、その夜のうちに60名の遺体がそのまま水葬された。辰羽丸の乗組員もいたが、油で汚れたり負傷していて見分けがつかず、操舵手の楠本さんのみ発見、軍艦の上で死亡水葬しました。重傷者は3航士(後西宮辰馬汽船海員学校教官)、次席通信士(中村亀さんー陸勤海務部勤務)、その時の船団は全滅であった。暁天丸、新京丸、辰羽丸で救助されたものは乗組員からすれば少数で、1割にも満たないのではないかと思われる。

 松本連隊の本隊到着の知らせにトラック基地は沸きかえった。いつ敵が上陸するともしれない不安におののく廃墟の島で、それはまさに百万の援軍来たるとの喜びであった。だが、入港してきた1隻の駆逐艦から降り立ったうすよぎれた浮浪者か現地人ともつかない得体の知れない1団を見て、迎えの人々は先ずわが目を疑った、それが待ちに待った松本連隊かと聞かされて、唯唖然として声も出なかった。

 それもそのはず、上陸してきた兵隊は、誰も兵器らしいものを持っていないばかりか、殆ど帽子もかぶらず靴さえ履いていなかった。破れシャツ1枚のもの、ズボンのないもの、フンドシ1本のもの、それがぞろぞろ力なく桟橋を上がってくる姿は仮装行列のようであった。しかも、輸送船団全部が沈められて、生き残ったものは駆逐艦に収容して、たったこれだけの人数だと聞かされ、師団長の驚きは想像以上であった。
 トラック島大空襲の詳報は大本営を驚かし、世界戦史に珍しい戦時中の参謀長の更迭という人事が行われた。かくして米軍は、早くもB29発信基地サイパンへの大規模な上陸作戦を開始したのである。

 軍人は配置されたが、船員、軍属は現地招集の噂も出たが、各船の乗組員ごとに集合して次の命令を待った。負傷者はトラックの海軍病院へ入院させ看護当番を残せとの命令があり、二宮、他1名が残った。
 2日後命令があり、駆逐艦藤波に移乗してトラック夏島よりパラオに向かう、艦の中は遭難者でいっぱいで凪の時などは砲塔の下とか船尾などにいた。警報があると兵員室、弾薬庫などにいれられた。2日位かかりパラオについて鰹節工場に入れられ待機する。2〜3日いたと思う。

 郵船の船で、単独台湾の高雄港へ行くことになった。これで終わりと観念、覚悟したが何事もなく無事ついた。見張りとか、食事当番などでよくもめていた。高雄港西子湾の検疫場に2週間位待機していた。先に社船の民嶺丸の遭難船員がいたが、彼等が先に内地へ帰った。
 まもなく私等も帰ることとなる。大阪商船の船で疎開する小学生、民間人と一緒であった。宇品港に着き、似島検疫場で1日いた。宇品の暁部隊前で記念写真を撮り、旅館で一泊、翌日帰郷した。昭和19年2月17日遭難して4月2日にやっと帰れた。
 5月18日、三井造船玉のドックで辰城丸艤装乗船するも12月兵役入隊のため8月22日三池港にて下船、辰城丸はその後マニラ沖にて遭難した。

以上戦史記録および日記帳その他のメモによる。
辰羽丸遭難時の生存者55名。