太 平 丸 遭 難 記

                                             北海道余市町 磯谷国栄太平丸



【一信】

 平成6年3月31日付けの読売新聞の記事の、民間戦没船の記録を拝見致したので、おくればせ乍ら私の体験を申し上げます。何かの参考になればと何度も考えた末に一報申し上げた次第です。
 私は船員ではございません。当時木造船大工でした。現在無職79歳、大正6年1月生まれです。
 それは忘れもしない昭和19年7月9日の出来事です。
 私は北千島の幌莚島柏原港に軍の輸送船の荷物を陸へ運搬する木造艀船を建造するために、小樽の船大工と私ども9名1組で、輸送船太平丸(6千トン位)に、軍人軍属などの中に入り乗船致しました。乗船者は船員、警備隊等2千名位と聞いております。はっきりした人数は分かりません。

 19年7月5日午前10時頃晴天の北海道小樽港を出港。護衛駆逐艦3隻、輸送船3隻の船団で幌莚島に向った。7月9日曇り空、霧はなく海は静かで、北千島では天気は良い方で、右側に北千島の島々が見えていました。
 午前10時半頃、本船の非常汽笛と同時にドシンという音がして、左舷に傾きました。魚雷命中です。皆、甲板に上がれという声に救命胴衣を着用、タラップを昇り甲板に上がりました。本船は機関部から前の方が海の中に沈み、後の方が半分残っておりました。私たちは後部の方に乗っていたので無事でした。

 海を見ると兵隊さんやらその他の人たちが沢山浮かんでおり、私たち仲間の3人は甲板におり、海に飛び込もうと話をして、8メートル位高い船から海に飛び込みました。本船は汽笛をならしスクリューはまわっておりました。私たちは船からなるべく離れるように、泳いで材木につかまって救助を待っていました。駆逐艦が海に流れている人を助けていましたが、死んだ人もおりました。
その時の光景は本当にあわれなものでした。

 私たちは4時間くらい海におり、木造船の40トンくらいの島の警備船に助けられました。船には軍人やいろいろな人が30人位乗っておりました。私は10日早朝、目的地に無事ケガもなく着きました。
 私たちは民間会社の仕事で、2ヶ月くらいの予定で出稼ぎに行ったのです。大工道具、夜具ふとん、着替え衣類全部海に沈み、身体だけで上陸、10日くらい後に別の船で小樽港に帰ってきました。北海道が見えた時は本当に嬉しかったです。仲間の大工さんは年の多い人達でしたので、現在健在者は私と他に1人位と思います。

 いま思えば、あの広い冷たい海でよく助かったものと有難く思っています。亡くなった方々には本当にお気の毒と思い、ご冥福を祈ります。
 52年の歳月が過ぎましたが、毎年7月9日には仏壇に線香を上げています。

                                              平成8年6月25日


【二信】

今も耳に残る汽笛の音

 前略、この度はご返信と太平丸の写真をお送り下されまして誠に有難うございました。太平丸の姿を何回も拝見しております。と同時にあの日のことを昨日の事の様に思い出しております。
 先日は簡単な走り書きで、内容は分かりにくい点もあったと思います。返信を見てもう少し詳しくお知らせ致します。

 太平丸の戦死者は1千名位と聞いています。兵隊さんその他の人たちと遺族の方々にはお気の毒なことと思います。
 私たちのグループは、太平丸の第4番船艙に乗っておりましたので助かったのです。機関室の後部の処でした。魚雷命中も2回の様に思いました。甲板に上がったとき無我夢中で、何分かかったか分かりませんでした。死に物狂いで皆の顔が青ざめていました。甲板から海面を見ると多数の死亡者、助けを求めて叫んでいる人、この世の地獄とはこのこととの思いでした。

 駆逐艦1隻と輸送船2隻が、全速力で目的地に向かって航進、輸送船の甲板の上から、皆手を振ってガンバレと言って私たちの横を通り過ぎました。
 海に流れている人たちは1隻の駆逐艦で艦上に引き上げており、潮の流れが速いので死亡した人たち、遠くに流れていった人たちもおります。太平丸は40分くらい沈まなかったようです。それで私たちも助かったのです。
 私たち仲間の9人は全員無事柏原港に上陸致しました。その時やっと助かったと安心致しました。運が良かったと思います。私たちは10日位後に、小樽港に帰る輸送船メルボルン丸に乗って、無事帰りました。小樽港に上陸した時、やっと生きていて良かったと思いました。

 太平丸が沈没するまで汽笛が鳴っていた音が、今でも耳に残っています。
 もうすぐ7月9日がやって参ります。

                                  (戦没船を記録する会・会報第12号より)