戦地から家族に送った手紙
 
 1944年、父島通信隊にいた通信士から甲府の父宛てに送られた手紙です。内地へ帰る民間人に託して出された手紙で検閲を免れています。それでも、心配を掛けるといけないと思い、自分の負傷には触れなかったと言います。

 拝啓 お父さん、今この手紙を内地へ帰る小笠原郵便局の人に託して出します。
 歳月は人を待たずとか、はや義治が7月3日懐かしい故郷を後にして2ヶ月にもならんと致しております。田植えに麦刈りに手伝った自分の姿が未だ昨日の如く眼前に彷彿と致しております。
 その後、お父様はじめお母さん、保治、久男お変わりございませんか。降りて、義治は益々元気、海軍の軍人と毎日規則正しく送っております故ご安心下さい。

 この手紙には、検閲の必要のない関係から、従軍以来いままでの経過を余すところなくお知らせ致します。然し、何事についても心配だけは無用です。
 7月3日、海軍省に出頭し、銚子無線局の2名と同日横須賀に行き、輸送船雲海丸に乗りました。しかし、護送船団を組む必要などから、横浜へ行ったりしながら、出港は10日になってしまいました。その間、自分達は港に入る度下船して、横浜や横須賀で2、3度旅館に泊まったりなどして、暫く味わぬと思う畳と布団の生活に故郷の夢を結びました。

 8日、都合により雲海丸から、さらに大きい大慈丸に乗り換えました。10日朝は、愈々出港に決定致しました。
 大きな船が動き出すときは、初めて乗る自分には海の方が流れが早くなったように見えるだけで、船が動いているようには思われませんでした。
 軍港にいる他の船や軍艦などの乗組員が帽子をふって送ってくれます。内地ともいよいよ別れか、こんな感じが急に濃厚になって、口もきかず唯、呆然と帽子を振って答えました。空は晴れておりました。横須賀の街が見えなくなった時は、ちょっと眼に涙がにじむのを覚えました。
 悲しい、そんな気持ちではなく人ならば誰も感じ、思わず落とす涙だと思います。

 夕方には、もう大島、伊豆半島の間を通り過ぎ、空に星が輝く頃には伊豆半島の先端が水平線の彼方に消え見えなくなりました。気がつくと月も出ていました。一緒に走る船が切って進む波が白く見えます。輸送船が6隻、駆逐艦が4隻、海防艦が1隻の大船団が一路南下しています。船の煙はモクモクとあがっておりました。
 その夜は、船で友達になった兵隊さんや工員さんと一緒に甲板に寝ました。
 くっきりと浮かぶ北斗七星や北極星、やはり、この星を見ているかしら、お父さんお母さん、また故郷へ思いを走らせるのでした。
 いつしか夜は明け、11日になりました。見渡す限り海ばかりです。朝はさわやかです、しかし、今度の輸送船の関係や、工員が500名も乗っているので、顔を洗う水もないのには参りました。

 太陽が上がり始めました。水平線上はモヤかなんかに霞んで赤い円に輪郭を見せて上がりました。赤紫に染まって、横にたなびく暁雲、太陽を中心として金色に輝く海、その雄大さは日章旗の精神をそのまま具現する崇高な姿に、自然頭の下がるのを覚えました。
 午後になると、船は危険水域に入りました。敵の潜水艦が出没するそうで自分たちも当直割を受け船橋で海軍の大きな双眼鏡を持ち見張りをすることになりました。
 船首が波に当たるごとに、びっくりしたように飛魚が海上を群をなして飛んで行くのも面白いです。いよいよ夕方には着くという14日の朝になりました。今日はいよいよ上陸だ。皆喜び、靴を磨いたりトランクを整理したりしていました。

 朝食後、甲板で休息をしていた時「魚雷」と船橋から大きな声が聞こえました。前の方を見ると50米くらいの所に白い浪をたてて猛進して来るのです。何も出来ず、その白浪をじっと見ていました。1秒か2秒、ドカン。船に突き当たった瞬間足元がグラッと動いて、自分達は甲板上に倒れました。立ち上がる暇もなく水が滝のごとく落ちてきました。暫くして、自分は甲板にあった服を着ました。軍刀やトランクが惜しいような気がしましたが、問題ではありません、船が真二つなのです。

 自分の足は滑って船尾の高い所から、甲板に積んであった薪や味噌樽、漬物樽などと一緒に、二つに折れた船の間に落ち込みました。船が沈むと共に自分もグイグイ海中に引き込まれました。何度も上がろう上がろうと手足を動かしてもがくのですが、上がれません。もう駄目だな、そんなことを思っているうちグット水を飲みました。死の恐怖は少しもありませんでした。ナニクソと思って一心に手で泳ぎ上がろうとしました。
 運がよかったのでしょうか、パット眼の前が明るくなってきました。そしてポッカリ海面に浮かび出ました。もう船は影も形もありません。

 多勢の遭難者が浮いているばかりです。僕も一心に泳いで材木につかまりました。不思議にどこも負傷していないのです。お父さんが常に神様に祈っていてくださるからだと強く確信いたしました。暫くは波間に漂っておりましたが「助けてくれ」そんな声が気持ち悪く聞こえてきます。自分のような元気なものは「しっかりしろ大丈夫だ」大声で元気づけました。遭難の姿を今、身をもって体験しています。これも尊い経験だと。
 ズシン、ズシンと振動が水を伝わってきました。駆逐艦が爆雷を投下しているのです。恐怖と水の冷たさで震えている遭難者は、こんなものに非常に元気づけられました。

 1時間ほどして海防艦が救出にきました。周りには樽や板に捕まったまま死んでいる人を3〜4人見つけました。「せめて敵を1人でも殺して死にたい」と言っていた人達でした。漸く綱で引き上げられました。600人の乗員中約半数の300人がいませんでした。
 私はカスリ傷一つ負はず、意気ますます軒昂ですからご安心ください。金は丁度着ていた服に全部入っていました。失った物は父島通信隊ですべて貸与されました。
 父島では、毎日空襲の連続です。艦砲射撃もありました。民家が焼けすべて焼野原です。敵機が来ても日本の飛行機は1機も飛ばないのは如何にも残念です。しかし、父島の守りは絶対です。爆弾にもビクともしません。心配は無用です。

 俸給は毎月家の方に来ますか。行かない時は、海軍省第2給与係の3月30日発令、父島特根(特別根拠地隊)気付け従軍者、小林義治の名をもって請求してください。戦時増給も10割くらいあるようですから、又その都度家族渡しにするつもりです。
 島民は全部内地へ行き、兵隊と工員だけの島、それから、今度はお願いですが、越中フンドシ3ッ、手拭2ッと風呂敷送ってください。
 保治君にも逓信講習所を受験するように言って下さい。久男にも来年、中学と逓信講習所を受けるよう言ってください。

 お父さん、足の方は如何ですか、無理なさらず静養して下さい。お母さんも田んぼで大変ですね。正男兄さんの部隊名判ったら知らせてください。お母さんは、暑い折柄くれぐれも身体を大切にして下さい。保治、久男兄弟二人仲良くして、お母さんの手伝いに、勉強に頑張ってください。
 兄は絶えず南の空から、お前達の健康をいのっている。2年したら、戦地の「みやげ話」を持っていく。2人とも義治兄さんより大きくなれよ。
 父島の夜は涼しい。スズ虫の声が聞こえてきます。義治は何時も元気です。返事には轟沈の事などに関し、又この手紙のことに関しては書かないで下さい。
      8月27日         横須賀局気付 ウ24ウ155
                                小林 義治

               (戦没船を記録する会会報21号(1999年発行)より)