日号作戦下の悲惨な商船隊秘話
                                         
                          菊池 金雄 (当時向日丸乗組員

日号作戦の背景と実態                                
 
  昭和20年1月20日〜3月16日間の南方からの石油特攻輸送「南号作戦」にならい、昭和20年6月28日に、日本海でも大陸からの物資(主に大豆・豆かす・穀類・岩塩等)を内地へ緊急輸送のため、「日号作戦」が発令された。        
 「日号作戦」とは、当時、国内の食料事情が逼迫のため満州・朝鮮から穀類・塩などを急遽内地に船で輸送するためにつけられた作戦名であった。                                   

  もとともと、朝鮮東岸の各港と裏日本の各港とは対満州物流の最短ルートで、従来から日本海航路が開設されていたが、戦局が劣勢となり、東南アジアからの外米輸入も途絶えたので、満州からの雑穀類で補い、都会地域は主食の質はかなり低下しつつあった。                                     
  ところがB29による瀬戸内海方面への機雷投下作戦の主目標が、昭和20年7月から日本海側各港となり、満州からの雑穀等の輸入も途絶のおそれがあった。                         
 
  さらにB29の機雷投下は朝鮮の西・南・東岸諸港の積出港にまで拡大されたため、朝鮮北東岸各港の滞貨、特に羅津埠頭の塩・穀物の山を急造の大型船(戦時標準船)等で本土への突貫輸送が図られ、この作戦に挺身した船員、警戒隊および船砲隊の功績が極めて大きかった。
  8月9日のソ連参戦による空爆が行われ、朝鮮北部各港で諸物資搭載の作業中であった大型商船隊は、甚大な戦禍に遭ったのであるが、日本軍戦力が敵と対戦した形跡はあまりみられなかったこと、同方面の商船隊の苦闘が報道されず、記録されなったことは遺憾に耐えない。

向日丸戦記要約                                             
  
  当時、羅津港には17隻の大型船が在泊中であったが、辛うじて脱出したのは3隻だけで、その中の1隻が向日丸であった。 本船は門司から昭和20年8月6日羅津に入港して大豆等の積み込み荷役を行っていた。夜間にはB29が港外に機雷投下作戦を行ったが、陸上への爆撃はなかった。
 
  ところが、8月8日23:55突如ソ連爆撃機編隊の奇襲で在港船団が空爆の標的となり、最悪の戦禍に巻き込まれた。しかし、日本軍部隊からの反撃や対応指令も無く、本船は軍に無断で港外に避難することもできず、乗船警戒隊員(戦時中、軍に徴用された民間船には、小火器が装備され、これを扱う兵員が配備され、海軍からの派遣は「警戒隊」、陸軍からの派遣は「船砲隊」と称された)が必死で応戦するのが精一杯で、隊員の負傷者が続出したため、船員はヘルメットも被らず(当時船員には防弾ヘルメットの配分が無かった)、素手で弾雨下を機銃弾運び等に挺身していた。
  
  敵は雷撃機も混じり、その1発は向日丸の船尾側に接岸中の船に命中して浸水・沈没(着底)した。次の魚雷は向日丸とこの船の間の岸壁に当たり爆発、岸壁部材が向日丸船尾の15センチ短砲に落下し、同砲が使用不能になった。また陣頭指揮中の西豊船長(60歳)も頚部負傷のため近傍の満鉄病院に搬送されるなど、自船被弾が時間の問題となったので、船室で病臥中の小川肇次席通信士も急遽同病院に入院させ、安全策をとった。敵機の波状攻撃は夜間も続いたので、一部乗組員を陸上に退避させ、犠牲者の抑止策を図った。
 
  ところが、埠頭付近の防空壕に避難した乗組員の証言によると、暁部隊の兵員がいち早く防空壕に避難していて、空爆に曝されている商船隊に対する緊急避難措置を放置し、かつ戦意の欠如に唖然としたとのことである。
 午後8時頃の空爆のときサーチライトが敵機1機を捕捉、豆粒のような爆弾がパラパラと本船方向に落下してきた。その1発が目前の岸壁倉庫に命中、大音と同時に甲板に火の粉が降ってきた。倉庫保管の大豆が火炎に包まれ猛火となり、向日丸の甲板部員が船から懸命に放水して鎮火させた。なお当日の本船警戒隊の戦果は敵機1機撃墜であった。
  9日は幸い致命的な被弾もなく、10日早朝やっと暁部隊から南鮮への避航指令があり、応急手当てを終えた船長も復船、午前6時頃、全員の在船を確認のうえ離岸作業を開始した。船尾側の沈船が邪魔で難儀したが、老練船長の見事な操船で離岸に成功、7時半頃やっと港外への脱出に成功した。
 
  羅津港外には味方艦船は見当たらず、本船は単船で南下中に再びソ連雷撃機に急襲されたが、搭載火器で果敢に応戦、幸いにも敵弾は本船にはなかなか当たらず、本船の護衛態勢に入っていた第82号海防艦(被雷沈没の陸軍輸送船遭難者の捜索救助任務で出動中)に命中、同艦は朝鮮舞水端南西約7浬で轟沈した。
  向日丸は守ってもらう立場から守る側に回ったのだが、これまでの幸運も護衛によるものと同艦乗員救助に最善を尽くし、215人中98人を救助し、11日未明に城津に寄港し、海防艦の生存者を揚陸させることができた。
  その後、避航のすえ元山まで南下、ここから残存船団で舞鶴に帰還したのは終戦2日後の8月17日であった。
 
  船員側には船長以外戦傷者は無かったものの、羅津で入院させた小川次席通信士は、事後の調査によると8月10日羅津で戦没していたことが確認され、誠に慙愧にたえないものがある。それは、あの苛烈な空爆下での最善の選択が、結果的に仇になったからで、当時軍側から陸上の避難情報があったなら、万難を排して船に連れ戻したはずで、自船の戦没が必至でも諦めがついたと思う。
  警戒隊員の犠牲者数は不詳であるが、10名ちかい戦傷者があったと思われ、向日丸防護に勇戦した隊員各位に深謝の念大であった。また、第82号海防艦乗員に深謝し、戦死者のご冥福をお祈りする。
                                                        (了)

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