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ある小型戦標船タンカーの処女航海爆沈記

                   
菊池 金雄(当時昭豊丸乗組員)
いざシンガポールへ

 
戦局劣勢下の昭和19年4月、播磨造船所でたった35日間で建造の2ET型タンカー昭豊丸(大同海運、880トン)に乗り組み、護衛なしの単独で台湾の基隆〜マニラ経由でシンガポール(当時昭南島と呼ばれていた)へ処女航海の途につき、幸い魔のバシー海峡も無事のりきりマニラに着いた。港内には大型商船隊がひしめき、流石兵站基地の威容があった。

仕向け地 ボルネオのミリに変更
 
ここの暁部隊からシンガポールでなくボルネオのミリからマニラに重油輸送を命じられ、単船でなんとかミリに到着した。ここでは沖がかりのまま輸送管で初荷の重油を積み込み、共同丸(千トン級の老朽船)と船団を組み、陸軍の護衛船(中国の拿捕船とか)が同伴し、6ノットでマニラに向かった。ところがパラワン島の北辺で何故か護衛を打ち切ってUターンする旨通告してきたので、両船の船長は、とてもじゃないが護衛なしで続航できないと抗議したら、それでは航空機で間接護衛させる旨の回答があった。 

敵機の餌食
 両船は一夜、パラワン島北部の小湾に仮泊して10月25日朝抜錨。朝食中、爆音がしたので味方機と思っていたら、突如バリバリバリと機銃掃射に見舞われた。驚いて空をみたら敵のB24が単機で襲いかかってきた。直ちに本船の警戒隊が船橋楼の14、5ミリ機銃で必死に応戦したしたため、敵機は高度から爆弾投下・・・至近弾1発目でエンジンストップ・・・2発目で簡単に船体が亀裂・・・沈下・・・船長の退船命令で総員泳いで救命艇に移乗・・・途端に敵機から機銃掃射を浴びたが、船内で2名戦死のほかは無事だった。無線部はこのとき保管中の暗号書を即刻海没処分した。
 付近海面には雑多な浮遊物が散乱・・・船内で生卵補給のため飼っていた鶏が木箱の上で途方にくれていた。ところがこの生死の狭間で司厨長が浮いている食材をかき集めていた責任感には敬服するばかりだった。

僚船に救出されコロン上陸
 間もなく僚船共同丸に救出され、近傍のブスアンガ島コロンまで移送されたが、伝馬船にどっと大勢乗ったため、たちまち水船となり、船長が「片手で水をかけ」と号令し、やっとの思いで陸にあがるハプニングもあった。
 ここの陸軍守備隊から小さな校舎に保護され、早速、賄部員が食事支度にかかったが、支給された白米にはゴマ粒様に石炭の粒が混入していた。実は最近コロン湾で何隻かの商船隊が爆沈され、その遭難船員が収容されたため食料が枯渇状態らしかった。
 本船の戦死者2名(海兵1、船員1)は荼毘に付し、遺骨だけ箱に収め携行することとした。それから数日後に日南丸でマニラに移動した。



敗色のマニラ
 幸い駆潜艇も同行、敵潜を探知したのでぼかぼか爆雷を投下して無事マニラに入港。
 ところがマニラ湾内の商船隊は空爆のため、すべてマストが見えるだけの無残なありさまと化し、戦局劣勢の実態を自覚せざるを得なかった。
 一夜、ダンスホールでの仮寝で私は不覚にもデング熱に見舞われ、幸い翌日から会社代理店の社員寮に士官だけ収容され、私はひたすら安静。食事は台湾出身の女子社員が運んでくれた。それから1週間後、正規の遭難船員収容マンションに移った。
 うわさによれば当時一万人近い遭難船員が内地行きの便船待ちのようで、同会社の天日丸組とも全く接触できなかった。
 幸い私の体調は日増しに回復・・・あるとき缶ビールの特配があって試飲したらめきめきと食欲がもりかえした。
 最小限の衣服は暁部隊から支給されたものの、靴下がないため素足に軍靴での擦り傷治療で軍病院通いが日課とは情けなかった・・・と言うことは、ノーマネーの哀れな敗残船員なのであった。それでも時々タバコが配給されたのでモンキーバナナと物交して間食していた。当時マニラにはまだ衣食品が豊富に店頭に陳列されていたが高嶺の花だった。
 時々敵機の空襲があり、その都度マンションの地下室に避難していたが、今思うと地下室の照明は蛍光灯だった。敵の空襲中は味方機の姿はなく、敵機が退散後1〜2機舞い上がるだけで、港内の残存艦船は一方的に襲われていた。
 暁部隊から本船に対し、軍の雑役要員に4名徴集の指令があり、船長はコーターマスターの4人を指名した。

いよいよ帰国の途へ
 約1ヶ月後の深夜突如、海軍の徴用船和洋丸で台湾の高雄までの便乗指令があり、12月1日朝10時頃、萩川丸との2隻船団で、3隻の護衛艦に守られマニラを後にした。
 翌日の午後3時頃いったんサンフェルナンドに仮泊、翌朝いよいよ敵潜水艦の狩場である魔のバシー海峡突破に挑戦することになった。北上にともなって北よりの風が強まり、船団のスピードが10ノットから3ノットに落ちた。翌日も荒天が続き各船は終日難航し、和洋丸は海峡中部のサブタング水道に辛うじてすべりこみ、1夜ここで仮泊することとしたが、僚船と護衛艦を見失い、遂にここでは合流できなかった。
 翌朝7時半、和洋丸船長は悲壮な決意で、単独での魔のバシー海峡突破を決断・・・頼みの綱は高雄海軍航空基地からの支援航空機であったが接触できなかった。
 午後になっても荒天が続き・・・夕刻には20メートル以上の暴風雨となり、速力が5ノット以下になった。
 敵の潜水艦は荒天下の攻撃は至難のためか7日午前10時、幸運にも無事高雄に入港することができた。
 和洋丸は海上が平穏なとき、ときどき「浜辺の歌」のメロディーを流していたが、以来この曲を耳にすると魔のバシー海峡がまぶたにうかぶ。

高雄好日
 ここの収容施設は食事つきの海の家風の畳の大広間なので、久々に母国気分が沸き、味噌汁の味も格別。炎熱のマニラと比べるとしのぎよく、靴擦れもサァーと治った。とにかく給料の前借りで、やっと人なみの飲食やショッピングができたので、おおいに英気を養うことができたのはラッキーだった・・・それは仕事のノルマもなく、ただただ自由気ままな日々に恵まれたことである。
 
緊急帰国指令
 12月30日の深夜・・・米軍機台湾空襲情報のため、無用の人間を脱出させるとかで突然クライド丸に便乗の指令があり、乗組員の中には外出中の者もいて、大童で呼集しなければならなかったが、幸い入院者1名以外全員が乗船できた。
 翌31日午前4時、タンカー・パレンバン丸と船団を組み、護衛艦択捉・昭南他2隻に守られて門司向け高雄を出港した。
 われら大勢の遭難船員達は、船倉の岩塩の入った叺の上が寝ぐらで、2人に毛布が1枚程度。いうなれば馬匹並あつかいであったが、ともかく無事の帰国のみを念じていた。
 当時の台湾―母国間航路は敵潜の出没が顕著のため、台湾海峡から中国沿岸を9ノットで北上して、夜半に福州沖の馬礁山泊地に仮泊。翌朝、北上を続けて昭和20年1月5日、山東半島から朝鮮に東進、朝鮮の西岸を南下して1月8日午後6時過ぎ無事門司港に着岸することができた。
 早速、門司の暁部隊から一流料亭に招待されたものの、とにかく、ノミ・シラミだらけの戦塵を洗い流すため入浴したのであった。

軍属解雇式〜帰郷
 翌日、クライド丸で帰国の多数の遭難船船員軍属解雇式があり、第2940暁部隊長より、長途の辛苦に対するねぎらいと、十分休養のうえ再度の活躍を期待するむねの訓示があり、全船員に従軍記念木杯が賜与された。また、鉄道乗車券も配られ、士官は二等パスだった。
 かくして8ヶ月間、戦火の海を奇跡的にくぐりぬけた仲間との別れを惜しみ、それぞれ職責を果たした満足感を抱きながら、古里に向け散ったのであった。

追 記
 マニラで軍に徴集された4名の生死を追跡したが戦死の公算が大である。また、私がマニラで世話になった会社代理店の女子社員には若気のいたりで格別お礼をしないまま別れてしまったが、切に無事なることを念ずるばかりである。

今思うこと
 以上が私の戦争体験の一部で、昭豊丸の戦没者は2人であったが、戦後の調査では船員全体では約6万人が戦没している。 戦局についてはそれとなく危機感はあったが、味方船舶の被害など全くツンボ桟敷で軍命のまま南方航路に従事し、運よく生き残った1員として63年を経過した今日、思うことがいくつかある。

1、当時の日本商船隊の被害状況
 貨物船やタンカーなどの被害は昭和17年から国内の商船建造能力を上回るペースで増え、19年2月52万トン、5月は半月で約16万トン喪失していた。これは米海軍が「狼群戦法」を本格化させたからであった。
 当然、昭豊丸の辿ったコースにも敵潜水艦の網がはられ、ボルネオのミリ油田からマニラに向かった日新丸(タンカー、16000トン)が5月6日、ボルネオ北端のバラバック海峡で敵潜に雷撃され沈没しているが、この種の情報は全く知らされず、鹿児島―基隆―マニラ―ミリと護衛なしで、之字運動しながら無事ミリに着いたことは今でも奇跡的と思う。

2、ミリ―マニラ間の護衛問題
 なぜ陸軍の護衛船が途中で護衛を打ち切ったか疑問である。当時の戦況はレイテ攻防戦最中で、別図を参照すると、わが連合艦隊がミリ北のブルネイを10月22日レイテ作戦のため出動しているが、作戦に無関係の商船側は全く感知できなかった。当然敵側はこの周辺に空と海中から監視の網をめぐらせていたところに、たまたま護衛なしの2隻のタンカーがのこのこ走っていたので餌食になった訳であるが、ここからマニラ間が敵潜の穴場海域で、護衛が必須であるにかかわらず、その任を打ち切った真意を問いたい。
3、戦標船の構造上の疑問
 一般的に粗製乱造が通説であるが、至近弾で簡単に亀裂―浸水―沈没の実態は、まさに泥舟的とでも言わざるを得ない。このことによる犠牲者も多かったと見られるが、是非、識者の専門的なご見解を聞きたいものである。(了)