戦争の犠牲になった紀州の小舟たち
                      中村 隆一郎

徴用された270隻の小型木造船
 
紀州の海べりを3年間歩き回り、およそ200人の生の証言を得て「常民の戦争
と海」(東邦出版社)を刊行した。
 その中で、船名や船長を確認できた徴用船は、日中戦争では漁船114隻、機帆
船42隻、太平洋戦争は漁船17隻、機帆船94隻であったが、これらのことは公
刊史はおろか地方史誌にも殆ど記録されていない。
 紀州だけで約270隻。これが全国では一体どれだけの小舟群が海の藻屑となり
はてているのだらうか。そこに乗っていた船員達の運命は、と思わずにはいられな
いのだ。
 昭和12年の秋から徴用されはじめた紀州の漁船、機帆船は上海や揚子江、南の
広東や珠江に動員されたが、行動場所が大河やクリークなどで、危険度が少なく機
帆船の場合は殆ど帰還している。だが太平洋戦争に発展してからは、一部は海南島
からインドシナ半島東岸まで行った船や、揚子江上流の洞庭湖まで遡った船もあっ
たようだが、戦況悪化と重なり、当然帰還できていない。
 これら内海用につくられた機帆船群は、河川航行に適しており、又小漁船は編目
状に広がるクリークでの作戦に適していたからだと思われる。もっとも早く徴用さ
れたのが2人乗りのえび手繰り船だったのが、それを証明する。


部分修理した木造船を太平洋の彼方へ

 太平洋戦争で徴用された漁船17隻、機帆船94隻が判明しているが、漁船が急
減したのは紀州には、大海を乗り越える中堅以上の漁船が少なかったためで、八丈
島や鹿児島まで行けるカツオ・マグロ漁船は根こそぎもっていかれている。機帆船
については「船舶不足」が原因での急用徴用で、船の大小や建造年数に関わりなく、
見つけしだい片端から徴用した。
 行く先は千島列島、南はビルマやソロモン諸島と、気の遠くなるような広範囲に
ばらまかれ従って、帰還船は漁船17隻のうち1隻もなく機帆船では94隻85隻
で、戻ったうち8隻は千島方面からで、南方に限れば1隻であった。
 戦況が悪化する中で、いはば中古の木造船を部分修理して、大海の果てまで行か
せたのだから当然の帰結であらう。
 機帆船94隻の乗組員では、全員死亡船27隻、半数以上確認船13隻、死亡数
未確認の船を除いても優に250人の男たちが犠牲になっている。彼らは皆、一家
の大黒柱であったり、前途ある有為な若者達ばかりであった。それでも、船は無く
したが、殆ど全員が生還できた乗組員が30隻分あり、この歴史は、この人びとの
証言で残されたものである。

紀州独特の小船の徴用
 
その一つは、和歌山と三重の県境を北から南へ流れる熊野川で使われていた「プ
ロペラ船」である。細身で喫水が極端に浅いこの川船が海軍の目にとまり「滑走艇
隊」という立派な名前を貰って、揚子江の機雷掃海に従事したことは専門家はとも
かく、地元では意外と知られていない。
 もう一つは、アラフラ海で活躍した真珠貝採取船がある。これは真珠貝を採るの
ではなく白蝶貝を採取するもので、この貝殻は装飾品の材料として、高値で取引さ
れたのである。
 その歴史は明治時代までさかのぼるが、はじめは渡航もしくは密航してオースト
ラリアや蘭領アロー島などに渡り、木曜島やブルーム、ダーウィンで白人の船に雇
われたり、借船して稼いでいた。しかし国内で建造した船でパラオに渡り、ここを
基地にして、公海で操業できる道が開拓されのが、昭和6年のことで、ここから一
大ブームが到来する。
 豪北の海に、紀州の男たちは、一攫千金の夢を求め、一時は200隻近い国内船
が南洋にひしめいた。この船は30トン強の大きさで、地元では「真珠船」あるい
は「ダイバーボート」と呼ばれていた。四国や三重の船もあったが、圧倒的に紀州
の船が多く、船長もテンダー(命綱持ち)もダイバーも紀州南部の串本や古座、新
宮の男たちばかりであった。彼らは100トン前後の運搬船、(母船)のもとで数
隻が行動していたが、戦争が勃発すると、パラオの南洋庁を通じて根こそぎ徴用さ
れてしまった。中には情報収集に使われた船もあり、真珠湾攻撃の年昭和16年1
2月8日に爆撃された船もあった

 
紀州沿岸での小船の被害
 
紀伊水道や熊野灘に面した紀州の海岸線は長く、実に230キロにも及ぶ。沿岸
では早い時期から(1942年頃)から、米潜水艦が出没し、軍艦や輸送船が攻撃
をうけ、何隻も沈められた。船首を空に向けズブズブと沈んでいく船を何回も目撃
した地元の人びとはその都度漁船を漕ぎ出し、生存者や遺体を収容した。怪我人は
村の婦人たちが世話をし、遺体は、浜で荼毘に付した。外れた魚雷が目の前の磯で、
爆発したこともあった。

 ところで、何隻もの地元の漁船や機帆船、1人乗りの手漕ぎ舟も、戦闘機に狙い
撃ちされているのだが、このことも又殆ど記録されていない。たまたま地方史関係
の文献にエピソード的に散見するだけである。
 エンジンがついた漁船や機帆船は事ごとく軍の管理下におかれ、特に漁船は、監
視船を兼ね操業していた。軍から燃料が支給されることと引換えに、獲れたカツオ
の大部分を軍に納め、漁民にはカツオ1本、サバ2本といった報酬だったという。

 紀州南部の太地浦は古来から沿岸捕鯨の基地であったが、ここの小さな捕鯨船2
隻7号笹山丸、末広丸が沈められた。カツオ・マグロ漁船で田辺の長陽丸が、陸か
ら声が届きそうなところで戦闘機の犠牲になった。古座の第3和丸、那智勝浦の神
栄丸、事代丸、天龍丸等は近海で操業中に、潜水艦にやられたらしい。1人2人乗
りの小漁船で戦闘機の餌食になったものは、分かっているだけでも10隻をこえる。

 例えばこうである。田辺の白栄丸という3人乗りの漁船の場合、浜田捨吉という
50才の漁師とその倅で17才の康久、それに16歳の小淵真貴雄が乗り組み、白
浜沖500メートルの海上で魚を釣っていたところを米戦闘機に襲われ小淵少年が、
腹を撃ちぬかれた。
 由良の機帆船住香丸(4人乗組み100トン)は軍用インゴットを積み、九州向
け出港した途端白崎沖で、4機の戦闘機に襲われた。

 銃弾をあびた船長は「機関をとめろ」と叫びそのまま、どさっと倒れた。機関長
は言葉もなく転がった。後の2人もそれぞれ頭と腹に火のでるような痛みを感じた
が、必死で伝馬舟を降ろして転がり込んだ。その舟を目掛けて米機は、容赦なく銃
弾を浴びせた。穴があき水が入ってくるのを、2人は手拭で穴を詰め板きれで死に
もの狂いに舟を漕いだ。目に流れこむ血をぬぐってみると、住香丸は手のほどこし
ようもなく燃え盛り、船長と機関長の遺体を乗せたまま、遠ざかっていった。

            (戦没船を記録する会会報第22号(1999年発行)より)