わが回想  太栄丸コロン湾に果てる

                                                       小林 生
第一次マニラ大空襲

太平洋戦争末期の昭和19年9月22日の朝
 フィリピンのマニラは米軍の機動部隊艦載機の大空襲を受けた。
 大規模な奇襲は、まずマニラの飛行場が攻撃され、迎撃に飛び立つ味方機と空港施設が攻撃を受け、次にマニラ港に浮かぶ浮きドックと湾内の艦船が攻撃目標となった。

 全速で退避行動中の味方小型駆逐艦に、7・8機一列になった敵機が集中急降下して爆弾を艦中央部に命中、火はただちに火薬庫に誘爆したらしく大爆発が起こり、駆逐艦はもうもうたる黒煙におおわれたが、数刻後、黒煙がおさまった後の海面に艦影はなく、完全に轟沈された。おそらく生存者があったとしても数名ではなかったか。

 浮きドックも大破されたようだ。次いでマニラ港に停泊する約40隻の輸送船が標的になった。本船太栄丸も20ミリ4連装機関砲を左右両舷に一基づつ設置され、海軍の警備兵9名が終日敵機を迎え撃ち、銃身が真っ赤に焼き付いて発射できなくなることもあり、水を入れたバケツに雑巾をしたし、銃身を冷却するのが我々の仕事であった。

 船尾には後方から突入する敵に対し、20センチ散弾砲が設置され、指揮は中年の警備長があくまでも冷静に敵機の動きを観察していた。
 船首方向から攻撃の多い中、昼頃であった第2波の敵襲で、後方上空からまっしぐらに本船めがけて突入態勢に入った敵機一機があった。高速で退避する重武装のわが駆逐艦を仕留めた敵からみれば、停泊中の軽武装の、大きな標的である本船如きは、たとえ40隻の真ん中あたりに位置して、周囲からいくらかの援護射撃はあっても、命中弾は避けられぬと瞬間思った。

 敵が最も有効な射撃距離に入るまでの僅かな呼吸を冷静に待った警備長は、すかさず “撃て”。 耳を聾する大音響を伴って散弾砲は発射された。
 その瞬間、何たる奇禍かーー、敵機が突っ込み方向を僅かに左にずらしたため、本船左方の陸軍輸送船に爆弾が命中した。黒い煙が立ちのぼり、数刻後、大陸からの転戦らしい陸軍兵が、三八式歩兵銃を大切に保持して縄梯子伝いに黙々と艀におりていく。
 大陸からの長い航海、集団で狭い船倉生活を強いられたであろう、汚れきった軍服、不精髭。よみがえる痛ましい鮮明な記憶。

 夕方になりようやく敵襲は終わった。
 本船の海軍兵はあらかた撃ち尽くした機関砲の弾薬補給のため、ランチで陸上にいった。大混乱でおそらく、おいそれと受領は出来ぬであろう。


再攻撃に備えて退避

 一方本船は明朝必至の再攻撃に備えて、遅くとも日没までには出港して、艦載機の攻撃範囲外に退避する必要が考えられたが、案の定、航行可能な10数隻は船団を再編成してマニラ湾から西に進路をとった。当然補給弾薬と護衛海軍兵はマニラに置き去りになった。

9月23日
 引き続きルソン島を後にして敵艦載機の攻撃距離範囲外に出た後、夕闇迫るころより、針路を南東に転じ、ルソン島南東約180マイイルのブスアンガ島の南端のコロン湾に向った。

9月24日午前8時
 船団各船は緑濃い島々に囲まれたコロン湾に投錨。
錨鎖が海中に落ちるガラガラと大きな音が、静かに晴れた湾内に響く。やれやれと安堵したのも束の間、雲間より味方海軍の水上偵察機が舞いおりて、船団長旗を掲げる指揮船の傍らに着水すると、間をおかず指揮船のマストに空襲を報らせる赤旗がスルスルと掲げられた。
 この危急を知らせにきた味方水上偵察機はすぐに上空に向け飛び立ったが、2・3分後、何か上空からパラパラと降下するものがある。よく見れば今先飛び立った偵察機のものと見られるフロートや、日の丸のついた翼片だ。味方水上偵察機は撃墜されたのだ。
 “きたぞ”、傍らにいた機長の指差すほうを見れば、12・3機が風上の船首方向からわが船団の襲撃態勢にあった。本船には機銃弾もなく射手の海軍兵もいない。まさにガソリン満載貯蔵庫であった。

 敵の第1撃の時私は船首側にあるブリッジにいた。
爆弾が当たればそれまでだが、同時に行われる銃撃は、20秒も遮蔽物に逃れるだけで難を免れる。
 轟音鋭く第1撃が去った。最船首部にある山砲(大陸から移送されてきたらしい車両つきの小型砲)をあやつる3人の陸軍兵がやられたらしく、デッキに赤黒い血が流れていた。ブリッジを去って広い甲板上の通路を、他の船員たちが集まっているであろう船尾に小走りに走った。途中、船体中央部の油槽管理室出口に、頭がざくろのように無残に割られ血だるまの操機手の死体を見る。外の騒ぎは何事かと顔を出した瞬間やられたのではないか。今後自分たちに降りかかる運命だ。船尾には僚友が大勢居た。

 敵機は第1波同様船首方向から第2波の攻撃に移った。その一瞬、奇怪な光景をみた。なんと船長が無表情・無言で、虚ろな目で上甲板に通じる梯子を気忙しげに意味もなく上り降りしている。銃撃には一瞬遮蔽に身を寄せるのが鉄則であるのにーー。


漂流船員が攻撃目標に

 誰かが「船長がやられたぞ」と叫んだ。その途端、船長の挙動を不審と見ていたであろう機長が間髪を入れず「全員退避」と令した。
 “退避”とはこの場合、“海に飛び込め”ということ以外ではない。私は咄嗟に右舷側か左舷側か入水場所の選定に迷った。左舷側には6−70メートル近くに陸地があり、大勢の人が群れて泳ぐ結果となり、銃撃の対象になりはすまいか-----。考えている暇はない、右舷船尾の機雷発射台の横から飛び込み、なるべく船から離れようと懸命に泳ぐ。

 すぐ第3波の襲撃ーー。ほとんど無抵抗の1万3千トンの巨体に今まで命中弾がなかったのは、積荷がガソリンでは命中すると、天に沖する火柱が攻撃機にまで影響を及ぼすと考えて、故意に命中を避けていたのではなかろうか。
 右舷側の至近弾で船体が損傷したらしく、漏出した油に火が入り、海面の火は風を呼んで猛烈な勢いで燃え盛り、海上の大火災が迫ってきた。巻き込まれまいと服・ズボン・シャツを脱ぎ、越中褌ひとつで懸命に泳ぐ。潮の流れが船から遠ざかる方向であったのが幸いだったというべきか。
 後で聞いたが、反対側に飛び込んだ生存者の見解では、吾ら右舷側の数人は全員焼死と推定したようだ。

 旋回して第4波の銃撃は漂流者に向けられた。
 私は経験から敵が旋回して銃撃態勢に入り、照準を定める直前に身を隠す方がよいと信じ、息の続くかぎり海面下に潜る。幸いにも攻撃は免れたが、何か掴まる木でもないと体力がもたないので懸命に海面を物色した。

 近くに漂流者1名、6時間余の漂流中に波間で会ったのは彼一人だった。近寄ると顔見知りの機関士の黒光りの顔、「足を撃たれた、二人で掴まるのは無理だ」と-----、なるほど小さな木片だ。
 また浮遊物物色のため泳ぎ、疲れると仰向けで背泳ぎの形をとり、なるべく体力を消耗しないよう心がけた。
 その後の行動の記憶は中断、気がついたら中くらいの木片にもたれることが出来た。

 潮の流れは湾内を廻っているらしく、いつのまにか船団の指揮船に近づいた。距離30メートルあろうか、船尾に6・7人立って私を見ている。中年の女性も2人くらい居たように思う。おそらく戦局緊迫のため内地に引き上げるため乗船したが、思わざるマニラ奇襲に遭い、次いでこの危禍となったのであろう。
 木片を抱いて漂流する私に向って、手招きで「来い」といっているようだ。行きたいのは山々、潮流がなければ30メートルくらい泳げる体力はあった。だが、頼みの木片を放して速い潮流に抗したのでは、指揮船に辿り着く前に体力はつきるであろう。私の判断は正しかった。見る見るうちに40メートル、50メートルと遠ざかった。後で知り得たがこの指揮船も機関部に爆弾が命中、多数死傷者があり、以後航行不能と知った。

 そのまま漂流して自分たちの太栄丸の風上に錨泊していた大友丸(仮称)に20メートルくらいの距離に近づいた。潮流を考慮して思い切って木片を捨てて泳いで、大友丸の錨鎖に辿り着くことができた。
 ほっと大きく溜息、船に上る手段はないかと、錨鎖から離れて観察してみた。左舷の舷梯まで泳いで船に上がった。6・7千トン級の貨物鋼船であるため、木材の使用量が少ないゆえか、小型爆弾や銃弾で破損が多かったが炎上せず、所々でくすぶり煙をあげている。どこにも人影がない。おそらく再度の爆撃を予想して、水際まで雑木に覆われた左舷約50メートル先にある陸地に避難したのではないかと思われた。
 褌ひとつの丸裸で大友丸の船員室の入り口にへなへなと腰を下ろすと、ぐっと疲れがこみあげて眠気に襲われたが、後方を見ると太栄丸はかなり強い火勢で燃え盛っている。


進水3ヵ月のはかない命

 思えば太栄丸は昭和19年6月、兵庫県相生市の石川島播磨重工にて進水、7月初旬内地発マニラ経由で、機関修理に約一ヶ月費やしたのち、航空燃料を満載して8月末編成された船団に加わり、シンガポールを出帆した。
 出港後2日目の小雨降る夜半、徹底した灯火管制の下で「之」の字運動で航行する本船の左方に轟音と赤い炎が漆黒の海に一瞬輝いた。貨物船が雷撃されたのだ。点灯捜索は次の雷撃を用意する-----そのまま航行継続。被爆船の生存船員はあっても、おそらく暗い運命を辿ったであろう。

 ボルネオ島のミリで船団の一部編成替えを行ないマニラに向う。
 ミリ出港後3日目、今度は正午頃の真昼間、やはり船団の左方に位置する油槽船が雷撃された。天に沖する爆風黒煙の晴れた後に船影は消えていた。生存者があったとしてもごく少数であろう。
 船団は北上してルソン島に接岸航行したので、右側から敵潜攻撃は考えにくく、「之」の字運動を解いて左側の雷撃のみを警戒して一列で進んだ。

 マニラ湾入り口に敵潜水艦4・5隻ありとの情報があった。晴れた朝7時半頃マニラ湾口に近づいた。
 味方の水偵一機と駆潜艇数隻が敵潜の潜伏予想海域に爆雷攻撃を開始した。その直後、直前を航行する船団指揮船が魚雷を受けて航行不能となった。本船は指揮船を追い越す形で、全員が左舷側を見張っていたが、数人が魚雷の航跡となる水泡が本船に向って来たのを発見。指差したときは転舵避航の出来ない方向と距離であったため、瞬間、“もう終わりだ”と誰もが考えたのに奇跡が起きた。魚雷は本船の中央部船低下を通り越して、右舷側のルソン島の岩礁で大爆発した。

 この時刻私は、熱帯病で40度近い熱に苦しんでいた故もあり、詳細見聞しなかったがこの時刻この海区で船団に3隻ほど魚雷の被害があったと聞いた。
 以後、本船からも爆雷投下を続けながら、無事マニラ湾に入った。
 現地司令部の要請で、戦局緊迫のため内地行きを変更、マニラに揚げ荷する予定になったようだ。そこへ9月22日の大空襲、太栄丸は満載したガソリンを抱えて生き残り、コロン湾でかくも無残な姿を晒し、建造後3ヵ月のはかない運命を迎えたのだ。

 疲れ果てて大友丸で数刻眠ったようだ。何かざわめきの気配を感じてふと見ると、陸の方から大友丸のものらしい伝馬船が櫓を探って、5・6人この船に向かっていたーー。
 日没を迎えた湾内は静寂に支配され、緑濃き島の彼方に日暮れの太陽が、最後の輝きをはじけさせている。散在する、戦前七つの海を走破した吾らの船団は、全船航行不能であろう。

 大戦末期、余にも大きな彼我の戦力の差に翻弄された、数多くの僚友犠牲者を目のあたりにしたが、大時代的な表現ながら彼らは「祖国よ栄えあれ」を心の支えに散った、と私は思う。そして破壊され、点在する各船の細々とした白い燻煙が夕日に映えた侘しい光景も、はっきりと心に写って消えることがない。

【注】見出しは編集部でつけました。