12月8日に爆撃された機帆船


                                              中村 隆一郎
(1)

  1941年(昭和16年)12月8日の未明、日本軍はハワイの真珠湾への奇襲攻撃を開始した。爆撃開始時刻は日本時間午前3時19分、国民が知ったのは午前6時の大本営発表だった。この日、蘭印(現インドネシア)方面のオランダ軍は、日本軍の真珠湾攻撃とオランダ政府の対日宣戦布告を現地時間午前6時30分に受信し、直ちに戦闘態勢に入った。オランダ軍は宣戦布告からおよそ10時間後、ハルマヘラの東約100マイルの海上で小さな爆撃を実行した。オランダ軍資料〔注1〕には、赤道直下の東経130度付近で偵察用飛行艇が航行中の日本船団を襲撃し、1隻を炎上させた事件を次のように記録している。

 「------12月8日、X-12が午後の偵察飛行でブーゲンビル海峡のサヤン島沖5マイル海域で日本船団を発見した。船団は200トン以上の母船と4隻の小さな漁船で編成されていた。彼らはスパイ活動をしていると考えられた。X-11が母船に50キロ爆弾を4個投下したが殆ど被害はなかった。次の日12月9日、X-11が再び日本船団を発見し、無線でX-25に協力を依頼した。X-25が母船を爆撃し、うち1個が真ん中に命中し大きな穴があき、煙が立ち込めた-----」

(*上記資料中「ブーゲンビル海峡」は、有名なソロモン海域のブーゲンビルではなく、ニューギニア西部の小さな海峡である。ニューギニアの西端は北西方向へセール海峡をはさんでサラワティ島、ダンビア海峡をはさんでワイゲオ島、そしてブーゲンビル海峡をはさんでカウェ島、ワヤッ島、サヤン島と続いている)

 オランダ軍飛行艇が攻撃を加えたという「船団」のことは、体験者の貴重な証言によってほぼ判明した。爆撃を受けた「母船」とは、「皇国丸」という161トンの機帆船であり、「4隻の小さな漁船」とは、皇国丸に率いられていたちっぽけな採貝船(ダイバーボート)グループであった。証言は二つあって、一つは皇国丸と行動を共にしていたダイバー船・第3セレベス丸乗員の濱寿男(和歌山県串本町橋杭)の証言、今一つは同じくダイバー船・琴平丸乗員の浜口徹(同串本町出雲)の証言である。

 濱の証言は拙書『常民の戦争と海』(1993年、東方出版)に載せたので、琴平丸の浜口の証言の要旨を紹介する。

 「------琴平丸はアラフラ海で採貝作業をしていたが、8月になってパラオへの引き揚げを命じられた。パラオでは軍の徴用船にされ手旗信号などの訓練を受け、すぐに運搬船皇国丸に率いられて再びアラフラ海へ出航した。皇国丸の配下には琴平丸、第3セレベス丸、第5南州丸ら5隻の採貝船があり、私らはポートダーウィン沖で採貝作業をしながら気象観測などの業務に就いた。このグループは先発船団で、後発はニューギニア丸という運搬船とその配下のダイバー船たちであった。彼らは東のトーレス海峡に向ったようだった。私らは12月2日になって、にわかにパラオへの帰還命令を受け、急いで北上を開始した。

  いよいよ開戦かと緊張が走り今にも豪軍が追いかけてきそうに思った。途中バンダ海で第3セレベス丸が船団からはぐれ、行方不明になったのでグループの合流に時間をくってしまった。それからは母船の皇国丸からロープを出してそれぞれ一列につないで航行した。12月8日になって夕刻の16時頃飛行艇が飛来し船団上空を旋回し始めた。そのころ我々は再びロープを離してばらばらになっていた。飛行艇の胴体には赤い三角マークが見えた。そのうち“なにか落とした”という声が聞こえ、そのとたん琴平丸と先頭の皇国丸のあいだの海面でものすごい爆発音があり、煙で皇国丸の姿が見えなくなった。“さあ大変、皇国丸がやられた”と思ったが、目をこらすと煙が薄れて皇国丸の姿が見えたのでヤレヤレと思った。次には後方から低空で機銃掃射を見舞われ銃弾が海面を掃いていった。幸いにも琴平丸には被害はなかった。そのうち夕闇になり敵機は引き揚げていった。

  翌日は早朝からまた飛行機が1機飛来したが何の攻撃もなく西に飛んでいった。その後、午前9時頃西の方から黒煙が近づいてくる、すわ敵艦船かとマストにあがってみると皇国丸だった。さっき西へ飛んだ飛行機にやられたのであろう。そのうち散り散りになっていた船団も合流し、皇国丸の生存乗員がボートで第3セレベス丸に乗り移り、船は放棄された。そのときに火をつけたものか爆弾の火なのか黒煙が一段と高くあがった。そしてまたまた敵機一機がやってきたが、今度はもう攻撃はしてこなかった------」

(2)

  浜口の証言は、先に示したオランダ軍の記録と非常によく対応している。すなわち、12月8日夕刻の爆撃では投下爆弾が船に命中することなく海上で爆発していること、そして翌9日の爆撃で皇国丸が炎上したことである。オランダ軍資料では皇国丸以外に「4隻の小さな漁船」があったといい、証言者たちは5隻という。これは浜口証言にあるように途中で第3セレベス丸が船団からはぐれた時期であり、オランダ機が発見したときにちょうど4隻が見えたと考えてさしつかえない。なお、オランダ軍資料はまったく記録していないが、爆弾投下とともに機銃掃射があったことは確かである。琴平丸では被害は出ていないが、第3セレベス丸の濱証言では木村という操機長が8日の掃射で重傷を負い、皇国丸でも内匠国太郎という和歌山県出身の水夫長が胸部に銃弾を受けて即死している。9日に爆弾が命中した皇国丸では2日間の爆撃で10名が死亡し、6名が救出された。今のところ8日の機銃掃射で何人、9日の爆弾で何人死亡したのかその内訳はわからない。

  戦前、白蝶貝を加工した装飾用品が欧米でもてはやされ、一獲千金を夢見た海の男たちが貝を求めてアラフラに向かったことはよく知られている。いわゆる“アラフラ海の真珠貝ブーム”である。日米開戦前、日本から出魚する採貝船はピークに達し、1936・7年には200隻近いダイバー船がパラオを基地にして活躍していた。これらの小船群が日米開戦によってことごとく軍の現地徴用になり、そのすべてが南の海で果ててしまったことは今でも知る人は少ない。パラオを基地にして活動していたこれらの小船群は開戦前の早い時期から軍に目をつけられ、てっとり早く「特設監視艇」や「資源調査船」その他種々の雑用船に使用された。船員やダイバーたちは速成訓練で手旗信号や武器の操作をたたき込まれ、乗る船も大幅に入れ替えられて、南海の島々に散っていった。

 1941年の夏に徴用船となった皇国丸が、日米開戦の12月8日に爆撃を受けるまでどんな任務で行動していたのか、旧日本軍関係の資料は見つかっていない。ただはっきりしているのは、軍が開戦を予測して8月から9月にかけてアラフラ海の採貝船に次々とパラオへの帰還を命じながら、上層部のトップシークレットとして皇国丸らにはそれとは全く逆にアラフラ海への「出魚」を命じたという事実がある〔注2〕。採貝船の乗員たちはそこで「偽装潜水」をしながら、気象観測や港内施設の様子、船の出入りなどを母船に連絡していたという。こうしてみると、オランダ軍資料のいう「スパイ活動をしていたと考えられる」という部分はそれなりに当たっていたわけであるが、オランダ軍がそう判断した具体的根拠については不明である。

 太平洋戦争勃発後の1942年2月19日、日本軍がボートダーウィンを猛爆しオーストラリアに対して大きなダメージを与えたことは有名である。この爆撃は当然ダーウィン港の詳しい事前調査のもとに実行されたはずであるが、先の皇国丸らの「出魚」(スパイ活動)の調査結果が生かされたのかどうかはわからない。ただ、アラフラ海で活動していたダイバー船の乗員たちによると、皇国丸らが行くよりももっと早い時期から私服の軍人が乗り込んだダイバー船が「調査」していたという情報が何件もあり、単に皇国丸らの開戦直前の「調査」だけでダーウィン空襲の資料が完成したとは思われない。そうすると、開戦直前の皇国丸らのあわただしい「出魚」が、実は奇襲攻撃をカムフラージュするためのオトリ行動だった可能性が浮かんでくる。豪華客船「竜田丸」が真珠湾攻撃の企図を隠すために平然を装って出航し、開戦によって急きょUターンした話は有名であるが、開戦直前まで偽装操業していた皇国丸らは真珠湾攻撃と同時進行したマレー半島への上陸作成のカムフラージュだった可能性が強い。

(3)

 「------久しく待望の山見氏の新造母船・皇国丸が来航、その名のごとく重々しい雄姿はアラフラ海の花形で、純白の船体はエンブレス・オブ・アラフラとでも言いたい気がする------」

  これは、豪北のリーフで白蝶貝をとっていた第3太洋丸というダイバー船の、山下富一という船長が残した日記〔注3〕の一部である。日付は1937年(昭和12年)6月22日となっている。第3太洋丸はたったの37トンの貝採り船、皇国丸もたかだか161トンの木造機帆船である。だから若い山下船長(26歳)の表現はいかにもオーバーに聞こえる。だが、日本から3000マイルも離れた豪北の海の小さなダイバー船で働いていた男たちにとっては、母船(正しくは運搬船)はライフラインもしくは命綱にも等しい存在だった。運搬船は各ダイバー船の採った貝を回収し、代わりに食料や燃料、それに懐かしい本国の便りも届けてくれた。待ち焦がれていた新造船を見つけて、「雄姿」、「花形」、はては「アラフラの女帝」と表現していることも決してオーバーとはいえない。(日記を残した山下船長は、串本町有田出身の前途有望な勉強好きな若船長だった。彼は日米開戦によって慣れ親しんだ第3太洋丸から第3和丸という別の徴用ダイバー船に移され、敗戦の前の年の1944年に戦傷死してしまった)。

  さて、山下が「アラフラの女帝」と呼んだ皇国丸は、1937年に伊勢大湊で新造された。船主は山見嘉志郎(和歌山県の古座町)で、船長は富山の新湊出身の吉田栄作であった。「皇国丸」という多少大げさな船名は、船主の山見と交流のあった右翼の大物、玄洋社の頭山満が命名したものだという。船は161トン、250馬力のディーゼルエンジン、中短波無線装備の新鋭船であった。

  実はこの船には一つのエピソードがある。船主の山見と同郷だった橘公平という日活のカメラマンが、山見の依頼で皇国丸の建造からアラフラへの処女航海までの様子を16ミリに撮影していて、そのフィルムが昭和52年になって偶然神戸で発見された。見つかったのは全5巻のうち4巻だが、NHKが橘の証言を交えて「教養特集」でそれを放映した。それを見ると、山下が日記に残した言葉は決してオーバーではなく、それはそれは見事な機帆船であることがわかる。

  この船が、12月8日の夕刻、10名の乗員の遺体を乗せたまま、まるで火葬のように燃え盛りながら、南の海で葬られたのであった。

〔注1〕『VERKENNEN en BEWAKEN』Uitgave afdeling maritieme historic  
     Ministeric van defensie ‘s-Gravenhage. 1979

〔注2〕『アラフラ海と私』友信孝(1977年 非売品)

〔注3〕「真珠貝に挑む男たちの記録」中橋譲(1994年『歴史と民族 ありた』第5号
    有田の歴史と民俗を調べる会編所収) 1995、6

                                  (戦没船を記録する会・会報第6号より)