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90%が戦没した第1次戦時標準船

  戦時標準船(戦標船)は戦争の拡大に対処するため、昭和17年に第1次戦標船の建造計画が策定された。太平洋戦争開戦当時、継続していた造船計画は建造中94隻36万総トン、未起工が187隻70万総トンあった。新たな戦標船建造の目的は大量建造、工期の短縮、資材の節約などであり、従来の建造計画や標準船型を大部分で踏襲し、鉱石船や油槽船を加えた計画であったが、工期も長く効率が悪かったため、 部品や材料の規格統一化、工事の簡素化により増産を図り、ある程度の性能低下が容認された。
  これ等の第1次戦標船は185隻が建造されたが、ミッドウエー海戦のころから米軍の反攻が激化し、船舶の損失が想像を超えて増加し、第1次戦標船は90%が戦没し、戦後に生き残った船舶はたった11隻であった。
  船舶の大量損失を補うため、昭和18年に第2次戦時標準船建造が計画された。その骨子は、@急速大量建造を行うA資材、工数を節約し、かつ輸送力を増大させるB諸設備は必要最小限にとどめるC耐用年数への考慮や、運行能率並びに航海安全性能を低下させても、徹底的に規格の簡易化を図る。これによって船体用鋼材を20〜25%方節約するなど、戦争遂行のため安全性能や耐用年数を犠牲にしても、大量の船舶建造を目指したものであった。
  この徹底した簡易化の対象は、二重底の廃止、隔壁の一部廃止、航行や安全のための設備、機関部・居住設備等の徹底した簡易化であった。そのため建造期間が極端に短縮されたが、その最たるものがE型船であった。
  第2次戦標船では、徹底した簡素化により大量建造を目指したが、低速力・低性能で運航効率が悪く、特に敵に攻撃されやすく、事故も多かったから、第3・4次戦標船の計画では、大型化・高速化船の建造を目指したが、資材も技術者や労働力も枯渇して、終戦までに3次船が5隻だけ建造された。


 1カ月で完成の2E型戦時標準船

  第2次戦標船は、徹底した簡素化により、短期大量建造を目指した。その中で、特にE型船(改E型ともいう)の建造方針は、@簡易造船所を新設して充てるA造船技術者や熟練工員を多く要しないで建造できるよう設計・工作を考慮し、労務員の主力を囚人労働者で充足するB厚鋼板供給能力の不足を補うため、 使用鋼板規格及び寸法を低下させ、従来造船材を生産しなかった製鉄会社も利用するC機関不足に対しては、新たに主機工場として中小工場を利用するほか、機関の種類も、レシプロ、ディーゼル、焼玉等入手できるものはすべて利用するーなどというものであった。
  新しく作られた改E型専門の簡易造船所は既存の4造船所が所管し、それぞれの創意によって、一流れ方式とか、ブロック組み立て方式、ソロバン船台流れ作業方式など、異なった方式で建造が進められた。
  改E型は着工から完成までが1カ月という猛スピードで、毎日新造船が完成する有様であったが、軍の命令で受け取った新造船が、水漏れが激しいためすぐに乾ドックに入れて修理する程の、低速の粗製乱造船であった。
  船舶の大量喪失の中で油槽船が逼迫し、この改E型貨物船を油槽船に改造することとなり、これを「ET型」と呼び、終戦までに149隻が建造された。貨物船として設計されたものを「油槽船」に改造したため、タンカーとしての性能が低く危険の多い船であった。E型はもともと国内航路用に設計された船であったが、シンガポールなど南方からの石油積み取りに使用され、戦没した船も多く、戦後海外で連合軍に接収された船も20隻を超えている。
  生き残った第2次戦標船で、戦後主機換装や二重底に改造して船級を取得した船は、昭和38年頃まで稼動したが、昭和25年の「低性能船買い入れ法」により政府に売却され、28・9年の新造船建造の引き当て船として解体された。