@ 空爆で全滅した輸送船団
 レイテ戦の戦没商船17隻
        ・再度参加の船も

 
  レイテ戦は昭和19年10月、米軍のレイテ島上陸によって始まったが、その時レイテ島の日本軍は1万余名であった。
  この頃米軍はパラオやマリアナ諸島を基地に、マニラや台湾、沖縄を空襲していたが、日本の海上輸送力は潜水艦の攻撃もあって極端に減衰していた。日本軍の作戦は一貫してルソン島決戦であったが、大本営は急遽レイテ決戦に切り替えた。これは台湾沖航空戦の大勝利を信じてのことであった。
  台湾沖航空戦でも米軍のレイテ島上陸後の比島沖海戦でも、日本軍は多大の損害を被り、以後の制空権、制海権を失い、フィリピンの地上戦で決戦を闘うことはなかった。
  レイテ島決戦が決められた当時、レイテ島には第16師団が居ただけで、武器弾薬や食料の備蓄もなかった。そのためレイテ島決戦を遂行する兵員と資材を送り込むために、陸海空共同の増援輸送作戦として「多号作戦」が組まれた。第1次から9次にわたる輸送作戦では、駆逐艦や零戦など制空隊が船団護衛に当たり、軍の高速輸送艦による輸送も行われた。
  しかし日々商船・護衛艦や制空機隊も激減し、船団が目的地に到着しても揚荷中に空襲され、兵士が持てるだけの荷物を携行して上陸するのみという状態であった。
  その頃にはレイテ島東岸の米軍飛行場が完成し、艦載機だけでなく陸軍機が折り返し攻撃に加わるようになり、被害を増大させた。そのためこの輸送作戦に参加した商船は、全船が空爆の犠牲になり、うち14隻の乗組員はほぽ全滅した。
  大本営は12月18日レイテ島決戦の放棄を決め、現地軍は自戦自活の戦いを命じたが、武器も食料もない将兵は、8万余名の97%がレイテ島の土と化した戦いであった。
                                                 戦没船を記録する会