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事務局より 2011/元旦 明けましておめでとうございます。 本年もよろしくお願いします。 2011年元旦 戦没船を記録する会 (2009年12月事務所閉鎖・ホームページ運用移設以来、再整備に手間取りご無沙汰しておりましたが、新年を機に再開に漕ぎつけました。未整備部分もありますが、よろしくお願いします)。 武田さんより ー2009/9/18 父の最期の姿をもう一度見たい 私(武田良造、1931年生)の父(武田仙太郎、1905年生)は漁船「第5琴平丸」の船員であったが、小学生の頃神奈川県三崎港に父を迎えた帰り道、銭湯に立ち寄って父の背中を流し「大きな背中に優しさが溢れていた」こと懐かしく鮮明に覚えている。 だが、1942年父の船は徴用され、1944年にはいってから連絡が減り会う機会も少なくなり、連絡が途絶えて暫くした頃(1945年になってから)「昭和19年10月10日、沖縄にて死亡」との死亡通知がきた。 私は、父と同じく漁船員となったが、父の死が実感として受け入れられず、父の死の実態を求めて、図書館、関係者、沖縄等を訪ね歩いたがはっきりしたことは分からなかった。 8〜9年前、NHKTVで「戦争を振り返る番組」を見ていた時、20秒足らずだったが「1隻の船が海上を漂い、甲板には両手を挙げる男性の姿」が見えた。米軍機の操縦席から撮影したと見られ、機首を下げ船に向かって降下していくところで映像が切り替わってしまった。 「スラリとした長身は父に間違いなく、船の特長も幼い頃に見慣れた琴平丸だった。父は攻撃する意思の無いことを必死に伝えたかったのだろうが、そのまま機銃掃射か爆撃でやられたのではないかと不憫でならない。 私も長い漁船員生活の間、生命危機に何度か遭遇したが、父が守ってくれたような気がする。 その後、NHKや図書館を何度も訪ねたり、知人に協力してもらっているが、この時の映像が見つかっていない。 父の2倍、母の享年と同じ年齢の78歳を迎える今年の10月10日までには、なんとしても父の最期の姿をもう一度見たい。 1、8〜9年前NHKTVの「戦争を振り返る番組」の正式番組名または放送日時(NHKでは、番組名 または放映された年月日時間が分からないと見出すことがきないという) 2、第5琴平丸・父武田仙太郎の最期に関する資料 等に関する情報がありましたら宜しくお願いします。 連絡先 TEL:046−882−1407(武田) E-mail:senbotu@ric.hi-ho.ne.jp(戦没船を記録する会) <事務局からのコメント> ○ 第5琴平丸について 51総トン、1937年4月宮城県石巻竣工、木造機帆船/漁船、無線設備なし。船主=山崎勝次郎/千葉県 1944.1.10日海軍徴用、佐世保鎮守府所管雑役船(海軍徴用船名簿、1942年徴用の公式記録は確認され ていない)。 1944.10.10日沖永良部島付近で米軍機の攻撃を受け戦没(恩給加算調書)、10・10沖縄大空 襲(大型船10隻・小型船100隻近くが被災沈没)の際の被災と見られる。直前の任務・動静等不詳であるが 同日同所での他の戦没船はないので独航中であったと見られる。 ○ 第5琴平丸の戦没船員について 1、戦没船員数=戦没船員名簿には7人が掲載されている。乗組員名簿の記録は見出されていないが、 当時の同型船での乗組船員は7〜8人との記録もあり、乗組船員全員死亡と思われる。 2、戦死場所=「戦没船員名簿」では、死亡場所は「日本近海」となっているが、戦時日誌・恩給加算調 書等によれば、船の戦没場所が「沖永良部島付近」、船員の死亡も同所付近と見られる。 ○ 10・10沖縄大空襲では、南西諸島一帯が攻撃目標とされ、無差別攻撃がなされた。 地域内の船舶も攻撃目標とされ、機 銃掃射もされたとの記録もある。この時米軍は沖縄作戦に備えて低空写真撮影もした。武田さんの見たという「NHK放 送の映像」もこの撮影の一齣と見られる。 事務局より ー2009/1/15 島根県浜田市で徴用船・戦没船パネル展開催案内 島根県では太平洋戦争で船員1,360人・船舶30隻以上が戦没し、浜田市でも100人近くが亡くなり、船も相当数戦没した模様ですが、その実態記録は必ずしも整備されていないようです。 記 日時・場所 @ 2009年2月14日(土)・15日(日) 10:00〜17:00 事務局より ー2009/元旦 あけましておめでとうございます。 昨年中は大変お世話になりました。 本年もよろしくお願いします。 事務局より ー2008/12/31 事務所閉鎖について 「戦没船を記録する会」は、諸事情により2008年12月末をもって従来の事務所を閉鎖しましたが、下記連絡場所を設け、活動を継続しますので、今後ともよろしくお願いします。 記 ◎ インターネット関係以外の連絡 ○〒123-0864 足立区鹿浜2−20−8 篠原国雄方 戦没船を記録する会 ○電話・FAX: 03−3897−6259 ◎ インターネット関係 ○ホームページ http://www.ric.hi-ho.ne.jp/senbotusen/ ○メールアドレス senbotu@ric.hi-ho.ne.jp ○Tel 048−965−6820(栗原) 090−6146−5557 事務局より ー2008/2/19 鞍馬丸について その後の調査で次のことが分かり、Y.Oさんにお伝えした。 1、動静 ○ 1941.12.10日の陸軍アパリ(比島)上陸作戦に参加 実施部隊=田中支隊(台湾歩兵第2連隊主力、山砲第48連隊1個大隊、独立工兵第10連隊、 第1飛行場整備隊基幹) 輸送船団=6隻(鞍馬丸、昭浦丸、和浦丸、ありぞな丸、裕山丸、松川丸) 護衛=名取、第5水雷戦隊、第5飛行集団 41.12. 7日 1700 船団台湾馬公出港 10日 0120 ルソン島北東端エンガノ岬灯台通過 10日 0530 アパリ東方40キロのゴンザガ西方に投錨 10日 0555 海上時化のため舟艇の発進遅延したが、上陸作戦には成功 10〜13日 3回に亘り敵機1機づつ来襲、名取数十名死傷、掃海艇1隻擱座放棄 13日 1800 高雄に向けて帰途につく、高雄に無事帰還(日時不明)は確認されている ○ その後42.7.9日沈没までは不明 上陸作戦には参加した記録はない。 戦没者に兵員が含まれていないことから兵員輸送はしていなかったものと推測される。 沈没位置からすると台湾から上海に向かっていたものと推測される。 2、戦没船員数=戦没船員名簿から集計したところ、42.02.06日=1名、02.08日=1名、02.09日=89名、 合計91名となっている。 3、乗組み船員数=公式な記録を把握することはできなかったが、当時の同類船では80〜100名との 記録がある。 4、生存者の有無=生存者の記録を見出すことはできなかった。91名の戦没者からすると全員が死亡の 可能性が強い。 5、遺族会の有無と実状=関係方面に当たってみたが、有無さえ把握できない現状。 鞍馬丸の下記につき情報をお持ちの方、是非ご連絡をお願いする。 1、41.12.14〜42.02.09日の動静 2、乗組み船員数 3、生存者 4、遺族会 連絡先 E-mail:senbotu@ric.hi-ho.ne.jp Tel:03-3452-5085 Fax:03-3452-2711 Y.Oさんより事務局へ 2008/1/15 2008/1/20up あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
お忙しい中、表記の件につきお教えいただきありがとうございました。「調査」では、いろいろお手間をお掛けしており、恐縮しております。
これまで、お教えいただいた内容でどこを調べていけばいいか手掛かりが掴めました。とりあえずは、中目黒の防衛省研究所図書館から当たっていきたいと思います。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 まずはお礼まで。
事務局よりY.Oさんへ -2008/1/11 2008/1/20up
明けましておめでとうございます。 7日以降調査に取り掛かり、未完の段階ですが、急に12日より10日間ばかり所用で中断せざるを得なくなりましたので、現段階の状態をお知らせします。
1、鞍馬丸 (KURAMA MARU)自体 船 主:國際汽船(神戸) 造船所:浦賀船渠株式会社(浦賀) 起工::1929.6.22 進水:1930.6.24 竣工:1931.2.10 長さ:232.59m、幅:17.68m、喫水線までの深さ:10.16m 船種:貨物船 6,769G/T 航速:13.5kts
2、鞍馬丸履歴 1941.1.2に陸軍に徴用される。 1942(昭17).2.9=東シナ海(28-25N 122-13E)で雷撃により沈没(沈没地点で異なった記録もありますが、これが正確のようす) 徴用から沈没までの動向について種々調べましたが、公表資料からは見出すに至っておりません。 防衛庁研究所図書館史料室に「徴用船動静表」がりましたが、1942年5月以前の分は不掲載でした。 別途文書郵送予定の資料にも「鞍馬丸」動向については、記載されていない(他船は記載あり)ので、記録自体がないのかもしれせん。 もしお急ぎでしたら、下記に「同船乗組みのご遺族」ということで、直接問い合わせて見てください。 ◎防衛庁研究所図書館史料室 〒153-8648 東京都目黒区中目黒2-2-1 TEL:03-5721-7005(代表) 内線 6693
3、鞍馬丸乗組みの生存者 前信で「船員58名(前信の通り89名との記録もありますが未確認段階です)・備砲隊1名戦死」をお知らせしましたが、同船乗 組員名簿の記録が見つからず、何名乗船していたのかが未確認で、生存者の有無も不明の段階です。 同船の船主であった「国際汽船」は後記のとうり、短期間の存在且つ変転の激しい会社であり、戦中の混乱期に消滅しているこ とから、記録が殆ど残っていない模様です。
4、国際汽船について 創立=1919(大正8).7.3 社況=1920.7月には59隻・50万トン所有の盛況ぶりでしたが、その後低迷、1930年黒字化。 1938年大阪商船傘下に入り、1943(S18).11.16 大阪商船と合併(国際汽船名消滅)。 5、遺族会について 手がかりを模索中。
1月中には再度連絡できると思います。悪しからずご了承ください。 Y.Oさんより -2007/12/26 2008/1/5up 突然の問い合わせにもかかわらず、早速にお教えいただきありがとうございます。 伯父の名前は「K.O(鹿児島県出身)」です。 鹿児島の実家には、伯父の学生姿の写真が飾ってあり、幼い頃祖父や父から「船乗りで魚雷を受けて戦死した」と聞かされた事はありました。数年前、戸籍謄本を見た時、伯父の欄に「鞍馬丸」という船の名前が記載されていたのを覚えていますが、これまでの私の意識や想いでは、伯父のことをそれ以上知ろうというところまで至らず今日まで来てしまいました 実家で一人で住む母親から、「来年3月に祖父、母、父、伯父の4人の法要を一緒にやりたい。自分も年老いているし、周りの親戚も少なくなり、大きな供養もこれが最後になりそうだ」という話を聞かされました。その段取りの話の中で、「一体伯父はどのようにして亡くなったのだろう。17歳という若さで。遠い暗い海の中でつらかっただろうな」と思い、今度の法要に幼き伯父を知るという遠い親戚も参加するというのでそれまでにいろいろ調べてみようと考えた次第です。 ですのでとりあえずは、伯父に関する事は何でも手当たり次第探ってみようと思っています。的が絞れずにいますが、キイワードとして鞍馬丸(陸軍に徴用されどこからどこへ何をしに航行していたのか)、国際汽船等につき何でも構いませんので、資料や文献等で気がつくことがありましたらご教示ください。また、この船の「生存者」の方はいらっしゃるのでしょうか。「遺族会」等の存在につきましても情報ありましたらお教えください。 お願い事ばかりで恐縮ですがよろしくお願いいたします。 (なお、貴会の賛助会員として申込いたします。) 事務局よりY.Oさんへ -2007/12/26 2008/1/5up ご連絡ありがとうございます。 1、鞍馬丸について 昭和6年に浦賀船渠にて竣工、昭和16年1月陸軍に徴用される。 昭和17年2月9日中国浙江省台州東方(28−25N 122−03E)において、米軍潜水艦の 雷撃を受け沈没。 船員51名(89名との資料もある)が戦没した。 2、叔父さんについて 叔父 さんのお名前は「K.Oさん(大正13年生)」でしょうか? もしその方でしたら、当時「鞍馬丸」に司厨部員として乗船されておられたこととなっていますが? 取りあえず以上をお知らせします。 なお必要事項ございましたらご連絡ください。 年明け後調査の上お知らせします。 良い年をお迎えください。 Y.Oさんより -2007/12/25 2008/1/5up 鞍馬丸について メールにて失礼いたします。 教えていただきたいことがありまして連絡いたしました。 私の伯父が、昭和17年2月に鞍馬丸(国際汽船)にて被雷し戦死したと聞かされています。 この鞍馬丸につき、何か参考となるような資料などありましたらお教えください。 どうぞよろしくお願いいたします。 事務局より -2007/7/15 パネル展示会案内 「平和のための埼玉の戦争展」に、本会のコーナーが設けられ、パネルを展示します。 是非ご参観くださいますようご案内します。 日 時 2007年7月26日(木)〜30日(月) 各1000〜1800 場 所 コルソ7階(JR京浜東北線・浦和駅西口前) 入場料 無 料 展示物 太平洋戦争レイテ戦=民間船による輸送作戦を中心としたパネル 「レイテ戦」は、1944年(昭和19年)10月、フィリピンのレイテ島およびその周辺で の日本軍と米軍と の戦いで、双方が太平洋戦争終盤の重要な戦いと位置づけ、総力を挙げた大会 戦(史上最大の海戦)ともいわれている)。日本はこの戦いで「米軍のフィリピン奪還の阻止と 日本の南方資源輸送路確保」を(狙ったが大敗北(戦死兵約8万人、海軍壊滅)、制海権・制空権を完全に失うことと なった。 この戦いにも多くの民間船・船員が動員され、凄惨な戦いを強いられ、無念の死を遂げた。 「戦争展全体」としては、戦争の実態と平和を守るためのいろいろなパネルが広い会場一杯に展示される他、種々のイベントが企画されている。 事務局より -2007/4/26 太平洋戦争時の戦没小型船の記録の収集・整備・保存に注力中ですが、海軍徴用船関係については、関係者の協力を得てある程度の進展を見ましたので、本会HPに「中間公表」としてUPしました。(『資料』『会報』等参照) 海軍関係にしろ、まとまった公的資料は少なく、断片的資料を結びつけながら整備してゆかねばならず、時間と労力の割には進展が伴わず、ストレスが溜り気味ですが、何かのお役に立てれば幸いです。お気づきの点あればご連絡ください。 引き続き陸軍徴用船、その他についても努力中です。各地の市町村史誌等に「こんなことが載ってるよ」ということでも結構ですので、お知らせ頂ければ有難いです。 菊池さんより(投稿) -2007/4/26 ある小型戦標船タンカーの空しき処女航海物語 (「資料=証言・記録集」に移載しました) 事務局より -2007/4/26 オランダより「叔父が太平洋戦争中、豊福丸という船に捕虜としてして乗船中戦没した。豊福丸について調べているうちに、貴会HPの『太平洋戦争時の喪失船舶明細(汽船主体)』中の「豊福丸」に接した。同船の当時の状況・戦没者についてのより詳細を知りたい」との、E -mailによる照会があった。 同船は1944年9月20日マニラ発高雄(台湾)向け航行中、21日15-30N119-50E付近で米軍機60機と交戦・戦没し、船員11名/乗船者144名が死亡したこととなっている。しかし、照会者のいう乗船・溺死したという捕虜に関する記録は把握できなかった。 可能な返信をし、返礼信もいただいたが、外国でも見られているとの実態に接し、緊張感を高めさせられました。 事務局より -2007/1/1 ![]() 新年おめでとうございます。 本年もよろしくお願いします。 事務局より -2006/11/4 『資料欄=戦時喪失船舶明細表』中、『19/02/22 山霧丸・・・』は、「山霜丸が正当ではないか」とのご指摘がありました。ご指摘のとおりでしたので「19/02/23 山霜丸 6,776 山下汽船 雷撃 ロタ島北西100km付近 3」と訂正します(明細表訂正済)。 なお、過日ご指摘がありました、「高瑞丸・昭豊丸の船員戦没数」については、「高瑞丸=0、昭豊丸=4」としました。(昭豊丸については、沈没時の船員戦死者は1名だったようですが、この明細表では、沈没時の戦死者のみでなく、当該船乗船の経歴者で、陸上で死亡された方も含めた人数としている例(全般に亘っているか否かは不確)も散見されますので、昭豊丸についても、台北での死亡1、比島での死亡2を含めた4名としました。ご了承ください。) ご指摘により、より正確なものとしてゆきたいと考えております。 事務局より -2006/9/22 各地の展示会参加等もあり、ご無沙汰しました。 ○ 横浜・大阪・埼玉等の展示会の模様を会報43号に掲載し、HPにもupしました。ご一読ください。 ○ 当会は、昨年来「戦没漁船・機帆船の記録収集と整備」に力点を置き取り組んでおり、相当程度の進展を見ております が、大型商船関係に比べると資料不足(特に陸軍徴用船 関係)は否めず、苦慮しております。 ○ HPを見て入会についての問い合わせが以前よりあったことおよび今後関係者や関心をもたれている方等のご協力を得 てゆく必要が高まったこともあり、改めて「会員募集」をすることになりました。不明点等あればお問い合わせの上、よ ろしくお願いします (別掲「会員募集」頁参照)。 事務局より -2006/7/1 「戦没船・船員の記録」の収集・整備・保存活動を一層促進するための一助として、「昭和17-18-22年版統合船名録」を作成、PC入力しました。「せっかく作ったものなら、公表しては」との要請もありましたので、収録項目は不十分ですが、公表することとしました。 「太平洋戦争の最底辺を支えたのは、海上特攻隊的な行動を強いられ、何千隻・何万人の犠牲を払った小型船であり船員ではなかったのか」ともいわれています。 漁船・機帆船を中心とする小型船(300総トン未満)の戦没記録は、一部地域や一部々門(特設監視艇等)について、研究機関・者により収集・整備・公表されておりますが、全国的・全般的なものは整備・公表されておりません。なんとも痛ましい限りです。 大いに遅きに失した感がありますが、出来る限りのことはやっておく義務があると思われます。今後、各地・各部門の協力を得ながら活動を進めてゆきたいと考えておりますので、よろしくお願いします。 統合船名禄は、戦没船・船員の記録とは直結しておりませんが、直接記録が少ない中で、2次資料の分析や関連付けからのアプローチも必要と考えられます。その1つとして統合船名録を取り上げたわけです。 船籍港順(別)としましたので、地域的にお気づきの点が有りましたらご連絡をお願いします。 菊地さんより -2006/6/22 貴会のご活動を深謝いたします。 ところで目下 讀賣新聞で「漂流する海洋日本」を連載中で、一寸戦時下の海運行政の失態側面を投稿したところ今日 (6.20)の欄に「太平洋戦争時徴用された元船員云々」として掲載、併せて船員、船舶の戦禍率も付記されたことは貴会の地味な活動をバックアップすものと思いお知らせします。 事務局より - 2006/3/7 〇 当方のE-mail不調で、連絡不行届きの向きがあり申し訳ありませんでした。 〇 yaharaさんからはその後郵送先の連絡があり、会報を郵送しました 〇 東京在住のTさんが、電話FAXで問い合わせの上来訪された。 Tさんのお父さんは、軍人として船で前線に向かう途中戦没したそうですが、Tさんは父がどんな状態で乗船しており、死んでいったのか知りたいとのことでした。 生存兵士の記録から、特に乗船兵士の状態をよく表していると思われるもの3篇(本会会報から1篇、「海なお深く PARTU」から2篇)のコピーをお渡し、当時の状況等もお話しました。 Tさんは悲しみを新たにするとともに大変感激され、5千円のカンパをされました。 本間さんより - 2006/3/2 戦没船のHPも、時々拝見しておりますが、少しずつ中身が増えていって、やはりこうあるべきと思いました。引き続きがんばってください。 事務局より金野さんへ - 2006/1/30 ご連絡有難うございます。 帝瑞丸は「S20.4.18、関門吉見沖にて触雷・沈没」との記録が残されているのみで犠牲者については不明です。 当会としては、現在、戦没漁船・機帆船の記録収集に努力中です。今まで入手した資料を順次HPに掲載する予定です、お気づきの点がありましたらご連絡ください。 ご健勝・ご多幸をお祈りします。 金野さんより - 2006/1/25 帝国船舶所属の帝瑞丸は何時、何処で戦没し、犠牲者等の有無などご回報ください。 事務局より - 2006/1/30 返信遅れて申し訳ありません。 当方のHPを見てのお尋ねと思われ、アクセス有難うございました。 会報は印刷物として発行しております、御希望でしたら郵送します。送り先等ご連絡ください。 yaharaさんより - 2006/1/24 会報38〜40号の申し込み方法について問い合わせた者です。よくわからないソフトを入れたくないので問い合わせていただいたのですが、会報は印刷物の形をとっていないのでしょうか?お返事をいただけますようお願いします。
長原さんより - 2006/1/16 「戦没船を記録する会」のHP見ました。 海図を埋め尽くす戦没船の数々、戦没者数など戦争の悲惨さが生々しく蘇ってきます。この愚かさを二度と繰り返さないために、この事業の進展を節に期待し祈ります。 先の長い作業ですが頑張ってください。 西本さんより - 2006/1/12 レイバーネット日本のサイトで「戦没船を記録する会」hpを知りました。 現在アップされている会報を全て読ませていただき、貴会の活動がよくわかりました。 会報の「遭難記」やパネル展で肉親の戦死状況を質問されるご遺族の姿には、胸がいっぱいになり、悲惨な戦争の記録を残すことの大切さをしみじみ感じます。 資料ページに「証言」や「記録集」も掲載される予定との事なので、戦没船の実態をもっと詳しく知ることができそうです。若い人達にも戦争の悲惨さを理解してもらえる資料になることでしょう。 今年は「戦争と平和展」に行って、貴会のパネル展を参観したいと思います。 菊池さんより - 2006/1/7 早速のご回報ありがとうございます。 事務局より菊池さんへ - 2006/1/7 軍の現地報告により、「27-35N 127-30E」が確認されております。 「戦没船員名簿」によりますと、同船戦没者として下記4名が記載されております。貴殿ご指摘の通り、A氏が昭豊丸戦没時に船と運命を共にし、B氏は台湾で陸軍病院に入院、C・Dの両氏はマニラで暁部隊に徴発され、その後の経緯は不明ですが、下記のとおり戦没に至ったと思われます。 B氏 不詳 、本籍=朝鮮慶尚北道醴泉郡、機関部、20.06.28台北で戦没、 A船船扱い。 C氏 不詳 、本籍=徳島県那賀郡坂野町、甲板部、 20.07.28ルソン島で戦没、A船船扱い。 D氏 不詳 、本籍=兵庫県赤穂郡赤穂町、甲板部、 20.07.28ルソン島で戦没、A船船扱い。
貴殿の一層のご活躍をお祈りしております。 菊池さんより - 2006/1/5 私は戦時中大同海運のタンカーや貨物船5隻で挺身、内4隻戦没(3隻は交替後に沈没)辛うじて最後の2A型 向日丸(むかひまる)が生き残りました。 その体験から、かねて貴会のご活躍に注目し「知られざる戦没船の記録」を購入し、自社船の戦記収集にも活用しています。 ところで、このたび戦時喪失船舶明細表をホームページで公開された熱意に敬意を表しますとともに、下記2船の記録に疑問がありますのでご回報方お願いします。 18 10 14 高瑞丸の項 大同の社史では船員戦死者ゼロとなっていて、私の自分史「硝煙の海」にもそのように載せたところ、愛読者より ”他の資料には戦死者あり” となっている、と忠告をうけ、同船生存者に確認したところ、沈没後海軍に救出され佐世保に上陸。沈没は軍極秘とて小人数で旅館に分宿させられたので戦死者の有無は不詳とのことでした。 大同は他社と合併のため当時の記録無く、今般殉職船員顕彰会に問い合わせたところ、高瑞丸の記録無しと回答がありました。 したがって私は会社の記録に信憑性ありと思いますが、貴会の戦死者資料の出所はどこでしょうか? 19 10 25 昭豊丸の項 この2E型タンカー爆沈時乗り組んでいた生き証人として、戦死者は船員1、警戒隊員1、計2名であると明言いたします この船の件も前記顕彰会に確認してみたところ、船員 比島1、台北1、ルソン島2、計4名の回答でした。私の記憶ではマニラで便船待ち中に暁部隊から船員4名徴発されたので、ルソン島の2名はこの船員では。 また台北の1名は台湾の高雄で1名発病〜陸軍病院に入院した船員かと推定されます。しかし社史には戦死5名となっているので疑問もあります。 ついでに余事を付記いたします。前記の自分史は目下、下記ホームページで公開中ですので、何かにお役立ていただければ幸いです。http://www.geocities.jp/kaneojp/ くりチさんより - 2005/12/14 HP開設おめでとうございます。 太平洋戦争では、船員さんや船が大変な犠牲を蒙ったようですが、その割には犠牲の公的記録があまり残され(公表され)ていないようですね。特殊部門であり、戦没した船員や船が海底深く沈んでしまっているので、物証がなく大変でしょうが、それだけに貴重なことだと思われますので、頑張ってください。 今まで収集・整理された資料も公表される由、期待しております。 管理人より - 2005/12/8 掲示板を開設しました。 皆様の投稿をお待ちしています。 |