サンクチュアリ



−− 11 −−



 その日の夕方、研究所で仕事を続けるロビンの元へ、電話が入った。
 取り次いでくれた女性事務員に軽く会釈しながら、受話器を耳に当てる。
「はい、グラスフォードです。……あら、コウ? 何か……」
 受話器から流れるコウの声が、いつもの落ち着きをなくしている。
「どうしたの、コウ? もっと落ち着いて話して」
 そう尋ねた直後、ロビンの、受話器を握る手が小刻みに震え始めた。
「……レイが? ………倒れたって…カーリアで? ………わかったわ。すぐいく」
 受話器を放り投げるようにして電話を切ると、そのままロビンは走り出した。
 白衣のまま車を飛ばして、カーリア記念病院にたどり着いたのは、電話を切ってから三〇分後だった。
 病院では、一足早くついたらしいコウと、白衣姿のリョウが待っていた。
「コウ…!」
 待合室の椅子に腰掛けたままのコウに、ロビンが走り寄る。コウが顔を上げた。
「ロビン…早かったね」
   レイは? …リョウ、レイは?」
 コウのそばに立つリョウを振り仰いで、ロビンが尋ねる。リョウは、力無く首を振りながら、溜め息とともに答えた。
「咳き込んで…そのまま呼吸困難を起こしたんだ。心臓もかなり弱ってるし…しばらくは酸素吸入機から離れられないだろう。   今まで、そうならなかったことのほうが奇跡だ。もう一度、同じような発作を起こしたら……」
「…そんな……まだ…早いわ…」
 視線を落として、ロビンが呟いた。
「ロビン……」
 何かを言いかけたリョウを、顔を上げたロビンが視線で制した。
「まだ早いわ! だって、まだ完成してないのよ!? 今のままじゃ賭けなんて出来ない!健康な実験体でさえ、成功率は一〇パーセントよ!? そんな賭けなんて……」 
 ロビンの言葉がとぎれた。ふと、後ろを振り向く。いつの間にか立ち上がっていたコウが、ロビンの肩に手をかけた。
「ロビン…、一〇パーセントじゃない。昨日の夜、レイが言ってたんだ。可能性のある方法があるって。今、自分のデータを元にシミュレーション中だって…。   リョウさん、レイと話せる?」
 コウの質問に、リョウは首を振った。
「いや…薬で眠らせてあるし、起きてたとしても、話の出来る状態じゃない」
「…わかった」
 きっぱりとうなずいて、コウはロビンの腕をとった。
「ロビン、家に戻ろう。データは、レイのコンピューターに入ってるはずだ。もし、それが可能なことなら……」
「え…でも……」
 ロビンが、迷うような視線をリョウに向ける。リョウはうなずいて見せた。
「出来るだけ…早い方がいい。こんなことは言いたくはないが、多分、一刻を争うはずだ。今ならまだ、手術に耐えられるだけの体力はあるだろう」
 それを聞いたロビンが一瞬、視線を落とす。が、すぐに顔を上げた。
「わかったわ」


 家に帰り着いたコウとロビンは、まっすぐにレイの部屋のドアを開けた。机の上に乱雑に積まれたディスクの、一番上にある一枚を手にして、コウがロビンを振り向く。
「ロビン、このディスクだ」
 言いながら、コンピューターのスロットにそれを差し入れる。
 次々とディスプレイに表示されるシミュレーションデータを、ロビンは息を詰めて見つめ続けた。
「血管を…? 心臓は人工のもので……待って、どうしてここに肺静脈が二本あるの? コウ? ゆうべ、レイを手伝ってたわよね?ここについてるこの印は何かしら?」
 ロビンがディスプレイを指さす。その箇所をのぞきこんだコウがうなずく。
「僕もそれは聞いたんだ。そうしたら、計算不可能っていう印だって言ってた。……単なる自分の勘で、根拠がないって。他の血管の太さや位置なんかは、ずいぶん細かく計算していたよ。僕にはさっぱりわからなかったけど……ほら」
 そう言って、コウは机の上にあった数枚の紙をロビンに手渡した。計算データがびっしりとプリントされたその紙の所々に、レイの、右上がりの細い文字が書き込まれている。
「これを見ると……二本のうち一本は普通の静脈で…もう一本は……特殊な弁がついてるみたいね…」
 手元の紙とディスプレイを交互に見ながら、ロビンが呟く。コウがその表情をうかがった。
「……どう?」
「わからないけど…このデータ通りにすることは可能よ」
 それを聞いたコウが、わずかに安心したように息をつく。
「…昨日の夜、レイが言ってたんだ。   今までのことが全部嘘だって言ったら信じるかって。それを聞いて…僕は……僕のしたことは間違ってたんじゃないかって…」
「間違い? 何が?」
「僕は…知らないふりをするべきだったのかも知れない。レイに何もかも背負わせることが嫌で…なのに結局、レイは僕への気遣いを背負い込んでいたような気がする…。わからないんだ。あの時、僕はどう答えれば良かったのか。信じるって? それとも、信じないって? どう答えれば、レイは救われたのか…僕には、わからなかったんだ…。救いたいのに…僕は何もできないから…せめて、支えてあげたかったのに。……ねえ? 僕は…信じたかったんだ。嘘だって…今までのことは全部悪い冗談だって…そう信じたかった。正直…知らずにいたかったとは思う。でも、それと同じくらい、知っててよかったと思うんだ…。矛盾してるよ、すごく。レイのそばにいたくて…時間が止まればいいと思って…でも、苦しむレイを見たくなくて…時間が早く過ぎればいいと…。どうすれば…何を言えば、彼を救えたんだろう…。信じるか、と…そう聞かれたときに…どう答えれば……」
 溜め息をついたコウに、ロビンが首を振る。
「そんなこと…あたしにもわからないわ。レイも、今朝、車の中で同じようなことを言ってた。コウには意地でも嘘だと言ったほうがよかったかもしれないって。でも…結局、コウはレイに知らせる道を選んだし、レイもそれを否定できなかった。コウに、全部知ってるって言われた瞬間、嘘がつけなかった。二人が互いに嘘をついたとしても、きっと今度はそのことで悩むんだわ。正直に打ち明けたほうがよかったんじゃないかってね。あの日、リョウが言ったように、答えなら誰でも出せる。ただ、誰も正しい答えを知らないだけ。あたしたち四人とも…ううん、世界中の誰だってね。多分それは、神様だって知らない」
「僕が嘘をついてたら…レイに何も告げなかったら…」
 コウが迷うような視線を向ける。それを受けて、ロビンが微笑んだ。
「今と変わらないわ。コウは、あなたを気遣うレイを見なくてすむ代わりに、レイを真正面から包むことが出来なくなる。レイは、コウを守ってると思える代わりに、コウに守られる幸せを知ることが出来なくなる。そして二人とも、打ち明けた苦しみを感じない代わりに、嘘をついたことに苦しむのよ。……ねえ? 誰かを守ることは…守りたいと願うことは…どこまでが自己犠牲で、どこまでがエゴイズムなのかしらね? あの夜以来、そのことが頭を離れないの」
「あの夜って…?」
 コウがそう尋ねた直後、電話が鳴った。部屋の片隅の電話に、二人の視線が注がれる。
 青ざめた表情で、受話器を取り上げたのはコウだった。
「リョウさん? ……はい。………わかり…ました。待って下さい」
 受話器を持ったまま、コウがロビンに電話の内容を伝える。
「レイが…発作を……」
「貸して!」
 そう言って、ロビンはコウから受話器を受け取った。コンピューターのスロットから、先刻のディスクを取り出しながら、同時に受話器の向こうのリョウに告げる。
「リョウ? 三時間待って。必ず間に合わせるから。だから…それまで……あの人を守って! それから、手術の準備をしておいて。   そうよ、決まってる、移植手術よ!」
 それだけ言って、電話を切る。そのまま、青ざめた表情で立ちつくすコウの腕に手を置いた。
「コウ……レイの…あの人のそばにいてあげて。準備ができたら、あたしもすぐに向かうから。   悪いけど、レイの車借りるわ」
「ロビン…僕には、何もできないけど…お願いだ、レイを……!」
「いいえ、何もできないだなんて…あなたは……あなたがいるだけで…。このデータ…何もできなかったのはあたしのほうよ。今は、レイのデータを信じるしかないわ。それに…あたしの言ったことは間違ってたわ。可能性は一〇パーセントなんかじゃない。前に言ったわよね。五〇パーセントよ。二つに一つ…可能性は五分五分だわ」
 そう言い残して、ロビンは部屋を出ていった。
 車のエンジン音が遠ざかる。それを聞きながらコウは、一人残された部屋で、机の上にある小さな写真立てを見つめていた。ロビンと同じ金の髪を…レイと同じ紫の瞳を…。わずかな間、そうしたままコウは立ちつくしていた。そして、そっと目を閉じる。が、やがて小さく息を吐き出すと、ゆっくりと目を開いた。もう一度、写真立てに視線を向けて、静かにそれを机に戻す。窓から差し込んだ金色の光がそこに降り注いだ。


 そうして、レイは夢の中にいた。深い眠りに落ちる前の、希薄な現実感をまとった夢の中に。
 柔らかな風の音が耳に届く。いくつもの瞳が、自分に向けられる。
    穏やかに微笑む空色の瞳。
    揺るがない意志を持った深い青の瞳。
    そして、感謝を伝える淡い紫の瞳。
 体の中に入り込んでくる風の音が、より深い眠りを促すものだと気づいた時にはもう、闇に溶けていく意識を引き留める術はなかった。その寸前、自分を包むように金の髪がきらめく。それがいったい誰のものなのか……確かめることはできなかった。


    八月。キッチンに立って、少し慌ただしげに作業をしながら、ロビンは、隣で手伝うコウに話しかけた。
「さっきね、コウが買い物に行ってるあいだに、電話が来たの」
「え? 誰から?」
 聞き返すコウに、ロビンは半分怒ったような表情で答えた。
「父さんから」
   え? 大使館から…じゃなくて?」
「そう、行方不明の本人からの直々の連絡よ。…まったくあの人はいったい何を考えてるのよ!? いきなり、来週帰るからって、こうよ!? 聞いたら、事故のあった宿舎には結局行かなかったんですって。車で向かう途中で、戦災孤児が集まってひっそりと暮らしてる集落があったんで、そこで手伝いながら、子供たちの写真を撮って過ごしてたなんて言うのよ? 戦況が悪化してしばらく連絡できなかったけど、元気だったかなんて! ふざけてるわ! 思わず怒鳴りつけちゃったわよ」
 口をとがらせるロビンに、コウが笑った。
「まあ、ロビン。無事だったんならよかったじゃないか。ほんと、無事でよかったよ」
「……まあ、ね」
 少しすねたように、それでもロビンがうなずいた。その横で微笑んでいたコウが、ふと壁の時計を見上げる。
「あ、ロビン、もう十一時だよ! 早く準備しないとレイが帰ってきちゃうよ!」
「え、大変! コウ、そっちのオーブンの様子は?」
「うん、そろそろいいみたい。……それにしても、ふざけてるのはロビンのお父さんよりもレイのほうだよ。ロビンのお父さんは、来週帰るからって、一週間の余裕を持って知らせてきただろう? レイなんて、昨日の夜だよ? いきなり電話してきて、明日退院するからって。半日しか余裕をくれなかったじゃないか。退院の時は派手にパーティしようと思ってたのに…準備が間に合わないよ」
 先刻のロビンと同じように口をとがらせるコウに、ロビンもうなずいた。
「まったくよね。どうせ無理矢理決めたんでしょう?」
「うん、こんなところにいつまでもいられるかって言ってた。こんなところって…自分の職場なのにさ。リョウさんも、なんだかんだ言ってレイには甘いからね、押し切られたみたいだよ」
 コウがそう言った直後、玄関先に車の停まる音がした。
「あ、レイかな?」
 そう言って、慌てて玄関へと向かったコウは、扉を開けた人物の顔を見て、小さな溜め息をついた。
「なんだ、リョウさんか。レイは一緒じゃなかったの?」
 一足遅れて追いかけてきたロビンも、同じように不満げな息をもらす。
「なんで、レイと一緒じゃないのよ? リョウに送らせるから、迎えに来なくていいってレイが言ってたのに」
 そんな二人を前にして、リョウが苦笑した。
「おいおい、二人とも。そこまであからさまに、不満そうな顔しなくてもいいじゃないか。途中まで乗せてきたんだよ。そうしたら、途中であいつが降りるって言ったんだ。買うものがあるから、先に行ってろって。   なあ、あがらせてもらってもいいだろう? 二人して、廊下をふさがなくてもいいじゃないか」
「あら、ごめんなさい」
 そう言って、脇によけたロビンの横をすり抜けて、リョウはリビングへ向かった。まだ不満げに後ろをついてくる二人に、リョウが微笑みかける。
「レイのやつさ、花を買いに行ったんだ」
「花?」
 聞き返すコウに、リョウがうなずいた。
「ああ。コウとロビンに渡したいって。退院祝いに同僚からもらった花が山のようにあるのに、なんでわざわざって言ったら、自分で選んだものを渡したいってさ。…感謝してるんだよ、二人に。少し遅れるのも許してやってくれ」
 それを聞いて、ロビンが肩をすくめる。
「感謝だなんてね…結局、あたし達は何もできなかったのに」
 その横でうなずくコウを見ながら、リョウが笑った。
「俺も同じことを言ったよ。そうしたらレイに笑われた」
「え?」
 ロビンが首をかしげた。
「…わけはレイに聞いてみるといい。まあ、多分笑うだけで何も言わないと思うけどね」
 からかうような口調で言うリョウを見て、コウがふと思い出したように言った。
「ああ、ロビン。思い出した。レイの手術の日に、ロビンが言ってただろう? 自己犠牲だとか何とかって」
「ええ。…それがどうか?」
「こないださ、レイとそのことで話してたんだ。そうしたら、レイが笑ってた。相手を信じて、感謝すれば、それは犠牲でもエゴでもないって。おまえたち二人が自分に教えたはずなのにって」
 そう言って微笑むコウをまぶしげに見ながら、ロビンがうなずいた。
「そうね…本当にそうだわ。……馬鹿みたいね、あたしたち」
 その時、玄関先に再び車の音が近づいた。コウが玄関に向かって走り寄る。
「今度こそレイだよね」
「あ、まだケーキが焼けてないのに!」
 キッチンに走りかけたロビンを、リョウが止める。
「もう遅いよ、ロビン」
 立ち止まったロビンの腕をとって、コウが微笑んだ。
「さあ、三人で迎えようよ」
 そう言ってコウが、玄関の扉を開けた。
    差し込む夏の光が、玄関先で踊る。柔らかな風が庭の木を優しく撫でていく。
 ちょうど十ヶ月前、ロビンが立っていたその場所に、レイは立っていた。両手に大きな花束を一つずつ抱えて。
 むせ返るような花の香りの中で、レイが静かに微笑む。
「……ただいま。…コウ、ロビン」
 次の瞬間、その場所は歓声に包まれていた。





── 了 ──


   
           
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