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回 帰
物心ついたときから、僕は自分が周囲と同調していないことに気がついていた。周りとは違う異質な存在だと。きっかけはどんなものだったかは、今はもうわからない。が、十五才になった今、僕ははっきりと認識している。僕は……異邦人だ。
周囲と僕との間にはいつも、薄いヴェールがあった。そのヴェールは薄くしなやかで、決して目にすることも手に触れることもできない。だが、それは確かに僕の周りにあった。自分の手のひらを見つめる。半ば癖となってしまったこの仕草で、僕は僕の異質さを噛みしめる。……手を見る。指がある。爪も、青白い血管もある。細かな関節のついたそれは実に多様な動きをする。だがそれは僕のものではない。確かに僕が動かしてはいるのだが、僕は内側から命令するだけで、実際に動かしているのは、外側にいる『誰か』なのだ。手のひらから目を上げて、周囲を見回してみると、僕の異質さはより一層際だってくる。僕は誰かの目を借りてその景色を見ている。決して自分の目ではなく、誰かが取り入れた映像を内側から見ているにすぎないのだ。…薄いヴェールを通して。
他人と接するときもそれは変わらない。僕は計算しながら行動している。言うべき言葉を、見せるべき表情を、計算して、外側の誰かに命令する。人当たりのよい、『良い子』を演じるために。そうしなければ、僕はここでは生きてはいけない。周りの人々に、僕が異質な存在だと気づかせてはならない。僕は計算を続ける。演技を続ける。本当の僕を内側に隠して。
それでも、眠った時だけは違う。眠りの中で見る夢の世界では、僕は自分自身だけで行動することができる。自分の目、自分の手足、自分の感情。それは僕自身を解放してくれる。僕は夢の世界を…夜がきて、目を閉じる瞬間を心待ちにして暮らした。朝がきて、目覚める時が残念でたまらない。日が沈んで、解放される夜の時間を思いながら、僕は息苦しい真昼を過ごす。そうして僕は、いつか読んだことのある詩を思い出す。あれはハイネだったろうか? 定かではないが。
死は涼しい夜
生は蒸し暑い昼間
早や黄昏そめて私は眠い
昼間の疲れは私に重い
黄昏そめて…。そうだ、僕はいつだって眠っていたかった。計算と演技には慣れきっていたつもりでも、それは僕にとって重くのしかかる疲れでしかない。
それでも、そう思いながらも僕は諦めてもいた。周りの人々だって、少なからず演技して生きているものなのだろう。多分、僕はその比重がほんの少し他人より多いだけだ。それに何より僕は、演じること以外に生きていく術を知らなかった。誰も、教えてはくれなかったから。
……帰りたい。精神的な疲れのせいで、全身を支配する倦怠感の渦に呑み込まれながら、ふとそんな言葉が浮かんできた。ひどく魅惑的な言葉だった。が、直後には自分自身で否定する。一体、何処に帰ると言うのか。帰る場所なんかない。だからこその演技、だからこその絶望。
眠ろう。眠っていれば、僕は演技しなくてもすむ。外の世界はあまりにも煩わしい。眠って…眠って。いつまでも眠り続けて。僕が、本来の僕でいられるために。
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あたしはいつでも誰かを捜していた。それはなんて言ったらいいのか、恋人でもなく、友達でもなく。仲間って言うのが一番正しいのかもしれない。今までだって友達はいた。仮にも十五年間生きてきたんだもの。でもそれは、あたしの求めているものとは違う。うまく言えないけど…何かが違う。
そうしてあたしは、仲間を空想の世界に求めるようになった。だって、現実の世界にはいないから。幻想文学と呼ばれるもののなかに、あたしはそれを見つけられそうな気がしていた。そういった類の本を片っ端から読みあさる。そんなあたしから、友達も離れていった。それでもかまわなかった。友達よりも大切な、仲間がそこにいたから。
『恐怖と幻想の物語』と呼ばれる本を読みふけるうちに、あたしは気がついた。登場人物が仲間なのではない。それを書いた人たちがきっとあたしの仲間なんだ。あたしには見えるような気がする。この人達はあたしと同じ魂を持ってるってことが。エドガー・アラン・ポー、ラヴクラフト、アンブローズ・ビアース。彼らがつづる物語は、あたしの持っている世界と同じ。
ここはあたしの世界じゃない。周りの人とあたしとは全然違う。そんなことはずっと昔からわかっていた。あたしは帰らなければならない。でも…でも、まだだめ。まだ帰れないわ。だってあたしはまだ仲間を見つけていない。仲間を……片翼を見つけないと、あたし一人じゃ帰る方法がわからない。あたしと同じように仲間を求めている半身…その人を見つければ、あたしは…ううん、あたし達は完全体になれる。
アンブローズ・ビアースは幸せだわ。彼はきっと、半身を見つけたのよ。だから、姿を消した。異次元に入ったとか何とか言われているけど、違うわ。帰ったのよ。自分の世界に。ポーもラヴクラフトも見つけられなかったのね。可哀想に。でもあたしは違う。あたしは見つけてみせる。こんな世界で一生を過ごすなんてまっぴら。どんなことをしても、帰ってみせる。
あたしの住んでいる町には、夏になるといろんな人がやってくる。この町にある別荘やホテルに訪れる人たちとすれ違うたびに、あたしは神経を研ぎ澄ます。あたしと同じ魂を見分けるために。
秋の訪れとともに、人は途絶え始める。この夏も、その魂には出会えなかった。今年こそは見つかりそうな予感がしていたのに…。でも、その予感は途絶えてはいない。多分、もうすぐだわ。あたしを呼ぶ声が聞こえるもの。まだ見たことのない故郷が…あの世界があたしを呼んでいるの。日増しに強くなるこの声が、あたしを引き寄せる。それは同時にあたしの半身をも引き寄せる。もうすぐよ。そう…きっともうすぐ。
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夜の世界に逃げようとする僕。そんな僕を心配して、両親は僕を医者に診せた。いろいろな科をたらい回しにされたあげく、精神科の医師が僕に微笑みかけた。何も心配することはない、と。医師が両親に何かを話している。別室のドアから漏れ聞こえるその会話の端々に、精神分裂という単語が聞き取れた。やめてくれ、僕は病気なんかじゃない。この世界の常識を僕にあてはめないでくれ。僕はこの世界に属するべきものじゃない。
医師の薦めに従って、両親は僕を小さな町に連れていった。静養が目的だという。避暑で有名な町は、十月にはいれば、まさに静養にふさわしい町になる。だが、何処だって関係ない。この世界にいる限り、僕は眠っていたい。
僕は一日の大半を眠って過ごすようになった。特に、太陽が空を支配する昼の間はずっと眠っていた。陽の光は僕にはきつすぎる。そのかわり、夜になると僕はあちこちさまよい歩いた。高原の風は、肌に冷たいが、それはほとんど気にならなかった。風の冷たさよりも、もっと違う何かが、ここの空気には隠されているように思える。青白く、突き刺すような月の光は、何かを教えてくれそうな気がする。…帰りたい。この言葉が頭から離れない。帰る場所なんかないと、いくら自分自身に言い聞かせても、無駄だった。……確かに僕は帰りたかったから。
僕は時折考える。外側の僕の体には、意識はあるのだろうかと。僕のことを心配する両親の遺伝子を確かに受け継いでいるはずのこの体に。もしも、僕の外側が、外側だけで存在し得るものなら、内側の僕は消滅してしまった方が、お互いのためなのではないだろうか。だが、今まで、外側に意識を感じたことはなかった。全ては内側にいる僕という存在があってこそだ。それでも、外側の体がどうなろうと僕の知ったことではない。僕はどこかに帰りたい。帰る場所なんかあるはずはないと思っていながらも、帰りたい。それがもしかなわないのなら…いっそ消滅してしまいたい。
……辛くなる。行き場のない自分が。中途半端な自分の存在が。昼となく夜となく、あるはずのない故郷は、それでも僕に夢を見せる。夢を見せて、帰ってこいと甘い声で囁く。拒否し続けるには、何と甘く魅惑的な声であることか。何より、僕の心が拒否できなかった。確かに覚えている。遙か遠い記憶ではあるが、誰よりも何よりも、大切に思っていた故郷が確かにあった。他の誰が否定しても、僕だけはそれを知っている。覚えている。体に…心に刻みこまれている。
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あたしは今、帰る方法も帰るべき場所すらも知らない。でも、完全体になれば、全ての記憶は蘇るはず。そうすれば、毎夜、眠れずに散歩を繰り返すこともなくなる。訳の分からない、中途半端な記憶に惑わされることもなくなる。それでいい。そうしたら、忘れなくてすむから。
だって、いつも思ってたの。こんな中途半端な記憶なんかいらないって。こんな記憶があるばかりに、あたしは辛くなる。空想の中からは、体温は伝わらない。目の前になければ意味がない。ポーが語る言葉も、ラヴクラフトが綴る世界も、この手に触れられないのならば、辛さが増していくだけ。半端な記憶ばかりが蘇って、いたずらに心の奥を刺激するだけ。……あたし一人で完全な記憶を手に入れることなんて、決して出来やしないのに。…だから忘れたかった。忘れなければ頭がおかしくなりそうなくらい、あたしはその世界を求めていた。半身を見つけることができないのなら、この記憶を捨てるか、いっそ狂ってしまいたかった。それほどまでにあたしは仲間を…故郷を求めていた。
そして、十月に入ってしばらくした頃、あたしは空気の変化に気がついた。秋の終わりの木枯らしよりも鋭く、かすかな冬の訪れよりも優しく、空気が変わる。同じ魂の存在を、より近くに感じる。
空気をたどる。ともすれば消えそうになる空気を…匂いを、あたしは必死で追い求める。あの人へとつながる糸を決して見失わないように。
そうして、あたしは見つけた。小高い丘の上の林。普段、滅多に入らない林の中では、白い月の光は、青みを帯びて見える。その光を浴びて、彼はいた。草の上に寝ころんでいた彼が、振り向く。空気が動く。視線が吸い寄せられる。…ずっと……ずっと捜していた人。
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僕は満月に誘われて、外に出た。いつもの林だ。いつもよりも一層青く冴え渡るような月の光の中、僕は腰を下ろした。今日は、空気が違う。満月だからだろうか? まるで故郷の空気のようだ。自らの意識の消滅すら願わずにいられないほど、焦がれている故郷。帰れないのならば、いっそ忘れさせてくれ。そう思う一方で、それよりも強く、忘れたくないと願う心。揺れ動き、強さの比率を日々変えていく二つの心。その二つに苛まれながら、一体いつまで生き続けるのか。
ふと、背後でした足音に、いや足音よりも先に、空気の流れに何かを感じて、僕は振り向いた。そこに立つ一人の少女の姿を認めて、僕は既視感にとらわれた。未来へと続く既視感に。彼女は僕と同じ魂を持っている。そうだ、僕は確かに彼女を知っている。僕は、彼女に会うためにここに来たんだ。
彼女の瞳からこぼれ落ちた涙に、月の光が反射する。そうして僕は出口を見つけた。故郷はある。確かにある。帰れるのかもしれない。この少女となら。
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あたしは彼に近づいていった。初めてなのに、誰よりもよく知っている人。あたしは黙って彼の横に腰を下ろした。彼があたしの手に触れる。その手を握り返す。その途端、全てが流れ込んできた。
彼女が握った手のひらから、僕たちの今、過去、そして未来が伝わってくる。僕は一切を理解した。見つめ合う瞳から、握った手のひらから、僕たちはお互いのことを理解し合った。言葉は必要なかった。
彼の意識があたしの意識と重なる。そう、これが完全体になるということ。
僕の思いは彼女の思い。今までのことは全て、この瞬間のためにあったに違いない。
全てを理解したあたしは、彼に尋ねた。
……帰れるのはいつかしら?
僕は彼女に応えた。
……もうすぐだ。多分、次の新月。
新月が待ち遠しい。あこがれ続けた故郷に手が届く。あたし達は今、二人で同じことを思っていた。
……新月の晩に、扉が開くのね?
そう、僕たちの故郷に続く扉が開くんだ。そうすれば、今まで僕たちを悩ませていたものは全て、新しい夢に変化する。
……僕たちの体はどうなるんだろうか?
彼が訊いてきた。その答えはあたしにもわからない。
……そんなこと、意味はないわ。
もっともだ。僕たちは生まれ変わるんだから。次の新月の晩。二週間後に。
……ありがとう。君がいてよかった。
……ありがとう。忘れなくてすんだわ。
ありがとう、二人でいてよかった。
── 了 ──
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