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青い花
──霧だと思った。足下に漂う、青い霧だと。
その場に一瞬立ちすくんで、一彦は大きく息をついた。無意識のその行動で、今まで自分が息を詰めていたことに気がつく。
一彦の足下に広がっていたのは、一面の花だった。小さな青い花。霧かと見まごうほどに柔らかく視界を染める青。正体を知ってしまえば何のことはない、高さにして十センチもあるかないかの小さな花の群生だ。鬱蒼と茂った森の奥には少々不似合いな花畑。黒々と広がる原始の森は、その足下にいくつかの下生えを従えている。そのうちの一つが開花の時期を迎えているに過ぎない。
国道から少し分け入っただけの森なのに、そこだけは別世界のようだった。とは言え、驚くほど美しい花でもない。わずかに紫を帯びた小さな青い花は、あまりにも地味だ。木々の合間で、群生してこその美しさだろう。
そんなものに自分が息を詰めるほど驚いてしまったことに気恥ずかしさを覚えて、一彦はわざと勢いよく歩き出した。決まった行き先があるわけもなかったが、立ち止まったままでいることもない。
祖父母が住む家の近くにある原生林。中学生の頃までは、毎年夏休みになると訪れていた。だが年を経るにつれ、訪れる回数は減った。祖父母は決して嫌いではなかったが、年齢的にもそういったものを疎ましく思う頃になっていたのだろう。
「もっと、訪ねてくればよかったな……」
後悔をにじませながら、ふとつぶやいた。中学を卒業して十年。街に出てくるのを好まない祖父母に会ったのは数えるほどしかない。
そして今、一彦がここを訪れているのは祖父の葬儀のためだった。午前中に告別式などの一通りの儀式は終わり、今は親族が今後のことを相談している時間だ。財産などはあるわけもないが、小さな古い家や畑、それに残された祖母のこと。相談すべきことは少なくない。その中でも、もっぱらの話題は祖母のことだった。痴呆が進んだ祖母は、来週の初めには施設に入ることになっている。今までは親族の意見も聞かず祖父がすべての面倒を見ていたが、これからはそういうわけにもいかない。子供にかえった祖母は、祖父以外の人間を受け入れようとしないのだ。
何も……森しかない小さな田舎町。祖父母は、ここでもう何十年も暮らしていた。亡くなった祖父もこの青い花を見ていただろうか。少女に戻った祖母と一緒に。
ふとそう考えて、一彦は足を止めた。足下に広がる青い霧のような花に目を落とす。
「少し、暑いな」
つぶやいて一彦は黒い上着を脱いだ。森の奥とはいえ、このあたりは木漏れ日が射している。ましてこれから夏にむかおうという季節だ。汗ばんだ額を拭おうとして、ハンカチがないことに気がついた。かまわずワイシャツの袖で拭う。その行為は、一彦に強烈な既視感をもたらした。いつか……そう、遠い昔、同じようなことを……。
あらためて青い花を見ると、確かにその花も記憶にあるような気がしてくる。
少女……そう、少女が笑っていた。青い花の群の中で。
『霧みたいね』
そう言ったのは誰だったろう? 暖かい日差しの中、着ている服の袖で汗を拭った自分に、
『ハンカチ、持ってないの?』
と、半ば呆れたように笑ったのは?
記憶の中では、今よりも自分の視点は低い。つまりは少年の頃なのだろう。空色のワンピースを着て微笑む少女を、かすかな胸の高鳴りとともに自分は見つめていたはずだ。
スーツが汚れることも気にせず、一彦は手近な木の根元に腰を下ろした。記憶の中の自分と同じように。生い茂る木々の葉を透かしてこぼれ落ちてくる陽光が、花の上に降り注ぐ。そのかけらが少女の面影を浮かび上がらせてくれるような気がした。
黒く艶やかな長い髪。空色のワンピース。大人びた微笑みを見せる少女。心の中に既視感としてはあるものが、記憶の中にはなかった。……ないはずだった。少なくとも、毎夏訪れていた頃に、女の子と二人で遊んだ記憶はない。
──十年以上昔のことだ。覚えていなくとも不思議はない。だが、記憶違いだと考えるにはあまりにも強烈な既視感だ。
『忘れない。どんなになっても、あなたのことだけは忘れないから』
曖昧な、それでいてひどく鮮烈な記憶の中で、少女がそう語る。映画で観たようなシーン。なのに、その言葉にひどく幸せな心地になったのは、確かに自分だと思う。そうして、照れ隠しに視線を逸らしながら少女に尋ねたはずだ。
『……花を、摘まなくてもいいのか?』
と。それを聞いて少女が笑う。一彦が照れていることなどお見通しであるかのように。そして、ゆっくりと囁くように答える。
『摘まないほうが……きっと綺麗だから』
既視感の理由を思い出せないまま、一彦はその場を後にした。そろそろ夕刻だ。相談事に夢中な親族たちは、祖母にかまう時間もないだろう。彼女は自分のことを孫と認識していないかもしれないが、せめて話し相手くらいにはなってあげられるだろう。そう考えて、一彦は祖母の待つ家に戻った。
「おばあちゃん、どう? 俺のこと、覚えてる?」
縁側に座る祖母に、一彦は話しかけた。だが、祖母は小さく首を傾げる。
「あらあら、初めまして……」
予想通りの反応に、苦笑しながらも一彦は続けて話しかけた。
「孫の一彦だよ。……さっき、散歩に行ってたんだ。向こう側の森は、けっこう深いんだね。綺麗な青い花が咲いてたよ。名前はわからないけど……。小さくて、少し紫がかった色でね。ああ、少し摘んでくればよかったかな」
ふと思いついて、付け加えた最後の一言に、祖母は微笑んだ。
「いいですよ。摘まない方が……きっと綺麗だから」
一彦は、既視感の理由を見つけたような気がした。
青く漂う霧の中で微笑みあう祖父母の姿が、ひどく自然なものに思えた。
── 了 ──
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