◆◆◆ 娘から母へ ◆◆◆



社会人になるまで、イイ子ちゃんだったワタシは、社会人になってから母に向けて反抗期がやってきた。

決して、それまで反抗期が無かったわけではない。

ただ・・・

父もいなくて 兄は好き勝手なことばかり・・・
じゃあ、誰が母を安心させて上げられるの?というと、ワタシしかいなくて、
結局イイ子ちゃんで居るしか道が見つけられなかった
反抗を出来なかったのだ。

残念ながら、ワタシに道を照らしてくれる大人が ワタシの周りにはいなくて
いい子なワタシを そのまま受け入れて安心する大人しか居なかった。

だから、自分で考え得る全ての道は数少なく、自分を押さえ込むことしか考え付かなかった。

まあ、イイ子から外れるとお金がいったりしたのかもしれないから、口を出すのも勇気がいったんだろうけど、
お金を提供しなくても道を示すことは出来たのではないか?と今の私は思う。

母に反抗し、乗り越えるまで10年以上。30歳を超えてしまった。
大人のワタシにはとても辛い年月だった。

何しろ、自分は大人で、子どもまでいる。
しかも母は高齢で、今更なんじゃないの?というささやきも自分の中に聞こえてくる。
(母は40歳で私を産んでくれた)

母から距離を置くことだけが、妥協点で見つけた反抗。
気づいてもらえているのかどうかも分からない この反抗に、
結局はイイ子ちゃんから抜けきれないのが またジレンマだったりした。

そんなことをしながら、反抗するのは私を愛して欲しいからなんだということも 薄々気づいていた。

なにしろ、大人だからね、それなりの経験から冷静に分かっちゃうのが また辛いんだな。

決して母は滅茶苦茶な人でもなんでもない。
他人から見たら、そりゃー優しくて上品そうで一般常識も持っている小さなオバチャマで、
真面目できちんとしたイイ子ちゃんの娘が反抗していることさえ分からなかったと思う。
母が気づいていたかどうかも、定かではない。

ワタシは兄と9つ離れていて、兄は9年間一人っ子だったわけで、
大正生まれの母にとって 第一子長男というのは特別なものであることは間違いない。

息子が居る今の私にはそれがどんなに愛がこめられていて、別に差別でも区別でもないと言うことは理解できる。

でも、子どもにとって、自分勝手に生きている兄が頼られて、
真面目にイイ子ちゃんをしている私にはなんで頼ってくれないのか?
全く理解できなかった。
それさえも分かった振りをするイイ子ちゃんだったわけだけど。


母から距離を置いて過ごすようになって、母はワタシを心配して連絡をくれる
それが心地よかった。

ワタシは本来は神経質で、臆病泣き虫甘えん坊

それを全部預けられるに出会えたことは、私にとって宝くじより大当たりなことだった。
だから、コチラから母を頼る必要も殆どなく、反抗期中はあちらから寄ってくるのを待っていた。

母はワタシが嫌いだったわけではなく、むしろ可愛かったんだと思う。
ただ、A型で自己防衛能力に長けている母と兄から見て、
無謀で感情のままに動いてしまうO型のアホな娘は理解できなかったらしい。

ワタシは、「もっと近寄ってきて!」って思うんだけど、母は「一人で暴れている」娘にしか写らなかったようだ。



母が亡くなったから思うわけじゃないのだけど、感じることが少し前からあった。

母を嫌って離れていたのに、自分が子どもに言うことは、母から貰った言葉が沢山あると言うことを 感じていた。

口にしてから「あ、これ、むかし言われたっけ」とか
母から、「あら、ワタシにそういわれて怒られてたじゃないの」って言われたり。

ワタシは、自分の子どもが とてもいい子に育っていると思う。

引っ込み思案だったり、内弁慶甚だしい子だったりするんだけど、
でも挨拶をしたり返事をしたりできる、人を傷つけたりしない人間に育っていると思う。

電車でお化粧しないだろうし、道の真ん中にウン〇座りしたりしないと思う。
頑張ることも知っているし、一人前の大人になれるんだろうなぁと感じる。

その中に、母の反面教師としての教えがあるような気もする。
でもそれだって、母に教わったことに違いない。
そして、ストレートに母に教わったことも沢山あることに、最近気づいたわけだ。



11歳で父が病死したときのことを、まるで印象的な映画のように覚えている
それは、本当にドラマか映画を見るように、他人の目で見ていた一日だった。

前の晩の母の情けない青い顔も、
泊まった病院から自宅に戻った途端に病院からの呼び出しで兄に手を引かれていたこと、
兄の顔もこわばっていた事、
意識の無かった父が私の顔を見て意識が一時的に戻り名前を呼んでくれたことなど・・・・・・・

自分がそのとき、「なんか言わなきゃお父さんが逝っちゃう」と咄嗟に感じて叫んだ台詞も覚えている。

ああいう記憶はとても強烈だ。



母の死に目には会えなかった。
それがとても悔しい。


さらに悔しいことがある


前日、ワタシは病状が回復傾向にあることに安心して、病弱な夫の両親の顔を見に帰省していた。
その間に、母から電話があった。

公衆電話からで、
「ここまで歩けるようになったから、もう病院には大変だから来なくていいよ。
心配かけてごめんね」

そんな内容だった。
留守番電話に残っていた。

ワタシはすぐに携帯のICレコーダーに移し、何度も聞いては携帯を握り締め泣いた。

おかあさん、ごめんね電話に出てあげなくてごめんね

その声は、いつもの母の声で、従姉が “お母さんってどこのうちもこんな事言うよね”、
って一緒に泣いてくれた。

出なかったからこそ残っているその声だが、
母は何かを感じて頑張って電話してくれたのだろうと思うと、直接話したかったし、会いに行けばよかった・・・。

携帯という文明の利器のことなんか、母は思ってもいなかったんだろうと思うと、母らしい。

母の死に目には、近所の自宅にいた兄嫁も、30分の職場にいた兄も間に合わなかった。
ナースセンターに居た担当医でさえ、正直間に合ったとは言い難いほど、突然だった。

心臓は本当に急に止まってしまったらしい。



同居して可愛がっていた小学生の内孫3人に、最期を見せなかったのは やはり母らしいといえるかもしれない。

ワタシのように、父の死に目を一生忘れられない苦しみを、可愛い孫に味合わせたくなかったのだろう。
小学生には辛い記憶すぎる。

相変わらず少々情けない兄を置いては、逝けないだろうとワタシは高をくくっていた。

兄ばっかりといいつつ、こういうときは兄をダシにしてしまう、これは妹のずるさなのかもしれない。

90歳の母の姉(ワタシの伯母)が一人暮らしで健在だから、母も細々と90、そして100まで生きて、
そして 二人して付喪神になれるんじゃないかとか思っていた。


よく考えれば、生まれたときからヒクヒクしていて、左目が見えず、
足の長さも違い 左足を引きずっていた母が
81歳まで殆ど元気に過ごしてきた
手術をすることもなく逝けたのは素晴らしく往生なんだろうと思う。

思うんだけどさ、

いくつになっても、100まで生きても、やっぱり悲しいもんなんだね。
それだけは間違いない。

みなさんに、明るくて楽しくて優しいおばちゃんだった、といってもらえる母を自慢に思おうと思う。


これからも、母のその名声に恥じること無いよう、その娘としてイイ子ちゃんを全うしよう

結局これがワタシの運命、ボジションなんだろう。




でもね、お母さん。



前が滲んで見えないよ。


突然、あふれてくるから、自分では止められないよ。


胸が苦しくて、時々息するのを忘れてしまうよ。




ねえ。お母さん?


私のこと、好きだった?



私はね、お母さんが大好きだったよ。
私より15センチも小さなお母さんに、抱きしめて欲しかったよ。


きっと、お母さんも私のこと好きでいてくれたよね?


お母さん。
もう、足も痛くないし、走ったり出来るよ。
杖も要らないね。


目だって両目が見えるんじゃない?


お母さん。お母さん。

時々、録音した声を聞いてもいい?


泣いちゃうかもしれないけど、私 頑張るよ。

3人を立派に育てて、みんなに さすがおばあちゃんの孫だって言わせてみせるよ。


だから、時々泣いちゃうけど、見守っていてね。


お母さん、大好きっていえる自分が大好きだよ。



安らかに・・・・・。






                                                

お母さんへ
2007.5.9
                                            あなたの娘より