定年後の読書ノートより
街道をゆく16、叡山の諸道、司馬遼太郎著、朝日文庫。
司馬氏の知人が、天台宗延歴寺の法華大会をうけるという。これを機会に京都叡山をいろいろな坂から登り、叡山の歴史を忍ぶ。最初に最澄(767〜822)生誕の地、琵琶湖畔を訪ねる。この地にはかって多くの帰化人が住んだ。きっと最澄もその子孫であったろう。道は坂本に至る。石積みに関して最高の技術を古代より誇った町。

最澄の書風には、文章を書く必要上やむなく文字を書くという自然さがある。最澄は奈良中心の日本初期の仏教に疑問をもっていた。形而上学的思考の中にも、階級的感覚が生きていた奈良六宗に対し、最澄は唐の天台山から天台教学を持ち帰ったが、密教部門は不備だった。大唐長安より正統密教を持ち帰った空海にその主座を譲らねばならなかった。天台教学を完成させたのは円仁であった。円仁の「入唐求法巡礼行記」は三蔵法師の「大唐西域記」マルコポーロの「東方見聞録」に匹敵する歴史紀行文である。特に円仁は唐において、多くの新羅人とかかわり、その経過は詳しく記録されている。

叡山西麓では、赤山明神、曼殊院門跡を訪ね、数寄屋普請の建築材料としての杉の無常の美しさに注目する。面白いのは日本古代からあったガラスについて、輸入文化との関わり合いを論ず。曼殊院ガラス抹茶茶碗が司馬氏の歴史造詣の深さを覗かせ面白い。

インド土俗のバラモン教と、思弁的サンスクリット語の密教への投影を論ずる司馬歴史学も面白い。密教こそ仏教の発展的な形態であると司馬さんは言う。

積極的無神論者織田信長の叡山焼き討ちは、まさに大虐殺。明智光秀は彼自身の心情として、虐殺に耐えられない性格でありながら、命令で動く組織下で、その虐殺は几帳面過ぎるものがあった。一方木下藤吉郎は、多くの人間を逃がしたと叡山では伝授されている。

話は尽きない。過日大学同窓会に際し、友人にアンケートを問うた。「君は定年後何をやりたいと考えているのか?」と。いま、東洋紡常務を勤めている伊藤君応えて曰く。「引退後は是非歴史を勉強したいと考えている」。こうした友に自分は是非、司馬遼太郎氏の「街道をゆく」を読まれることを勧めている。

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