定年後の読書ノートより
街道をゆく34、大徳寺散歩、司馬遼太郎、朝日文庫
佐高信氏は司馬遼太郎は体制側作家だとことごとく、嫌悪感をもって否定しつづける。その姿勢たるや執念に近い。しかし、自分は司馬さんを読むたびに、司馬氏の豊かな知識に裏付けされた、話の展開に充たされた時間を感ずる。この大徳寺散歩にもそんな箇所は一杯ある。原作から一部を引用していく。

中国に仏教が入るのは。後漢の明帝のころとされる。明帝はインドからきた僧のため、洛陽の西郊に白馬寺をたてた。中国で仏教がひろまるにつれて、寺院建築が威容を表した。寺院建築は、おそらく宮殿や官庁の建物にならったものであったろう。「寺」という漢字は、仏教以前から存在し、そのころまでは、役所という意味だった。例えば門である。古来、中国の宮殿や都城には、出入口に大きな楼門がそびえていて、外から来る者に威圧をあたえる。紫禁城がそうである。中国は門の文化と言って良い。日本仏教は中国仏教を受け入れたために、どの大寺も、門がりっぱである。寺院の正門のことを山門という。禅宗の場合、ときに山門は、三門と表記される。三解脱門の略である。三解脱とは、空と夢相と無作のことをいい、いずれも私心を離れた天真の世界のことである。

大徳寺の三門はまことに雄大である。その名も金毛閣である。あかあかと丹塗りなのである。金毛とは金毛の獅子のことで、優れた禅僧のことをいう。このようにおそるべき楼門を建てた人が、わび茶の完成者である千利休であったことにおどろかされる。この門をみれば、利休についての印象が混乱させられる。利休は若い頃から大徳寺に参禅した。晩年は古渓を師とし、あるいは友として深くまじあっていた。

その古渓が、利休一人を施主として、単層の三門を重層の楼閣にするという大普請をしたのである。古渓は、さらに施主をながく記念するために、利休の木造を楼上に置いた。これが、秀吉の利休にたいする怒りをまねいたとされる。天下がしずまってからの秀吉は、自己肥大がはなはだしく、一個の愚者になったとしか思えない。晩年の利休もまた自己肥大していたというべきだったろう。楼上の利休像は、雪駄をはいて立っている。下を勅使も通れば、秀吉も通る。僭上、不遜、無礼、増上慢といったことが賜死の理由だったらしい。

司馬さんは随分古本を収集された人と聞いている。神田高田書店3代目の主人は司馬さんの本の買い方は豪快だったと語る。きっとそうした収集古書からこうした作品が生まれきたのだろう。丁度松本清張氏の作品が膨大な書籍読破の上に時代を見据えた反体制作品の数々をつくりあげていったように。

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