宮川彰先生資本論講座 第2巻第3回  2010年7月17日

第3回 資本循環とはなにか     第1編 第2章〜第6章

第1章 資本循環 GWAPm)・・・P・・・W'G'

貨幣資本の循環は、産業資本の循環のもっとも一面的な もっとも適切で もっとも特徴的な現象携帯であり、産業資本の目的および推進的動機(金儲け・蓄積)を一目瞭然に表す。

第2章 生産資本の循環

第3章 商品資本の循環

第4章 循環過程の3つの図式

第5章 流通時間

第6章 流通費

             残念ながら7月17日の講義は欠席した


[不破さん「資本論全3部を読む」より

W’・・・・W’は、ケネーの「経済表」の基礎になっており、彼がG・・・G’(重商主義が孤立させて固持した形態)と反対にこの形態を選び、P・・・Pを選ばなかったことは、偉大な見識を示す。マルクスが、資本の循環の3つの形態を考察しながら、経済学史のなかで、それぞれの形態を正面に押し出した経済学者たちを面白い。
貨幣資本の循環(G・・・G’) 重商主義者
生産資本の循環(P・・・P’)古典派経済学者
商品資本の循環(W・・・W’)ケネー(重農主義者の一人)
マルクスの流通過程論は、これら先行する経済学者たちのすべてを大きく上回る高さにある事実が、自然体で物語れています。

貨幣資本の循環から生産資本の循環へ、さらに商品資本の循環へと、新しい角度からの分析がくわわるごとに、生産過程と流通過程を統一した舞台ー再生産過程における資本の運動がより豊な規定をもつようになり、最後の商品資本の循環では、資本主義社会の全体を視野にいれた「資本家階級の総資本」の運動までが、描きだされる、そしてすべての系統的な論理性をもって展開される、まさにマルクスなればこその循環論である。

資本主義的生産様式の主要手段は、すべての生産を資本主義的生産様式の流通過程に引き入れることである。そして発展した商品生産そのものが資本主義的商品生産である、産業資本の浸透はいたるところでこの転化を促進するが、それとともに、またすべての直接生産者の賃労働者への転化をも促進する。資本主義的生産様式は他の生産様式をのみこんで世界的に広がっていく。

ブルジョア経済学は、資本はその存在自体がおのずから利潤(剰余価値)を生み出す神秘的な自己増殖力をもっているとする物神崇拝的な立場から、生産時間だけでなく、通流時間も剰余価値を生み続けるように、辞退をえがきだす。 資本家は、自分たちが如何に苦労しているかを強調するが、マルクスの結論は明快、商品の変態の過程が価値を生まない。どのような事情のもとでも、このとこに費やされる時間は、転換させる価値にはなにも付け加えない流通費である。簿記の費用は、簿記が社会的簿記に転化するばするほど、減少する。輸送業に投じら
れる生産資本は、一部は輸送手段からの価値移転によって、一部は輸送労働による価値追加によって、輸送される生産物に価値を付け加える。

「資本の循環」で大切な「恐慌」発生の記述


W’−G’という後遺は、資本価値の循環の継続のために、また資本家による剰余価値の消費のために、W’が貨幣に転化され、販売された、ということだけを想定する。W’が購買されるのは、もちろん、その物品が

ある使用価値であり、したがって生産的または個人的ななんらかの種類の消費に役立つからにほかならない。しかし、W’が、たとえば糸を買った商人の手中にあってさらに流通するとしても、そのことはさしあたり、この糸を生産して商人に売った個別資本の循環の継続には、少しも関係はな。全過程はその進行を続け、またはそれとともに、その進行によって条件づけられる資本家および労働者の個人的消費も進行を続ける。(これは)恐慌の考察にさいして重要な一点。すなわち、W’は、販売され、貨幣に転化されしだい、労働過程の、それゆえまた成生産過程の、現実の諸要因に再転化されうる。それゆえ、W’が最終消費者によって購買されているか、それともふたたびそれを売るつもりの商人によって購買されているか、それともふたたびそれをうるつもりの商人によって購買されているかは、直接には事態をなんら替えるものではない。資本主義的生産によってつくりだされる商品総量の広がりは、この生産の規模とこの規模の不断の拡大への要求によって規定されるのであり、需要と供給との、充足されるべき諸要求の、ある予定された範囲によって規定されるのではない、大量生産は、その直接の買い手としては、他の産業資本家たちのほかには、卸売り商人しか持ち得ない。再生産過程は、そこで産出された商品が弁実に個人的または生産的消費にはいり込んでいなくても、ある限界内では、同じ規模または拡大された規模で進行しうる。商品の消費は、その商品を生み出した資本の循環には含まれていない。例えば意図は販売されてしまえばすぐに、販売されたその糸がさしあたりどうなろうとも、糸であらわされた資本家地の循環は新たに始まりうる。生産物が販売される限り、資本主義的生産者の立場から見れば万事は規則正しく進行する。彼によって代表される資本価値のその循環は中断されない、そしてもしその循環過程が拡大されているならば、−それは生産諸手段の生産的消費の拡大を含むー資本のこの再生産は、労働者の個人的消費(したがって需要)の拡大をともなうことがありうるーというのは、この過程は生産的消費によって準備され媒介されているからである。このようにして、剰余価値の生産、それとともに資本家の個人的消費もまた拡大し、再生産過程全体は繁栄をきわめた状態にありうるが、それにもかかわらず、諸商品の一大部分は外見上消費にはいっているにすぎず、現実には売れずに転売者たちの手中に蓄積し、したがって実際にはなだ市場にある、ということがありうる。そこで商品の流れが商品の流れに続き、ついには前の流れは外見上消費によって飲み込まれているに過ぎないということが明らかになる。諸商品資本の市場が互いに席を争奪しあう。あとから来た者は、売る為に価格を下げて売る。まえのもろもろの流れがまだ現金化されていないのに、それらの支払い期限が到来する。それらの持ち主達は支払い不能を宣言せざるをえないか、または支払いをするためにどんな価格ででも売らざるをえない。この販売は、需要の現実の状態とはまったくなんのかかわりもない。それは、ただ、支払いを求める需要、商品を貨幣に転化する絶対的必要と、かかわりがあるだけである。そのときに、恐慌が勃発する。恐慌は、消費的需要の、個人的消費の為の需要の、直接の減少においてではなく、資本と資本との交換の、資本の再生産過程の、減退において、目にみえるようになる。


宮川彰先生は、この資本論(原80p)の長い文章を、一語一語味わうように、熟読して聴講生に聞かせた。

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