定年後に読む資本論
31、流寓の日々―窮乏と病苦に抗して、甲南大杉原四郎著、有斐閣
1850年から1860年の10年間、マルクス一家はイギリス・ロンドンでどん底の生活を送った。その間マルクスは3人の愛児を失った。妻の病気でも随分苦労した。ロンドン貧民街ソーホー地区に住み、伝染病の恐怖にも苦しんだ。マルクスの収入といえば、ニューヨーク・デーリー・トリビューンの原稿料だけだった。しかしマルクスは、朝早くから夜遅くまで、大英博物館に通って資本主義経済の最新研究を最初からやり直した。実際の経済諸活動を重視するマルクスは、公認資料を頭から否定の目で見るのではなく、教えを受ける目で学んだとのこと。

妻ジェニーに多大な遺産が譲られ、1856年ソーホの貧困地区から脱出出来たが、マルクスはその間愛児の葬式費用も無く苦労を重ねたとのこと。エンゲルスはマンチェスターの紡績工場で働きマルクスに送金、彼の家計を助けた。

しかし、問題は、フレディ問題である。1851年マルクスは家政婦デームートに男子を生ませた。しかしこの男子をエンゲルスの子にして、マルクスは、生涯一切の責任から遁れ、黙したまま死んだ。後にこの秘密は複雑な人間関係の中から屈折して暴露された。勿論その間には、このウワサを、デマとして抑える工作もあったようだが、今ではマルクスの実像を知るひとつの事例として頻繁に引用される。

当時のマルクスの家庭は8人の大所帯で2部屋だけのアパート生活、ドイツから一緒だった家政婦も同居、家計の遣り繰りはマルクス自身がマネージしたようだが、彼はそうした身辺雑事処理には全然能力無く、このことは本人自身も自覚していたようだ。

マルクスの自筆文字を見るとマルクスの性格が推定されると言われるが、彼の悪筆から判断すれば、もしかれが普通一般の職業人だったら、果たして人々は彼の能力をどう評価したろうか。

人を見るに英雄視も、蔑視も許されない。しかし、もし、自分が彼の人生を生きるとすれば、自分ならばどう生きたろう、そう考えると、マルクスという人間が、意外に身近に、かつ生々しく、熱っぽく見えてくるから面白い。

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