定年後に読む資本論
22青年ヘーゲル派からの訣別―聖家族、関西大重田晃一著、有斐閣
「聖家族」は、「ユダヤ人問題によせて」に始るバウワーの自己意識の哲学批判である。自己意識の哲学とは、ヘーゲル譲りの思弁性と、急進主義的で派手な文句におおいかくされた実践上の保守主義であるマルクスはヘーゲルでは理念が主語とされ、現実が述語とされ、理念と現実が逆立ちしていると転倒の論理構造を明らかにしました。ここにリンゴがあると普通の人ならいいます。ヘーゲルは、@リンゴから果実なるもの一般の概念がつくられます(抽象化)Aこの果実一般とはリンゴの概念的本質、真の存在としてその実体であり、本質、実体の実存のしかたに過ぎない(実体化)B実体は死んだ、静止したものではなくて、生きたみずからのうちでみずからを区別する動的本質なのだから、リンゴが果実なるものではなくて、もろもろの果実は、果実なるものの自己区別であり、果実なるものが自己をリンゴとして不断に措定するのであって、真に現実的な果実はこの果実なるものの不断の自己措定のいきいきとした運動の統一された総体のことである(主体化)。

ヘーゲルの論理で、@抽象化、A実体化、B主体化において、主体化だけをとりあげてみれば、理念が現実を生み出すという倒錯した神学的表象が生まれ、同時にそれによって現実の諸関係が神秘化される

ヘーゲルは歴史を絶対精神の自己実現の過程としてながめ、人間をこの絶対精神実現の無意識的担い手の位置におきますが、その結果、歴史は、まず人間が人形のように絶対精神に操られながらこれを創り出し、ついで歴史の幕が閉じられた後で、哲学者がそれを絶対精神の自己実現の過程として解釈するという2元論の構造をおびる。だが同時にそうした不徹底さが逆に利点となって、ヘーゲルは思弁的叙述の内部で現実的な事物そのものを捉えることも出来たわけです。ところがバウワーは、絶対精神を人間の自己意識と等置し、自己意識をあの思弁的構成の実体の位置に高めることで、歴史を自己意識の疎外と止揚の不断の連続的過程に純化すると共に、この過程の展開が、批判的批判に媒介されるところから、哲学者の理論的実践をそのまま歴史の創造行為にまで転化してしまった。

たしかにそれによってヘーゲルの2元論は1元論に止揚されますが、ヘーゲルの偉大な歴史的現実感覚も同時に喪われてしまい、のみならず、意識の展開過程が、そのまま歴史の創造行為だとされるのですから、批判的批判による意識の変革が現実の変革と取り違えられ、既成の現実は逆にそのまま温存されることになります。

言葉の上での外見上の急進主義と実践上の保守主義―これがマルクスのバウワー批判の結論です。

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