定年後に読む資本論
6、経済の進展と政治の立ち遅れーライン新聞2―中央大山中隆次著、有斐閣
1840年代プロイセン政府は一層その反動を強めていった。文部大臣アルテンシュタインは烈しいヘーゲル征服を展開した。青年ヘーゲル派機関紙ハレ年誌は発行禁止、危険思想の持主は大学に残ることを許しませんでした。マルクスはこれを見て、大学には学問の自由がないとと判断し、大学教授の道を断念した

マルクスはバウワーと協力し、無神論雑誌発刊計画を練りますが、宗教批判はフォイエルバッハの「キリスト教の本質」で完了したと判断し、宗教批判から政治批判へと傾斜していく。1841年ライン州の進歩的ブルジョアや知識人達はライン新聞発行の計画を具体化する。ライン州はプロイセンでも先進的な地域であり、石炭、鉄鉱石も豊富、交通手段も発達し、商工業も繁栄、ケルンを制すものは、プロイセンを制し、プロイセンを制すものは、ドイツを制すと言われた。

ライン新聞の有力な創設者に青年ヘーゲル派のユングやドイツ社会主義者ヘスがいたこともあって、、新聞は事実上青年ヘーゲル派が握り、その内容も、自由主義にとどまらず、急進主義や社会主義的色彩をおびた記事、論文がしばしば掲載された。特に、外国の報道記事は、国内記事に比して検閲がゆるかったため、かなり充実し、とくにイギリスでの政治情勢、労働運動に関する報道は、大きな影響を与えた。

1842年10月以降はルーテンベルクに代わって、マルクスが主筆になり、文字通り新聞のリーダとして、きびしい検閲条件のなかを、巧みな戦術を駆使し、ライン新聞を43年3月まで生きながらえさせた。

このライン新聞時代は、マルクスにとって、それまで法学や哲学を専門としてきた彼が、経済問題に、はじめてぶつかり、法や政治の基礎に対するヘーゲルのとらえかたは逆立ちしていることに気付きはじめたという点で、重要な時期である

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