定年後の読書ノート

 

死生観を問いなおす(ちくま新書317):広井良典著。

 

著者紹介1961年生まれ。東京大学、厚生省、千葉大助教授、医療や社会保障の科学哲学的考察。「日本の社会保障」「定常型社会ー新しい豊かさの構想」(岩波新書)「ケアを問いなおす」(ちくま新書)

 

幾つかのドキッとする表現が登場する。それがこの本の魅力。広井氏の表現を大切にしながら、内容を箇条書きに列挙する。

 

プロローグー死生観と時間―

 

1、    1年間に死ぬ人の数は今後増えていく。2010年には133万人になろう。「死とはそもそも何か」という、ターミナルケアの本質とも言える対応が遅れがちである。

2、    死そのものをどう理解し、どうとらえるか、死生観そのものが日本ではほとんど空洞化している。

3、    団塊の世代は「死とは無であり、死についてあれこれ考えても意味のないことで、生の充実を図ることがすべてなのだ。」と考える。

4、   戦後教育の中で死生観は問われることがなく、現在の若い世代は、ある種の死生観の空洞化に関する飢餓感みたいなものが相当強い。

5、   死生観の中身そのものは、「時間」というテーマである。その手がかりとして、人生の全体的な過程として、「直線としてのライフサイクル」か「円環としてのライフサイクル」かのイメージである。

6、   直線型とは、キリスト教に基づく死は上昇、進歩の果てでの無への落下であり、死を視野に入れない生き方を原則とする。円環型とは、生まれる前の世界と死んだ後の世界は区別が付かない、従って死とは生まれる前の世界に戻っていくと考える。

7、   キリスト教は、この世の先には、永遠の時間が存在すると考え、死→復活→永遠こそ救済への道である。仏教では輪廻転生から抜け出して永遠の時間にいたることが救済であると考える。従って死生観とは永遠を自分の中でどう位置づけ、理解するかが、死生観の根幹をなす。

8、   死に逝く場所として「魂の帰っていく場所」を自分の中でしっかりと確かめ位置づけることが、ターミナルケアとしての死生観の本質的なことである。

9、     死生観というものの核心にあるのは、実は時間というものをどう理解するかである。

 

第1章―現象する時間と潜在する時間

 

1、    自分の人生に少し距離を置いて見つめるとき、時間というものは、私たちが考えているほど、自明とはいえない面をもっている。

2、    世界そして時間の始まりと終わりはどうなっているのか、ギリシャ的時間観では、初めと終わりがないとし、キリスト教的時間観では、初めと終わりがあるとする。

3、    私たちがいま生きているこの宇宙、誕生と同時に時間が生まれたこの宇宙は、時間のない世界の中にぽっかりと浮かんでいる島のようなものではないか。

4、    近代は認識が優位となり、時間は瞬間の連鎖と理解された。だから世界をありのままに理解するには、瞬間を正確に得ることであるという考え方にたつようになった。

5、    自然や世界は時間の流れを与えられ、さらにそこに循環性を取り入れ、ひとつのコスモロジーをつくる。要するに瞬間性の体系化だ。

6、    現象の背後にある何物かを発見しようとするマッハが与えた影響は、感覚あるいは知覚から出発して世界を説明するという発想で、二ュートンからアインシュタインへの道を準備した。

7、    現象の側から出発して、逆に時間・空間概念の方を変更する。ここに生まれたのが相対性理論の体系であった。

8、    時間というものは、世界そのものの側に存在するのではない。それは認識する人間の側にあるので、世界を見る際の枠組み、色めがねのようなものである。

9、    ホーキングは、人間が観測を記述するために作った科学理論・数学的モデルは、我々の精神の中にしか存在しないとしている。マッハやホーキングは、科学理論や法則は、それ自体実在するものではなく、現象を記述するために、人間が便宜的に使う手段に過ぎないとしている。だから科学理論の優劣は、どちらが有用な記述であるかというだけのことなのである。

第2章;老人の時間と子どもの時間

1、    人間という生き物だけが、性成熟年齢に対し最大寿命が非常に長い。これが人間の特徴である。通常の生物は、その一生を、生殖期でほぼ終わっている。

2、    長い老いの時期を持つという点が、他の生物にない人間の特徴である。高齢化社会とは、人間が本来持っている長い後生殖期という特徴を、多くの人がまっとう出きるようになった時代である。

3、    老人の時期が構造的に長いことは、子どもとの対の時間、「遊」と「教」を通して、人間を人間足らしめる意味を持っている。

4、    人間という生物の本質的な特徴は、世代間相互の強さ、関係性にある。成長期―生殖期―後生殖期を個体に完結した問題としてとらえるのではなく、世代間の関係としてとらえていくべきだ。

5、    世俗的な時間とは、カレンダー的な時間であり、仕事の時間であり、効率性のことである。大人になっていくにつれ、大きくなっていくのがこの俗なる時間である。もともと俗なる時間、カレンダー的な時間とは、いわば遊びの時間という大きな海に部分的に浮かんだ島のような存在だ。

6、    受験勉強や、塾通いに追われる現代の子どもは、早い段階から俗なる時間、カレンダー的な時間の世界の中に運び込まれている。

7、    カレンダー的な時間の底には、仕事の時間の枠組みから開放された自由な時間の層がある。老人と子どもの世界において本質的なのはこの遊びの時間の層である。

第3章―人間の時間と自然の時間

1、    自然に対して、意識を自然と同格か、自然に先立つものとして、とらえるのが、哲学の分野における認識論である。一方意識を2次派生的なもとして見る見方は、意識を手段的なものとしてとらえる立場である。

2、    人間が認識しているこの世界は、絶対的なものではなく、あくまで人間がとらえた断面に過ぎない、しかも生物によって認識される世界は、その生物の生存のために重要なものが認識される。

3、    生物はその生存のために、それをとりまく環境あるいは外的世界のうち重要な断面をきりとって認識する。それがその生物にとっての意識そして世界になる。

4、    時間そのものも生物によって無限に多様である。それぞれの生物は生存に都合の良い世界・意識をつくる中で、同時にそれぞれの生物に適した時間を持つようになる。この世界や宇宙を流れる時間はひとつではなく、生物の種類の数だけ異なる時間がある。

5、    現代社会の生活や時間のスピードは、人間がもともと持っている、生物的時間とあまりにも乖離してしまっている。これが現代人の深いストレスの源ではないか。

6、    経済成長ということが、もはや実質的な豊かさを表すものではなく、単にスピードが速いという意味しか持たないものなら、ストレスがたまるだけで、誤った成長概念にとらわれてはいないか。

7、    私たちが木々の緑や水の流れなど、自然に接することである種「癒される」ような感覚をもつことがしばしばあるのは、それはいわば、そのことによって私たちが根底にもっている「自然の時間」にふれることができるからといえる。

8、    そのような時間の次元から離れてしまうと、あるいはそこへの通路を失ってしまうと、私たちの心は閉ざされたものとなり、いわば「根」を失った、束縛されたような状態に追いやられていまうのである。

9、    人間が「自然の時間」から大きく乖離するようになったのは、おそらく「工業化・産業化・社会」の到来ということが決定的であったと思われる。端的にいえば、農業までの段階は、「待つ」ということが人間全体の生活において決定的な意味を持っていたが、工業になると大きく変わる。

10、「別れ」としての死ということが、「他者との別れ」ということであるとするならば、「絶対的な無」としての死とは、いわば「自分自身との別れ」としての死である。

11、「絶対的な無としての死」ということは、どのようにして受容できるものとなりうるのだろうか。ひとつは「自然」ないし「自然の時間」とのつながりをもつという点にあるだろう。私は自然の一部であり自然あるいは生命の大きな流れの中に位置している。個人としての私は死ぬとしても、私の深い部分、自然につながる部分は存在し続ける。このような感覚が、「絶対的な無としての死」や、それのもたらす恐怖から、私を解き放つ大きな通路になるのではないか。

第4章―俗なる時間と聖なる時間

1、    本当に愛する存在、相手を失った者にとっては、自らもまた死に逝く存在であることは、むしろひとつの救いではないか

2、    宗教は何らかのかたちで、「永遠」というものをその世界観の中に位置づけ、それに本質的な意味を与えている。「永遠」というものをどう理解し、位置づけるかというところに宗教の本質が現れる。「永遠」とは「時間がずっと続くこと」という意味より、「時間を越えていること」という意味に近い。

3、    死は必然であり普遍であることを心底に受容することが仏道への第1歩である。

4、    生とは、私たちが「時間」の中に身を置いているということだから、死とは、その限りにおいて、私たちがそうした時間的存在でなくなるということである。時間的存在でないとは、「永遠」と呼びうるものとしてとらえられるべきではないか

5、    誠実な人間が、必ずそれに応じた幸福を得るのが世の常であれば、宗教などというものは必要ないのであり、そうでないところに宗教のうまれるひとつの出発点がある

6、    要するにこの世の中では、さまざまな苦難や不公正や不条理が多くある。この点ではキリスト教も仏教の認識も共通している。

7、    自分が死んでも、自分は自然の一部となってずっと生き続けるという感覚を持っている人は多い。加藤周一氏は「日本人の死の哲学的イメージ」として、「宇宙」の中に入っていき、そこにしばらくとどまり、次第に溶けながら消えていくというとらえ方をしている。他方、磯部忠正氏は、日本人の生き方は神中心でも、人間中心でもなく、自然中心であり、ここでの自然とは、大きな自然の命のリズムとも、宇宙の大生命ともいいかえてもよいものである。

8、    ギリシャや日本の場合には、現世ないし現象世界にたいする肯定性や自然親和性が強く、キリスト教や仏教は「存在の負荷性」というモチーフをさほど持ち合わせていないことを見てきた。

9、    プラトンにとって、永遠とは、無限のうちへと延長された時間のようなものではなく、それは無時間である。一方原始キリスト教においては、永遠は無限のうちにむかって延長された時間としてのみ考えられうるものである。