「世界綿業発展史」(村山高著)に見る英国産業革命

 

機械綿紡織業の勃興―英国綿業の技術革新

綿花から綿糸を紡ぐには「ジャーシー紡車」が使われ、手織機は1分間緯糸挿入(投ひ)60回以下。英国綿業における技術革新は、1733年ジョン・ケーの飛ひ(FlyiShuttle)発明を転機とする。1分間に100回ひ投げが可能となり、ランカシャは綿糸飢餓となる、

紡織機械発明の先駆

ハーグリーヴスのジェニー紡績機  

1764年妻ジェニーの糸紡ぎ紡車が横倒れになっても、そのまま紡出されることからヒントを得てジェニー紡績機を発明。1770年には16錘、1784年には80錘、最後には120錘まで増錘。家内手工業的紡績機であるが、英国の手工業段階から機械制工業への過渡期意義重要。

アークライトのウオーター・フレーム紡績機            

英国綿業の工場制度出現に決定的な役割を果たしたのは、リチャード・アークライト(173292年)理髪業のかたわら、英国綿業の綿糸不足を見聞し、1769年水力で動かされるローラ式紡績機械・ウオーター・フレームを発明。ウオーター・フレームはジェニー紡績機が断続的であるのに対し、加撚、巻取が同時に行われ、かつドラフト、ツイスト、巻取が連続的に行われる。アークライトはその後、租紡機、カード、綿花供給装置を発明、特許取得、全工程を機械化する。糸の強力あり、経糸不適であったジェニー紡績機に対し経糸に適す。英国の純綿織物大量生産を可能にし、印度キャラコ駆逐を可能にした。巨万の富を築く。

クロムプトンのミュール紡績機       

1779年、ジェニーとウオーター・フレームの原理をひとつにしたミュール精紡機。ウオーター・フレームからローラー作用を、ジェニーから可動台の作用を採り入れた。強さと細さ、そしてむらのない糸を紡出。企業家才能の欠如でクロムトンも特許取得出来ず、アークライトのごとき、巨万の富を得ることなかった。

カートライトの力織機

          ウオーターフレーム・ジェニー・ミュールの紡績機普及により、綿糸飢餓は解消、次は織布工不足。1784年牧師カートライトは手織機よりも能率的な力織機を発明蒸気機関を利用した工場を建設したが、企業家才能の欠如で、成功しなかった。手織工たちの惨めで安い労働力が長期にわたって英国国内に普及していたこともあって、力織機の普及には時間を要した。

ロバーツのセルフ・アクター紡績機

            ミュール精紡機には熟練した紡績工を必要とした。1825年ロバーツはミュール精紡機を自動化した。これによって糸むら・糸切れも減少、生産量を増加した。

晒技術の革命

            原始的な晒技術:「天日ざらし」であった。織物に水をかけて日光にさらすことを繰返した。

            オランダ麻織物に晒技術登場:灰汁と脱脂牛乳に浸漬後、太陽に晒し、運河の水で濡らす。

            1756年英国晒技術の改良:脱脂牛乳の替わりに硫酸を使用。硫酸の腐食性が問題。

            1785年フランス ベルトレ塩素漂白成功:ランカシャに塩素漂白導入。塩素ガス問題発生。

            1799年英国テナント 生石灰に塩素ガス吸収させて漂白剤の製造に成功。漂白工場操業開始。

織物染色技術の革命

            有史以前の綿織物の染色:インドのインジゴ(植物)や昆虫、貝等による天然染料。

1783年ベルによるローラ捺染用機械の発明。

            英国の捺染はインドの捺染キャラコ輸入に刺激されて勃興。その後手捺染と機械捺染抗争。

            1856年、英国パーキン人造染料発見。当時の人造染料の原料はコールタールに仰ぐ。

蒸気機関の利用

            動力の使用は、近代的工場制の本質。紡績機械の動力に水力を利用する際の欠陥。渇水期がある。工場増設は困難。辺鄙な山間部に限られ紡績工の募集に困難を極め、都市部からの紡績工拉致や、誘拐が行われ、孤児を大量に紡績工として働かせたりした。

            渇水期対策として、ポンプで貯水池に汲み上げ。ニューコメンの気圧機関。熱効率は悪し。

            1769年ワットの蒸気機関。1781年ピストンの上下運動を軸の回転運動に転化することに成功。

            カートライトの力織機も当初ワットの蒸気機関で運転、工場は山間部から都市部に移動出来た。

            1833年の英国紡織工場の動力。蒸気機関3万馬力、水力1万馬力。

 

産業革命当時の英国綿業が置かれていた状況

1492年のアメリカ大陸発見、1498年の喜望岬迂回の印度航路発見。欧州列強による植民地争奪戦のきっかけを作ったと同時に、印度綿製品の欧州流入の道を開く。特に英国の印度進出と東印度会社の活動は、その後の世界綿業に大きな影響を残した。印度は素晴らしい綿製品の産地であり、特に印度キャラコは英国婦人の憧れの的であった。英国政府は、印度キャラコ輸入を抑えるため、あらゆる手段をうった。毛織物大国英国は、アフリカ・西印度諸島への毛製品輸出を試みたが失敗した。奴隷貿易を進める英国は、アフリカに綿捺染製品を送りこみ、これで奴隷と交換、さらに奴隷を西インドまたはアメリカ大陸に売って、英国向けの綿花原料を買い入れるという三角貿易により莫大な利益を得た。産業革命の主人公である綿業は、アフリカ植民地における奴隷売買の立て役者であり、従来綿糸と織布の需給バランス崩れが発明契機となったとする英国産業革命の背景説明は、奴隷貿易こそが産業革命の火付け役であったこと故意に不明確にしてきたとも言える。

 

英国産業革命の社会的結果

            産業革命は多くの社会問題をひき起こした。工場制生産が労働者階級に与えた影響として、労働者の貧窮化と労働条件の悪化は、従来とは質的に異なった残酷さに充ちていた。エンゲルスの「イギリス労働者階級の状態」は、エンゲルスが1842年父親の紡績工場、ビクトリア・ミル勤務中の2年間に、妻メアリ・バーンズと共に、現地工場住宅地帯をくまなく歩いてまとめたルポルタージュであり、労働者の残酷な生活実態を生き生きと描いている。当時の労働者は慢性的過労と栄養失調、その上非衛生な住宅環境が原因し、労働者平均寿命は20歳そこそこであった。しかしまだ当時の労働者は未熟であり、彼らの労働運動は個人的・消極的抵抗の範囲内にあり、機械によって職を奪われた労働者達は自然発生的に、空しく機械打ちこわし運動を進めたが、これをラダイト運動とし、政府は極刑でもって弾圧した。一方当時の資本家階級は、「自由放任主義」を信条とし、初期工場立法に対しては、多くの雇主は猛反対し、いたるところで工場立法はふみにじられ、政府に対しても、個人財産に対する国家干渉を自由放任主義に対する挑戦とし、政府も資本家に対しは、常に自由主義経済政策の名において、資本家の主張を擁護し、労働者階級は黙々とその犠牲に甘んじた。

            労働者の団結はフランス革命の影響を恐れた政府によって「団結禁止法」(1799年)が成文化され、「団結禁止法」が撤廃されたのは1824年であった。以後労働運動は、自己防衛的経済闘争と、組合運動の2つの形態をとって次第に盛り上がっていったが、その主流はロバート・オーエン等を中心とする空想的社会主義の影響下にあった。