定年後の読書ノート

死と唯物論

河野勝彦著(青木書店)

著者略歴

1945年生まれ。京都大学博士過程、京都産業大学教授、「現代哲学概論」「知識とは何か」「社会科学を学ぶ人のために」

 

「死の哲学」へのインビテーション

これまでの唯物論は、死については極めて冷淡な扱いしかしてこなかった。しかし、これで良いのか。唯物論が死を軽視してきたのは、肉体の死後も魂は生き延びて、天国や地獄に旅立つという宗教の神話を嘲笑し、否定してきたからである。死の軽視、死の無視は、現代人の生活をおおっている。死の禁忌、死のタブー視が現代社会のあり方である。にもかかわらず、死は確実に私達を待ち受けている。私達は近づく死の足音を限りなく恐れている。本書は、古代から現代の哲学者たちの死についての考察を素材にしながら、現代に生きる私達が、死をどのように考えればよいか、どのように考えれば受容できるかを提示したものである。

第1章:現代社会と死

現代人は、霊魂や死後の存在を本気で信じないと言う点では、生粋の唯物論者と変わらない。それゆえに、死に対してどのように処していけば良いかわからない。人間にとって、死をいかに位置付け、いかに受容するかという問題は、問題としてありつづけている。我々を脅す死の問題とは、我々の生を無と化する死の瞬間の問題、死の迎え方の問題である。

第2章:死の唯物論的定義

ベルクソンは、進化論的知見にたって、「人間を含めてあらゆる有機的個体は、両親の結合体に生えた芽に過ぎないと評した。この意味では、生命は一度も死んでいないと言える。死は個体にしか生じないのである。

 

生には死が伴っている。エンゲルスは「生きることは死ぬことである」と生は死なしでは成立しないと主張した。生の弁証法的把握

生はそれ自身のうちにその否定である死を含んでおり、生の必然的結果としての死のあとには、いかなる霊的なものも残らず、死とは生物の身体の解体以上のものではないとエンゲルスは述べている

 

エンゲルスの考えはヘーゲルの考えを念頭に置いている。「人間は死すべきものであるといい、そして死を外部の事情にもとづくものと考えているが、こうした見方によると、人間には生きるという性質と、もうひとつ可死的であるという性質と、2つの性質があり、生命そのものがそのうちに死の萌芽をもっている。死は生にとって外的なものではない。」

 

エンゲルスの「自然の弁証法」生物学(597P)より原文引用

生と死。死を生の本質的契機として把握しない生理学、生の否定を生そのもののうちに本質的にふくまれるものとして把握しない生理学は、今日ではすでに科学的なものとはみなされなくなった。

こうして生を考察する場合には、生のうちにいつでも萌芽として存在するところの生の必然的結果、すなわち死との関係がつねに考察されているのである。生の弁証法的把握とはこれ以上のものではない

しかしこれだけのことでも、これがいったんわかってしまった人々には、霊魂の不滅についておしゃべりはすっかりかたづいてしまったのである。

死とは生物の身体の解体であって、この身体が死によってそれ自身の実質をかたちづくっていた化学的成分のほかになにひとつあとには残さないということであるのか、それとも死とは、多かれ少なかれ霊魂といったような生の原理、人間のみならず生をもつあらゆる生物よりもあとまで生きながらえるなんらかの生の原理をあとに残すことであるのかのいずれかである。ここではだから弁証法によって生と死の本性が明らかになるというだけのことで、大昔からの迷信を取り除くには十分なのである。

生きるとは死ぬことである

 

ヘーゲル「小論理学」論理概念81−補遺1より原文引用

弁証法の正しい理解と認識はきわめて重要である。それは現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理である。また弁証法はあらゆる真の学的認識の魂である。普通の意識においては、抽象的な悟性的規定に立ち止まらないということは、単なる公平に過ぎないと考えられている。諺にも自他ともに生かせと言われているが、これはあるものを認めるとともに、他のものも認めることを意味する、しかしもっと立ち入って考えてみれば、有限なものは単に外部から制限されているのではなく、自分自身の本性によって自己を楊棄し、自分自身によって反対のものへ移っていくのである。例えばわれわれは、人間は死すべきものであると言い、そして死を外部の事情に基づくものと考えているが、こうした見方によると、人間には生きるという性質ともうひとつ可死的であるという性質と、2つの特殊な性質があることになる。しかし本当の見方はそうでなく、生命そのものがそのうちに死の萌芽をもっているのであって、一般に有限なものは自分自身のうちで自己と矛盾し、それによって自己を揚棄するのである。

 

第3章:不可避な死と哲学者たち

プラトンの哲学は、魂の不死という形而上学によって、死を否定した。死は、牢獄としての肉体からの魂の解放、旅立ちに過ぎない。

 

ソクラテスが死を恐れないのは、魂の不死を確信しているからであり、この世での彼の生き方が、徳と正義にかなった生き方であったからで、魂の不死の教説は、この世での生き方に対する来世での賞罰と結びついている。

 

プラトンの魂の不死の教説は、キリスト教のドグマと結びついて、中世から近世のデカルト、さらにはカントに及ぶまで生き延びてきた。しかしこの不死の教説のおかげで、人々は、真の意味で死と対峙することを避けてきたとも言える。この魂の不死の教説が、観念論の死に対する対処の仕方である。

 

唯物論の死に対する対処の仕方は、エピクロスの教説のなかに示されている。エピクロスは魂の不死を否定し、死後の世界、来世の存在を否定する。エピクロスは、死が何ら恐れられるべきものでないこと、人間にとって、何でもないことであると説いた。

 

ストア派ほど、死を間近に見、死と対峙した哲学は無かった。ソクラテス=プラトンが死を飛び越え、死を単なる旅立ちと捉え、エピクロス=ルクレティウスが死を無よりも取るに足り無いものとして無視したのに対し、エピクテトスやマルクス・アウレリウス、セネカなど後期ストア派の哲学者たちは、いかなる宗教的な慰めにも訴えることなく、人間にとって必然で不可避の死を正面から見据え、それを粛然と受容する賢者の道を説いた。

 

ストア派は、自らの自由に出来る意識の内面の世界と、自由にならない意識外の肉体を含めた下界からの影響によって翻弄されない強い意志をもとうとした。内面の動じない平静な生活がストアの賢者の理想である。

 

ストア派は、死の不可避性を運命、摂理として受け止めた。そして死を恐れないことによって、運命としての死に打ち勝つことを説く。死を決して恐れないために、常に死のことを考えねばなりませんと、不可避な死との精神的対峙を説く。多大な訓練によって堅固にすべきものは心であって、それによって心は死を眺めること、死が近づくことに耐えねばなりません。

第4章:エピクロス「死の無意味論」批判

死に関するエピクロスの主張は(1)死は死に行く人にとっていかなる悪でもない。(2)時間的に長い人生が短い人生よりも良いとは言えず、人生の時間的な長短は問題ではない。

この考えは、死は自然的事実であって、何ら恐れるに足りないこと、死後の恐れは無用であるとの姿勢である。

死を恐れるよりも、宇宙の時間に比べれば無に過ぎない生を楽しむことこそ人間の生き方というのが、エピクロスと兆民に共通する死に対する姿勢である。両者とも、死に際は身体的には苦痛にさいなまれているが、心持はともに明るい。

 

現代人は、生の絶滅としての死に恐れおののく。死を否認し死を抑圧して生に固執する現代人は、到来する死の足音に恐れおののく。その恐れは、自らの存在が絶滅へと向かうことに対する恐怖に外ならない。

 

第5章:生の絶滅への恐れと哲学

死が個体としての生の絶滅を意味し、存在の絶滅としての死を哲学的に主題化してきたのは実存主義の思想家たちである。ウナム−ノは、抽象的理性による魂の不滅性の主張をしりぞけた。ハイデガーは、死へと差しかけられた人間存在に正面から立ち向かう。人間は自らの死について考えることを避けるために、気を紛らわせる。それは絶壁を見ないようにして絶壁に近づくようなものだという。確かに世人は死を経験する。しかしそれは他者の死であって、自己の死ではない。人間は生まれるやいなやただちに死ぬ年齢になっている。死をマジかに見、死へとかかわることによって、人間は自らの存在のあり方に目覚める。

 

ひとたび人間が死をマジかに見、自らの死に目覚めるやいなや、不安は増し、不安を消すことはできない。自らの死をいったん直視するや、人間は実存的な不安に襲われる。ハイデガーはこの不安は恐怖とは異なるという。恐れは外から来るが、不安は中から襲い掛かる。ハイデガーに言わせれば、恐れは克服されるかもしれないが、不安は克服されず、ただ隠蔽され逃避されるだけだという。

 

世界から退くのではなく、世界へと行動するように決意する=先駆的決意性。これが真に生きることの全体性、本来性を回復させる。ハイデガーは死を直視し本来的に生きる道は、歴史の運命に賭けることであり、しかもその歴史とは、民族の歴史、ドイツ民族の歴史に他ならないと主張した。ここにハイデガーのナチズム、全体主義の立場が見えてくる。

 

人間は、意識的存在として、動物とは異なって、自ら死ぬことを知っている。そしてこの「自己の死」にいかに対峙するかは、実存主義が問題にしたように、人間存在として死は普遍的な問題であり続けることは確かである。しかし死そのものは、人間に特有のものではなく、すべての生物に共通な宿命である。問題はそれをどう受け止めるか、自己の死をいかに受容するかである。それはもちろんまた、自己の生、自己の人生をどう意味づけるかという問題である。

第6章:絶滅としての死の受容と人生の意味づけ

死の苦悩は、死後の状態に対する恐れ、苦悩である。現代人の死の苦悩は、来世の存在ではなく、死への移行、死の瞬間をめぐって展開する。今日、尊厳死や安楽死が問題とされるのも、死への移行、死の瞬間をどう乗り越えるかに関係している。

 

「物自体」は経験できないが実在する。それと同様に、死は経験ができないが実在する。我々は、他者の死しか経験せず、私の死は経験の外にあって認識不可能である。しかし、私と死は互いに排斥しあうが、死は確かに存在する。苦しみには辛抱が、そして死ぬには勇気がなければならない。だれも自分にかわってこの孤独な試練に耐えてくれるものはいない。

 

死の宇宙論的解釈=個人としての生命は消滅しても類として、個人の生が永遠に引き継がれることに慰めを見ようとするもの。一個人としての人間は死んでも、人類としては、生命の連鎖は途切れることなく、連綿と子や孫に受け継がれていくし、この連鎖は止まることはない。個体としては死んでも、類として、あるいは持続する地球上の生命としていき続けるといえる。これが死の宇宙論的解釈である。

 

しかしジャンケレビィッチは、死の宇宙論的解釈=生命の連続性に慰めを見ようとする汎生命主義に反対する。その理由は個人の絶対的な尊厳を無視する傾向を見るからである。個人の生、個人の死に重要性を見ないで、生命の連続性、生命の存続のみを重視する、それは個人の尊厳、個人の代替不可能性を見ていないと主張する。

 

死の宇宙論的解釈は、代替不可能な個人の死を無視する。もし無視せず、その中に包摂するとすれば、ニーチェのいう永遠回帰の教説になる。

 

死は人が生きたという事実、存在したという事実を消し去ることは出来ない。この存在したという事実は、永遠の生として存続し続ける。

第7章:唯物論者としての現代人による死の受容と生

現代人は、もはや、魂の不死や死後の世界を本心で信じてはいない、喪の儀式では、魂の物語を受け入れても、現代人は魂が生き続けているとは信じていない。故人が存在しているとすれば、生きている者の記憶のなかだけしかないと考えている。

 

しかし現代人は、死が恐ろしい。死によって自らの存在が無に帰することが恐ろしい。死を受け入れる残された方途は、われわれが生きたという事実の永遠の瞬間に、唯一の希望、慰めを見るしかないとジャンケレビッチは主張する。

 

しかしジャンケレビッチは人生の意味を求めることを否定した。

 

古来、哲学はいかに生きるべきかを求めてきた。そこで人生の生き方とは、生の各瞬間の最大の充足を求めることである。しかもよく生きたとは、個人的な自己充足によるのではなく、他者にもつながる普遍的な意味をもつことである。有限な個人一人一人の存在を肯定しながら、同時にそれが他者へと拡がる普遍性・永遠性へといたる通路であることを見出したい。

 

われわれが生涯においてある行為をなしたという事実は永遠に宇宙の時間に光り輝いている。全体は、個々の個体を超越するものではなく、個々の個体に依存する相対的な普遍性・永遠性である。それは個々の個体が織り上げる図柄としての、生命と文化の織物である。

       
      


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