疎林の残雪、清流を渡り
満目の梅花 勢州に到る
旧友、相歌う参詣の夜
桜とはなかごを憶い 丸頭を掻く

(意)
落葉してまだ芽吹いていない林に、雪が残り、
そこから流れる清らかな川を渡った
見渡す限り梅の花が咲き乱れるのをみながら、
行く先は伊勢の国
古くからの友と、ともに歌うは、お伊勢に参った夜
私たちは、ふるさとの故事、皇子の桜とはなかご(花筐)の故事を憶って、
懐かしさに小学生に返ったように丸い頭を掻いていた


 われわれの小学校は花筐(かきょう)小学校と称し、その昔継体天皇が皇子の頃に住んでおられた地で、お手植えと言われている桜が残っています。岐阜根尾から山を越えた越前側ですが、ここでは()墨桜と書きます。この故事をもとに室町時代に作られた謡曲「花筐(ハナガタミ)」のふるさとでもあります。     ご笑覧


謡曲『花筐(はながたみ)』
 ところで継体天皇は応神天皇五世の孫彦大人王(ひこうしのおおきみ)の子で母を振媛(ふるひめ)と申し上げた。武烈天皇崩御の後、越前(福井県)から迎えられて即位された(『日本書紀』)。皇后は手自香(たしらか)皇女(天理市の衾田陵)。お二人のお子様が欽明天皇である。
 謡曲『花筐』によると越前国、味真野(あじまの)におられた男大迹皇子(おほどのみこ)は皇位をお継ぎになるために、日ごろご寵愛の照日前(てるひのまえ)にお手紙と花かごを形見としてお与えになり里下りをおさせになった。そうして皇子は継体天皇として大和の国池之内村の玉穂宮で日本国を治めておられた。
 みあとを慕う照日の前は折から紅葉狩りを遊ばされていた大君と出逢う。彼女はさきにいただいた形見の品である花かごを手に狂い舞をまってお目にかける。すると天皇はこの美しい狂女がかつての照日の前であったことにお気付きになり、再び彼女をお前に召されることになったという。世阿弥作、能の四番目物の演目中でも上品なものの一つだ。 (桜井風土記より)




2008.9)



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