ああ、私はやっぱり何といわれようと、男声合唱が大好きなんだ、という思いを新たにした演奏会でした。
 私は、作曲者の意図を、聴こえてくる音から読み取ることしかできない聴衆です。楽譜を見ていませんし、また見たとしても理解できるかどうかすら怪しい。それゆえ、私にできることは、ステージから響いてくる言葉・音色でイメージを浮かばせるしかないのです。それが何よりの楽しみとなっております。

 自然の情景と人間を慈しむような尾崎喜八の詩は、深く重厚な男声のハーモニーによく合っていると思います。詩とメロディーによる曲が渾然一体となって表現された演奏を聴いた時には震えるほどの感動を呼び起こし、そのハーモニーが、私の心にピタリとハマった瞬間はまさに鳥肌が立つのです。
 私が【尾崎喜八の詩から】を初めて聴いたのは2012年でした。そのとき私は尾崎喜八という詩人すら知りませんでした。プログラムにも、詩が掲載されておらず、理解が難しい言葉や同音異義語に悩みました。

 例えば、「風の長いはおんがはしり」と聴こえた場合、瞬時に「琶音」が浮かぶでしょうか? 私は「羽音」と「葉音」が浮かんだのでした。その時には組曲細部の理解は得られませんでしたが、『春愁』には涙が溢れましたし、『牧場』を聴いた時には、(あっ、詩人は恋を失ったな……)と直感しました。

 あれから約3年。尾崎喜八という詩人はいったいどんな生涯を送ったのだろうかと興味に駆られ、最近、喜八について書かれた串田孫一のエッセイを読んだり致しました。私が、そのエッセイから読み取った尾崎喜八像はといいますと


 こんな人物像が浮かんできます。

 これらを踏まえて、詩を読んでみますと季節の移り変わりとともに、自然、人間に対する喜八の敬愛とその清廉な人柄が浮き彫りになってくるのです。

【尾崎喜八の詩から】は、人生の年輪を重ねた詩人の思いが、やがて無限のものへと広がっていくように感じられる、なんてスケールの大きな組曲なのだろう、と思いました。そんなことを思いつつ、この度の四曲の演奏を聴かせていただきました。


『冬野』
 それでは最初の『冬野』の感想をお伝えします。この曲にはかなり、のめり込んでおります。
『冬野』といいますと、一般的には、葉が落ちて裸になった木々、雪や枯れ草に覆われた地面など、見渡す限り寒々とした光景が浮かぶことと思います。
 冬というのは【虚脱・枯渇】の季節でございます。枯れた野に風が吹けば、朽ちた葉が舞い、枝が風を切り、細枝が折れてさまざまな音をたてます。きっと、からからとからびた葉音()を立てながら舞う枯れ葉を「風の長い琶音がはしり」と表現したのではないかと思うのです。


 出だしの「いま 野には」を聴いた時には、圧倒されるほど重厚な響きにクラクラと目眩を覚えました。誰が何と言おうと、この響きはズーンと心奥深く届く私の大好きな男声サウンドでございます。
 この曲は、詩の見事さと男声の魅力を存分に伝えてくれますが、それが曲全体に散りばめられています。出だしから凄すぎます。凄い!どこが?と申しますと

 何もない「冬枯れ」の野を、自然からの贈り物のように表現しているのです、喜八という詩人は。神々しいほどの感性の持ち主です。広大な自然の運行にすぎない風景から、新しい力を受け取っているのです。まるで最も高い鍵を打つように見える最初の白い星に心が呼応して、詩人の内部で、見えない竪琴が鳴り始めるというのです。
 男声のサウンドが、見事なまでにそれを表現します。何も無い自然の中から、そのものの営みの美を見せてくれるのです。それまで、私が漠然と眺めていた自然を、本当の意味での見るという行為に高めようとしてくれるかのようです。

 


 最初のフレーズが終わって次にレガートで始まる「ふゆは〜」で、もうゾクッ!となる私です。寂しい景色だけれども、心がポッと暖かくなる、なんと素敵なハーモニーなのでしょう。
 この個所が私は格別好きで、いつもこの詩とハーモニーが頭の中に鳴り響いているほどです。万葉を想起させるような古いたたずまいの村落に潜む、新しい命の息吹を感じさせるハーモニーです。

 


 この詩は終戦直後に書かれたものだそうです。おそらく、心の(くう)をよぎる明暗の移ろいの中で書かれたものと想像します。心身共に疲弊していたであろう中で、この詩人は、冬の夕暮れ、只一人、翌年にはもしや実るかもしれない麦の収穫を思いながら種を播くのです。


 そんな姿に、終戦後の人々の苦労が重なり、私は眼が潤むのです。毎年変わらずに繰り返す自然の営みのなんて尊いことか
 そして、次の「それは沈む…」が、また感動的。
 ベースのハーモニーにググッと魅了されます。女心は、こういう声に弱いですね。
 
冬の野は見渡す限り、寒々とした光景のように見えます。しかしながら。草も木も、実は、枯れ果ててしまったのではなく、ただ静かに眠っているだけなんですよね。地面の下で膨大なエネルギーを蓄えながら、来るべき生命の復活を、今や遅しと待ち構えている心情がジーンと伝わってくるのです。


 戦争による深い痛手、艱難、屈辱、迷いから醒めようとしている詩人の心が察せられます。枯渇の冬から救われようとしている詩人を感じます。明暗こもごも去来しながらも、早春の天地のような心境を追い求める詩人がいます。


 次の「そして」は心に染み渡ります。須田さま、この「そして」は単なる接続詞ではない、大切な言葉なのですよね? ここのハーモニーはお見事でございました。この「そして」の余韻にどっぷり浸っております。

 山野の自然に没入して万象との敬虔な融和のなかに魂の平安を求めようとしている詩人の気持ちを表現しているように思います。宝石のように美しい青緑色である【翡翠いろ】はその気持ちの象徴の色でしょうか。

 ここで終わらせないところが多田武彦さんの凄いところです。最後に、野が冬日に映える美しさを現出させます。ユニゾンの最もぶ厚い男声サウンドがドスン!と身体中に響きます。嗚呼!! やっぱり私は『冬の野』が六曲の中で一番好きです。


『最後の雪に』
 これは、大正13年頃書かれた詩のようです。喜八の創作欲が旺盛で、書くことを強行していた一時代であったように思われます。後から後から詩が湧き溢れてきたのではないでしょうか。詩人にとって、書けるというのは喜びであったでしょうから、どしどし書いたのでしょう、おそらく。この曲を聴いていますと、ちっとやそっとの駄作は気に病まず、溢れるに従って汲んだそんな光景が浮かびます。

 武蔵の国のひなびた田舎の一軒家。大きな窓。窓からは、のどかな自然野や藪や畠が見える。いかにも呑気で牧歌的。「微風」「雲雀」という春を待ち望むような言葉もあります。冬のおわりの花びらの雪を「高雅な、憂鬱な老嬢たち」と表現しています。
「私の書く光明の詩」というのは、【河口の船着】という詩を指すものと思われます。<高層雲の下>という詩集において、『最後の雪に』の一つ前に掲載されています。
 このハーモニーが私はとても好きです。好きが高じて、この【河口の船着】を読んでみたくなり、市立図書館まで走りました。漁師といわず、人夫といわず、すべての労働者の明るい優しい心を讃美した内容の詩であることがわかりました。


 この詩を書いている時に降り始めた冬のおわりの雪が、河口で働く人々や、それを描く喜八の創作を讃えるかのように、まるで花びらのように優雅に舞っているという状況なのでしょう。

 ここをメロディーに乗って歌うと、ともすれば直線的に流れていきそうな言葉があります。
 


 「雪よ…」「そして…」「お前たちの…」「その…」この四つです。それを、皆様は何とも気持ちの籠もった、丁寧な歌い方をされました。こういうところに、私は感動を覚えるのです。<雨中小景>でも聴かせて()下さいました須田さまの音作りの世界に惚れ込んでいる私です。

 そして、「お前たち」と回繰り返すところがありますが、その呼びかけ方がすべて異なるのです。呼応しながら繋げていくその呼びかけの変化は、誠にお見事でございます。ここでもまた、胸がときめいてしまうのです。まさに、男声合唱の醍醐味だと思います。
 ウィンナ・ワルツに乗って歌われる、羨ましくも思われる詩人の環境であるのに、そのハーモニーには、どこか陰鬱さが漂うのは何故だろうか。詩人が、敢えて憂鬱なという表現を使っているのも引っ掛かります。
 私が思うに、喜八は、いつか襲われるかもしれない【詩想の枯渇】あるいは【若くしての老成】に怖れと憂いを感じていたのではあるまいかと、つい深読みをしてしまう私です。



『天上沢』
 この曲も、いいですね〜。ハーっと溜め息が出ます。
 最初の部分は、歌というより語りですね。【謡い】のような感じですね。いかにも多田武彦さんの曲!ですよね。聴いていますと、昂然と顔を上げ、純粋無垢な空気に深呼吸したいような気持ちになります。
 最後が最高!ドラマチック!好きなんです、私、こういうの。 
 映像が浮かびます。天上沢を見つめながら追憶に涙を浮かべる老人。その老人の姿に、喜八自身も自分の思い出を甦らせていたのでしょうね。

 雄大な自然は、幾千年を経た後でも、その姿は厳として微動だにしない。「千筋の彷彿たる雪」と対峙している、まさしく人生の終焉を迎えようとしている老人の、その見据えている瞳の奥に、どんな人間ドラマがあったのだろうと、想像させられます。



『かけす』
 尾崎喜八の詩は、風景と心情をうまくミックスして言葉を選んでいるように思います。この曲も、男声合唱の魅力満載です。
 余韻たっぷりの、味わいの深い、深い作品です。音の鳴り始めから、消えゆく瞬間まで、存分に聴かせて下さいました。

 喜八の心情を想像してみます。

 秋もようやく深くなった。空の高みをかけすの群れが飛んでいく。この高原を後にして、自分たちの知らない土地へ行ってしまう。それが何とも寂しい。もう二度と会うことはないのかもしれない。今まで一緒に暮らしてきた自分たちを置いて。いや、それは、己の意思ではなく、どうにもならない運命というものなのだろうか。美しく、賑やかな彼らが姿を消してしまうと、取り残された寂しさを感じる。
 刻々と変化して止まないこの世の姿は、結局、仮の姿つまり、各瞬間の映像に過ぎず、さまざまな出来事もまた一つひとつの寓話にすぎないような気がしてくる。しかし、それを静かに眺めていると、人間の生の縮図にも思われる。この寂しさは、人間同士が付きあっているこの地上の、世間で通用している寂しさではない。物足りないような心細い気持ちではない。地上の世界とは無関係に、その根源が宇宙のどこかにあるとしか思えない寂しさだ。穏やかにそれを受け入れよう。

 

私は、多田武彦さんの作品に魅入られております。もし、演奏会の1ステージに、多田武彦さんの組曲があったら、それは無上の喜び……いそいそと聴きに参上致します。



 私が男声合唱を好きな理由の一つは、『働く男性への共感』だと思います。
 私は、結婚生活の25年間を会社員として働いてきました。職場で過ごす時間は、家庭での時間より長かったように思います。仕事における悲哀、辛酸もなめております。家庭では決して見せないであろう男性の顔も知っております。

 そのような生活の中で、ある年、サラリーマン川柳に応募したところ、入選したことがありました。

 

そっと起き そっと出かけて そっと寝る

 

これが、その川柳です。


 男声合唱の響きの中に、潜む苦悩をも感じとり、そして、同士のような気持ちで応援メッセージをお届けしたいと思うのです。
 どうぞよろしくお願い致します。

敬 具

2015年4月22日 

齊 藤 弘 子


      

       
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拝啓 ヴィヴ・ラ・コンパニーの皆さま

  <合唱の午後>コンサートで「尾崎喜八の詩から」を聴いて

齊 藤 弘 子