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拝啓 アリオンコール様


齊 藤 弘 子



2014年7月19日




 法政大学アリオンコールOB会・オールアリオン様

 私は、OB六連演奏会の聴衆、齊藤弘子と申します。合唱未経験の一般聴衆でございます。大学も六大学ではなく、女子大を卒業した者です。私は昭和30年代に生まれましたので、皆様の平均年齢かと思います。
 7月13日に行われた第8回東京六大学OB合唱連盟演奏会、楽しませて頂きました。ありがとうございました。ただ、いつものことながら、若い聴衆が少なく、残念に思います。私は1階の真ん中あたりの席にいましたが、周囲は、70代と思われる方が多く、座席をご自身で探せず、係の方がお忙しいほどでした。

 皆様の前の演奏が、立教大の《四つの最後の歌》でした。

 私は、正直に申しますと、シュトラウスの曲があまり好きではなく、言葉もわかりませんので、そこは割り切って、ただサウンドのみを聴いていました。すると、やっぱり眠気が襲うのです。それは私ばかりではなかったよう。周囲の方々もコックリ、ウトウトしていました。
 私の場合は、半覚醒状態のまま、ハーモニーが頭の中を心地よく流れていく...といった感じでした。こういうのは、演奏して下さる方にとって、いかがなものか...と、ふと思ったりしました。
 


 皆様の演奏の番は、その次でした。
 “日本語”に飢えていたかのように、パンフレットを見つめます。
 ああ、多田智満子....私は、この方の詩集を1冊だけ読んだことがあります。高校生の時です。親にも友達にも気軽に聞けない問いに対しての答えを見つけたかったのだと思います。でも、そう易々と明解が得られる問いではないのでした。

 私の問いは、『人間は、死によってすべてが終わってしまうのだろうか』というものでした。多田智満子さんの詩は、私に答えては下さいませんでしたが、一つだけ、漠然とですが、わかったことがあります。それは、肉体というのは洋服のようなもので、死んだら『魂』は別の場所に行くのではないか、ということです。

 あの日々から幾星霜。
 私は50代になりました。
 そして、なんという巡り合わせか、再び多田智満子さんの詩に出会い、向き合うこととなったのです。

 男声合唱って、本当に、本当に不思議です。疾うに忘れたと思っていたことに、再び引き会わせるのです。こういう偶然は、この日だけではなく、実は、私の身に幾度も起こっているのでした。

 一つだけその例を申し上げますと──
 落下傘》という曲がありますが、私はやはり、この金子光晴の詩を高校時代に読んでいたのです。これを昨年の東京男フェスで聴いた時の衝撃...それは言葉にはできないほどのものでした。


    組曲《落日》 
 この組曲のテーマは、やはり『魂』ですよね?

 これはまさに、私の一大テーマでもあります。
 私は、そのハーモニーを、一語一語噛みしめるように、のめり込むようにお聴きしました。
 ふと、私の右斜め前方に座っていらっしゃる銀色夏生さんの横顔が目に入りました。やはり、ジッとパンフレットの詩を読んでおられます。真剣そのものの表情で。『魂』というのは、日常的ではないけれど、誰にとっても根源的なテーマです。これを考えずに死には向かえません。


 最初の曲《鳥たち》から牽きつけられました。
 暗喩に満ち満ちています。それは、まさしく魂が不可視なものだから...ですよね。いにしえ人が、魂をどのように捉えていたか、原始的なイメージを、詩人が探っています。見つめています。これには興味をそそられました。詩人らしいひらめきを自在に働かせ、豊かに連想を繰り広げています。
 古代から人々が抱いていた魂の形が『鳥の形』とは...
 それは私が考えもしなかったことです。魂が鳥の形...ですか。
 知性に裏うちされた言葉とハーモニーを聴いていますと、(もしかしたら、そうなのかも...)と思えてくるのでした。
 曲は湿って重い感じではなく、乾いてさっぱりした感じ。硬質なイメージが広がります。


川のほとりに
 この内容は凄い!
 意識下の世界ですもの。日常的な世界の外にある世界...といえば、そこはもう『彼岸』と呼ぶしかないでしょう。
 正常な状態では考えられない世界を示現したような内容です。しかし、曲は、少しもおどろおどろしくありません。幻想的な神秘的な世界が感じられます。それを詩に書くということは、詩人の外に実在している内奥を明るみにしていることなのではないでしょうか。
 私には、魂を可視化できませんが、『魂』は確かにある、と過去に実感したことはあります。私の父が死去したのは3月。葬儀の数日後、暖かい陽光のもと、桜並木を歩いていて、満開の花をふり仰いだ時、故人の魂が、現世より高いところへ昇って行くと感じた瞬間が、確かに、確かにあったのです。自分の父という個別性を持ちながらも、もっと広い、普遍的な存在になったような。
 あの日のことを思い浮かべながら、演奏をお聴きしました。魂の存在を確信しながら....


落日
 これを聴いた時には、中学の修学旅行で、奈良公園を訪れた日のことを思い出しました。公園の中にある興福寺の阿修羅像...私は、それを忘れてはいなかったのです。40年も前に見た阿修羅像を!

 阿修羅像には、顔が三つあります。
 まず正面の顔。その顔は、純真で繊細な少年のような面影を湛え、悲しげな表情で立っていました。「どうしてそんなに悲しい顔をしているの?」と声をかけたくなるほどの幼さと危うさ。私は釘付けになりました。
 しかし、あと二つの左右の顔は、戦いの顔。唇をきっと結んだ顔は、今にも剣を振りかざしそうな表情なのです。苦悶や怒りが見えます。その三つの顔を持つ阿修羅が、人の最期に“ひたはしる”とは...
 そして、詩に書かれている、公園内にある五重塔の後ろに沈みゆく落日の光景も、私には想像できるのです。自然の序列に還らなければならない人間の姿が浮かびます。
やはり、やはり、私は、『魂』は存在すると思います。そして、日々、様々な形で語りかけてくる、それを私自身が、感じているのです。

 なんて深い内容の曲なのでしょう。もう一度聴いてみたいです。
 詩の内容が頭に入った今、この深い曲を、もう一度聴きたいと思うのです。


 最後に──

 この度の演奏会、何か物足りない“もの”がありました。
 その“もの”というのは、私の場合“泣き”なんです。
 いつも、演奏が始まる直前に、ハンカチをパンフレットの下に忍ばせる私。ところが、今回は、6ステージお聴きして、一度もそれを使うことなく終わりました。ちょっと気落ちしながらハンカチをしまいましたわ(笑)。勝手なようですが、やっぱり、私、泣きたいのです。
 泣くと、なんだか心が浄化されたような心持ちになるんです。心の中にある感動の ツボにぴったりハマって、涙を流したい...そんな願望が叶えられたら嬉しく思います。


 一昨年の《コンポジション6番》には魅了されました。惚れ惚れと聴かせていただきました。

 “男声合唱病”の私ですので、またおじゃまさせて頂きます。
                        



      

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