M-121
齊 藤 弘 子
男声合唱に出会って5年目。その魅力にとり憑かれております。しかし、私自身は合唱の経験が無いため、その味わい方はかなり “自己流”
です。その
“わたくし流” な味わい方でいくと、私の中で男声合唱は三つに分類されます。
ほとんどの感動の仕方が上記のパターンに分類されるのです。
私が聴きに出かけました72回の演奏会の中から例を挙げますと、@はルネッサンスの宗教曲です。Aはたくさんありますが、ハンカチで拭いても拭いても溢れ出て、隣席の人にわかるほど泣いた曲といえば、まずは、八木重吉:詩の 《雨》 です。そして 《鴎》 《こころようたえ》 《ヒスイ》 《くちびるに歌を》 《雨後》 があります。
Bはすべて多田武彦さんの曲で、《夜ふる雪》
《冬の夜の物語》
《花火》
《雨中小景》(この曲は実演ではなくCDでしか聴いていません)《かきつばた》 《石家荘にて》 《ふるさとにて》 《ふり売り》 《牧場》 など、枚挙にいとまがありません。吐息までもが聞こえてくる演奏に全身鳥肌が立ちます。これらの曲には大人のロマンがあります。聴いていると心の奥底が揺さぶられ、痺れるような感覚になります。
@からBいずれの曲にも共通することは、演奏するということは、演奏者の自己完結ではなく、聴衆の心に働きかけることによって成立するのではないか、ということです。合唱は技術の高低ではなく、聴衆と気持ちを分かち合うことなのかな...と思うのです。
そんな想いを抱きながら、男声合唱団イルカンパニーレ創立30周年記念演奏会(2014年6月1日 川越市市民会館やまぶきホール)におじゃましました。
◆1stステージ
このステージは、楽しめました。
《ありがとう》 が演奏された時に、涙を拭っている方が多かったように思います。ブルーの照明と共に、男声の深く温かみのあるハーモニーが聞こえますと、ウルッ、ジワッとなります。
♪ 悩んだ日もある 哀しみに くじけそうな時も あなたがそこにいたから 生きて来られた
ここです!ここ!この詞が聞こえた時は、もうたまらない気持ちになりました。私の目から溢れ出したのは、羨望の涙です。普段の私の中の隠れたる 『支えられたい願望』 が刺激されたのです。男声のハーモニーで泣くのは、日常の私に欠けている 『泣き』 を補う代償行為なのでしょうね、きっと。瑠璃色というのは紫がかった青ですね。背景の色がこの曲のハーモニーにぴったりと合っていました。
《COLORS》 には、演奏の巧拙とは別次元の楽しさがありますね。リズムがあり、振り付けがあり...で、これは客席を巻き込んでいく生きたパフォーマンスですね。皆様のサービス精神には敬服致します。しかし、本音を申せば、私は笑いを取る振り付けを見たくはありませんでした。なぜなら、私が男声合唱に求めるものから離れてしまうからです。私は、男声合唱に、『粋、艶っぽさ、ダンディズム』 を感じていたいのです。これこそが、女心を震わせるものでございます。
◆2ndステージ
時間的にちょっと長かったという印象があります。
ピアノ独奏の演奏曲は、知っている人が多いと思われる選曲をして下さり、とてもよかったと思います。パンフレットに掲載されているリストの曲の解説は、伊藤孝雄さまがお書きになったのですね(ステージごとの解説は手分けして書いています)。この解説には惹かれました。伊藤さまと私は、たぶん同世代。ゆえ、余計にそう感じるのかもしれませんね。思わず、お話ししてみたい...そんな気持ちを起こさせる解説文でございます。
演奏されたリストの歌曲は、なんてドラマチックなことか...幸福とか、人生とか、なんとなく考えながら聴いてしまいます。
♪ 秋を愛する人は心深き人 愛を語るハイネのようなぼくの恋人
という歌が流行り、興味をそそられ、ハイネの詩集を購入したのでした。そんな若き時代を思い出します。
《ラインの美しき流れに》 のあまりに美しいメロディには、うっとりと心を委ねました。
◆3rdステージ
次は 《水のいのち》 です。
実は、私、昨年師走、この曲を清水昭先生:指揮/コール・フリューゲルさんの演奏でお聴きしたのです。
この曲の詩は、同音異義語に悩むこともなく、言葉が平易な為、耳に響くその言葉が真っ直ぐに心の中に入ってきます。曲の構成も分かり易く、理路整然と聴けるのでした。
イルカンさんの演奏が始まり、
♪ 降りしきれ雨よ 降りしきれ
と聞こえてくるや、もう、ここでウルッとなります。(あれ?どうして?この前聴いた時と違う)瞬間的にそう感じました。聴いているうちに、皆さまの気持ちが練り込まれ、言葉に血が通ってくるのがわかり、ジ〜ンとなります。不思議なことに、詩を解釈することなく、シンプルに言葉が伝わり響くのです。
*降りしきれ → 神に向かって祈っている
*水たまりの泥 → 自らを哀れんでいる
*川 → 何故かと怒りをぶつけている
*海 → 訴えかけている
そして、この部分
♪ 億年のむかしもいまも そなたはいつも始まりだ
ここが歌われた時、涙がどっと溢れたのです。私は、この時にやっとわかったのです。皆さまは身体ごとぶつけ、曲を自分のものにして溌刺と自信を持って歌っておられました。そうなのです!そうです!暗譜で歌っているからなのです。曲への没入、響きの良さ、迫真さ。暗譜がもたらす力の絶大さを、私は初めて知りました。コール・フリューゲルさんは、全員譜面を見て歌っていたのでした。時間がたっぷりある若い大学生が、です。
私自身にも言えることですが、年齢を重ねると物覚えが悪くなるのですね。確実に覚えたと思っても、一瞬の魔がさしてポッカリ穴があくという懸念があります。暗譜はその不安と隣り合わせであろうと想像します。
楽譜を持たずに歌われる姿を客席から拝見しますと、心が自由に、音に乗って羽ばたいているように感じます。言葉が生きて伝わります。「この曲を愛している!」 というのが伝わります。詩に命が宿ります。楽譜が有る演奏と無い演奏では、聴衆にとって価値が違ってきます。
イルカンの皆さまのご努力に心からの敬意を表します。
◆追悼ステージ
私は、男声合唱を知ってからの年数が浅く、川越の地に来てまだ2年ですので、小秀一先生を存じ上げませんでした。関根盛純さんのブログを拝見し、どんなに皆さまに慕われ愛された方であったかとわかった次第です。
《時には母のない子のように》
黒人霊歌は、なんて切ないメロディであることか...。アフリカン・アメリカンの悲しい歴史が閉じこめられてる、あまりにも物悲しい、しかし美しいメロディに、やはりウルッとなります。男声合唱が表現する感情の機微と音色の深さをたっぷりと味わいました。
《エリモ岬》 多田武彦作曲
初めて聴いた曲です。
森進一がハスキーな苦しげな声で歌う
【♪襟裳の春は何もない春です】 が思わず浮かんでしまう私です(笑)。
嗚呼!やっぱり多田武彦さん!好きです、こういう曲、本当に。目の前に風景が広がります。多田武彦さんの曲を聴くと、ステージの皆さまが見えなくなり、浮かぶのはその情景だけになります。しみじみと聞き入ります。タンポポと、木の存在しないセピア色の丘が目の前に広がります。が、この、のどかな風景がいきなり、いきなり尽きます。
次の曲からは、まさに小秀一先生追悼演奏でしたね。
《My Way》 小秀一編曲
《秋の歌》 「月下の一群より」 南弘明作曲
《Finale Requiem:男声合唱組曲『マッチ売りの少女』終曲》 牧野統作詩・作曲曲
ステージを見ると、ハンカチを当てている団員もおられます。私ももらい泣きします。大切な人を失うというのは、悲しみ以上の痛手を残された者に与えます。逝ってしまった人を恨みたい気持ちにさえなります。亡くなられて、わずか半年ですもの。未だ信じられない思いかもしれませんね。それでも、30名の団員の皆さまが心を込めて歌って下さいました。
地元、地縁の深さというものに圧倒され、感動を覚えました。牧野美紀子先生、町田百合絵さんを迎えられて、アットホームな温かい雰囲気に満ちています。いいですね〜。東京育ちの私には決して持つことのできないものです。牧野先生は、ユーモアと、そして茶目っ気たっぷりでいらっしゃる。
野島万里子さまも川越の方でいらっしゃるのでしょうか? なんて気品のある方なのでしょう。こんなふうになれたらどんなにいいか...と憧れます。
メンバーの方が練習に集まらないというボヤキもありましたが、あれだけの暗譜をなさるのですから、その蔭の努力は察して余りあります。
最後に、私の願いをお心に留めていただけたら嬉しく存じます。
男声合唱の演奏会に伺って、その折りに演奏される曲は、楽しみでたまりません。音楽劇、宗教曲、ポピュラー、ジャズ、童謡など、幅広く多彩な演奏に、楽しさ、喜びを存分に味わっております。しかし、私がこれほどまでに男声合唱に魅せられるのは、楽しいからばかりではありません。自分の来し方、行く末に思いを馳せる “場” であるからなのです。
■ 月光とピエロ
■ 雨
■ わがふるき日のうた
■ 枯れ木と太陽の歌
これらの曲を聴きますと、自分の生きてきた道に思いを致します。すると、亡き方、私の先行く方々が語りかけをするのです。
せっかく、同じ場に集ったならば、客席にいるすべての方々と、この思いを共有したいのです。興味がない、内容がわからないという聴衆は、“置いてきぼり” で構わないのです。自分から聴く姿勢を持てば、必ずやわかる曲なのですから。
このように内容の深い曲、私は他に知りません。後世に伝える責任があると私には思えるのです。是非とも、演奏会で歌っていただきたいのです。私は、何度でもお聴きしたいのです。
次回のイルカン演奏会は2年後でしょうか。楽しみにしております。