詩の読み方はけっこう難しい。まして、高校生に詩の世界をどう説明するか、現場の教師たちは大いに悩んでいる。
たまたま多田武彦作曲、男声合唱組曲 『わがふるき日のうた』
の歌詩を調べているうち、岡山県の高校教諭、松下泰久氏の論文に行き当った。
『わがふるき日のうた』 は三好達治の詩にもとづくもので、なかでも一番目の 「甃のうへ」 は相当に難解な言葉が使われていて、言葉とともにその表現するところのこころを如何に掴むか、詩を読む楽しみでもあり難しさでもある。「甃のうへ」 は処女詩集 『測量船』 に収められたもの、国語の教科書に定番として出てくるという。しかし、難解な文語や雅語を駆使したこの詩は、生徒にとって極めて取っつき難いものだが、詩人の叙情を的確に表現した傑作であると松下先生はいう。
甃のうへ
三好達治
あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍みどりにうるほひ
廂々に
風鐸のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃のうへ
このような難しい詩をどのようにして教えるか、理屈っぽく教え過ぎても生徒のイメージはどんどん狭められ、限定されてしまう危険を孕んでいる。あくまで生徒が自分自身で感じたイメージを、自分の言葉で感想として表現するなかで、語彙力の拡大を狙うのが本筋と松下先生は感じている。言葉は受け取る人によって様々な意味合いやイメージとなって、ひとつとして同じようにはならないだろう。もちろん、詩人が思い描いたのと同じイメージや映像とも同じにはならなかろう。松下先生は、これを解釈の「ゆれ」 と言い表している。そして、言葉には 「ゆれ」 があることを前提に、言葉以上に人びとに 「近い」 感情を引き起こせるものとして 「音楽」 の存在に目を付けた。詩と音楽の融合である。
調べるうちに、多田武彦氏の男声合唱曲、萩原英彦氏および尾高惇忠氏の女声合唱曲に出会い、詩の叙情がどのように音楽のなかに展開され、イメージや雰囲気が創り出されているかを比較することで、この詩の理解をさらに深めることができるのではないかという試みなのである。
松下氏は「甃のうへ」 の楽譜を提示し、音符の流れとともにイメージがどのように変化しているかを解析している。
例えば、多田武彦氏の解釈について、曲の調性はEm(ホ短調)、3/4拍子、「遅く、静かに」 と指示されており、全体に物悲しい、それでいて日本的で優雅な響きとなっている、「瞳をあげて翳りなき」 は、一旦トニックコードのEmから始まり、さらにBm→Cと明るく 「翳りなき」 明るい日向の様を描写する。そして、「み寺の春を」 の部分をE7→Am→F→G7→Amの進行により一旦フェルマータで余韻を残し、再びEm→B→Emと少女たちの歩みを寂しく見つめる詩人の心が見えてくる。
というように、楽譜に沿って逐次解析を進め、それぞれの作曲家がどのように感じたかを音楽から知ることで、詩の世界の理解の一助とする試みである。
作曲家三者それぞれに共通する点は、「甃」 を見つめる詩人の心は決して晴れやかのものではなく、アンニュイな青年の気だるさと物憂さが漂っていることだという。言い換えれば、この詩の中心が、華やかな春の景色と少女たちの様子に対し、優雅で静寂な寺の雰囲気にともすると同化する詩人の感性の対照にあると三者とも解釈していることになる。
音(音楽)によって詩のイメージが掴めるなら、言葉の注釈だけに頼る退屈な授業にならずに済む可能性がある。このような取り組みのなかで、松下先生は教師自身がもっと詩的表現に触れる機会を作らねばならないと感じている。
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