K-38


   安部公房とわたし



加 藤 良 一   2013年10月23日





 「安部公房とわたし」 といっても、ここでいう 「わたし」 はもちろんこれを書いている私ではない。このわたしとは女優の山口果林さん(66歳)のこと。安部公房の恋人として20年にわたる不倫生活を綴った手記のタイトルである。
 山口果林さんは、東日本大震災の後、家族の写真をさがす人をテレビで見て、人間には生きた証しが必要だと感じ、安部公房が亡くなった年齢に自分も近づき、記憶が鮮明なうちに 『自分史』 として書いておかなければいけないと思った。

 ふつうであればこの手の暴露本に興味は湧かないが、こと安部公房ときてはほっておけなかった。たまたまAmazonで音楽関係の本を買う手続きをしている最中になぜかこの本のコマーシャルが出てきた。どうして私が食指を動かすと見抜いていたのだろうか。思わずついでに買ってしまった。

 安部公房は、19921225日、脳内出血による意識障害を起こし入院、翌1993年122日、急性心不全のため死去している。亨年68歳。亡くなった場所はこの本の著者山口果林さんの自宅マンション、彼女が45歳のときだった。
 山口果林さんは、この本を暴露本ではなくあくまで女優山口果林の半生を記したものとしている。しかし、そもそもは2005年頃、新潮社から安部公房にまつわるエピソードを書かないかと薦められたことに端を発しており、少しずつ書きためてみたものの、まとまりがつかず先へ進まなかったと述べている。2012年になって、世間に知られていない安部公房像を書き残すべきかもしれない、山口果林の自分史という形で書くなら、それも許されるのではないかと思い始めた。
 19907月、安部公房が最初に入院したとき、果林さんが聖路加病院へ駆けつけると、そこにいた夫人の安部真知さんから恐ろしい剣幕で 「何しにきたのよ!」 と怒鳴られ追い返された。まだ意識があった安部公房は顔面蒼白となったという。それはそうだろう、まさに修羅場とはこのことだ。ノーベル賞を取沙汰されるような作家といえども、その前に一介の男でもあったのだ。


「書き進めた二百枚もの原稿を、書き出しが間違っていたと反故にし、冒頭から再度、取り組む安部公房の姿勢を尊重するなら、私生活のエピソードを披露するなど決して喜んではもらえないだろう。それでもあえて、私自身のために踏み切った。」


 今年(2013)が安部公房没後20年の節目ということもあって、背中を押されるように出版を決心したという。ノーベル賞候補にもなった作家との関係は彼女にとって誇らしいものであったろうし、それなくして自分史を語ることはできなかったのであろう。

 玄関に脱ぎ捨てられた見なれぬ靴と杖。部屋に灯りがついている。寝室に人の気配。そこには暖房の温度を目いっぱい高くして、羽毛布団にくるまった安部公房がいた。1992年のクリスマス・イブ以来、一カ月ぶりの再開だった。
 すぐに安部公房の担当編集者だった新田敞(当時・新潮社常務)に電話を入れた。夫人から薬を貰いマンションに届けてくれるという。就寝前にどうしても飲まなければならない薬があるというのだ。新田敞の来訪を待ちながら、ベッドでおしゃべりした。疲れているように見えたが、脳梗塞や脳出血で倒れた重病人には見えなかった。
 「ホテルまで探しにいったのよ」
 「こんなに早く、ここへ帰ってこられるとは思わなかった」
 「なんで私を部屋に入れてくれなかったの?」
 「怖い人たちが来て、僕を禁治産者にする手続きをしようとしていたんだ」
 成年後見人の話は、今となっては事実なのか安部公房の妄想だったのか、確かめる手立てはない。ただ、病院を抜け出した安部公房を追って、夫人がホテルに行ったのは事実のようだ。安部公房は夫人のもとから逃げ出してきたのだろう。


 私が初めて安部作品に触れたのは、もう40年も前のことになる。それは小説 『砂の女』 だった。この小説は映画化されもしたが、その奇妙な世界に完全に魅了されてしまった。
 1972年新潮社から全15巻から成る 安部公房全作品 が出たとき、私はすぐにそれを買い求めた。これが 全集 と名付けられなかったのはまだ著者が生きていたからで、その後出版された作品はそのたび追いかけるようにして読んだ。そうはいいながら、そんなことはその後10年も続かなかった。というのは、1973年に演劇集団 「安部公房スタジオ」 を結成し、戯曲が中心になっていく中で小説作品が減少していったからである。戯曲はそのまま読むだけで面白い場合もあるが、やはり演劇の舞台を観ることが欠けてはだめであろう。私は演劇を観に行くことはほとんどなかった。こうして次第に安部公房とは離れていった。その間、不覚にも安部公房が山口果林さんと不倫関係にあったことなど何も知らなかった。

 安部公房の好きな音楽は時とともに変わっていったそうだが、クラシックが中心だったように見受けられる。二人が付き合い始めたころは、バリトン歌手のゲルハルト・ヒュッシュの歌うシューベルトの 「冬の旅」 がお気に入りで、ときどきハミングしていた。また、バロックも好きだったし、ロックのピンク・フロイドにも心酔していた。ところがいっぽうで邦楽は一切受け付けなかったという。晩年、カナダの放送局からグレン・グールドを記念した番組のインタビュー依頼があった際、二人でグールドが作ったドキュメンタリー・テープを見たが、安部公房とグールドの感性はどこか似ていると果林さんは感じた。なるほどその共通点は私にもなんとなくわかる気がする。

 安部公房は、1975年に戯曲 緑色のストッキング で読売文学賞を受賞している。この年、山口果林さんは ウエー 新どれい狩り』、『幽霊はここにいる などの安部作品を舞台で演じていた。そして、安部公房との蜜月を重ねているときでもあった。




 「安部公房とわたし」 には、その当時の私生活が赤裸々に描かれており、安部夫人や娘さんとの確執もかなりあったことが書かれている。しかし、あくまで女優山口果林の半生記としてまとめられている。手記の最後に彼女自身の芸歴が掲載されているが、安部公房のことはそこには一切出て来ない。この本の表紙に使われている写真は、山口果林さんが大学を卒業して間もない頃のもの。口絵には同じ頃の大胆なヌードも披露している。とてもキュートで小悪魔的な容姿である。

 山口果林という芸名は安部公房が考えたものだ。本名、山口静江。当時、社会党から自民党に鞍替えした代議士が山口シズエだったから、そのままではイメージが悪いし平凡すぎる、そこで、安部公房は原稿用紙に気に入った漢字や音を書き連ね、その中から 果林 が候補となった。芸名は左右対称のほうが、幟に書いたとき、どちらからでも読めるからということも理由になったらしい。それでは絞り切れず、最後は高島易断のご託宣をもらって果林に決めたという。意外と古い面も持ち合わせているのには少々驚いた。

 安部公房との出会いは大学のキャンパス、大学4年の時に一線を越え、その後、安部公房が他界するまで妻子持ちの作家との不倫関係は続いた。自伝が 「すべて実録」 であることを証明するため、彼女自身が少女期に性的ないたずらを受けていた過去をも包み隠さず明らかにしたし、安部公房の子供を中絶したことも書いている。

 安部公房は、女としてだけでなく、女優である山口果林を好きになってくれたのではないか、若い頃 『アーサー・ミラーとマリリン・モンローが苦い結末に終わったように、作家と女優の関係は世界を見渡してもなかなか成功例がない。もしも自分たちが長続きしたら、初めての関係になるかもしれない』 と話していたという。
 誰にも打ち明けることのできない関係。逃げだしたくなり、他の人とデートしたこともあったが、最後の一歩が踏み出せなかった。またいっぽうで、安部公房との結婚を願ったことはあまりなかった。女優のキャリアに傷がつき、仕事が減るのが嫌で、スキャンダル沙汰は起こしたくなかったと述べている。悪くいえば安部公房を利用していた面もあっただろうか。

 私は俗にいう愛人かもしれませんが、その意識はありません。私たちの間には金銭の要素がなかった。あくまで恋人の関係だと思っています。安部公房さんは 『僕の方が君よりずっと大事に大切に思っている』 と言っていましたけれども、20年が経ったいま、天国に向かって 『私の方がずっと強く思っていたんじゃなあい?』 と言いたいですね(笑い)


 安部公房は 君は、僕の足もとを照らしてくれる光なんだ―― というほど、山口果林さんを心底愛していた。世間の目から見ればなんということかとなるだろうが、安部夫人や娘さんとは長いあいだ別居していたわけで、事実上離婚していたに等しいのではなかったか。


安部公房とわたし」 講談社 2013年7月31日出版






   
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