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宮沢賢治と法華経

加 藤 良 一   2012年1月7日





いま、東北を代表する詩人宮沢賢治の詩『雨ニモマケズ』を多くの著名人が朗読し、その動画がYouTubeに配信され共感を呼んでいます。とりもなおさず、2011311日の東日本大震災からの復旧・復興を願うこころの現れだと思います。

 

宮沢賢治は、奇しくも「明治三陸地震大津波」のあった明治29年(1896)に生まれて、「昭和三陸地震」の昭和8年(1933)に亡くなりました。

 

賢治の生い立ちに大きく影響したと思われる事柄のひとつに、その出自があります。賢治の父政次郎(せいじろう)は、岩手県花巻で質屋を商っていました。当時の東北地方は近代化の波に取り残された農業中心の貧しい地方でした。生活に困窮し、酷いときには娘を身売りに出さねばならないような人びとがたくさんおり、そのような農民がなけなしの質草を抱えて店に来ます。それを政次郎は厳しく値踏みし金を貸し付けるのでした。正義感の強い賢治にとってそれは耐えがたいことだったでしょう。そのことが賢治に、罪の意識すなわち、生きることは「贖罪」だという思いを焼きつけたようです。

また、賢治は幼少から病弱だったこともあり、十代後半には法華経に深く感銘を受け、父に無断で日蓮宗に入信しています。いっぽう、政次郎は熱心な浄土真宗の信徒であったため、二人のあいだにはかなりの確執があったといわれています。実家の生業に対する罪悪感から父に日蓮宗への改宗を勧めましたが、最後まで聞き入れられることはありませんでした。

賢治の作品には、法華経の教えがつねに横たわっています。さらに作品で表現するだけでなく、自らもそれを実践しました。殺生を嫌い、肉、魚を口にしない採食主義をとおしたり、女性との恋愛を避けたりもしました。短い生涯でしたが独身を貫きとおしました。このような禁欲的な生き方は、とりもなおさず「贖罪」の観念が強かったからでしょう。農学校の教師という安定した職を三年で辞し、苦しむ農民を応援するため羅須地人協会という無報酬の活動を始めたのも同じく「贖罪」だったのです。教授とか指導とかだけでなく実践を伴う道を選んだのです。

 

あらためて『雨ニモマケズ』を読んでみましょう。原文は旧字、カタカナで書かれた短い詩で、没後発見されました。愛用の右開きの手帳に鉛筆で書き込まれています。ここでは現代かなづかいで表しました。


 雨にも負けず

雨にも負けず、風にも負けず
雪にも、夏の暑さにも負けぬ、
丈夫な体をもち
慾はなく、決して怒らず、
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と、味噌と、
少しの野菜を食べ
あらゆることを、
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし、分かり、
そして忘れず
野原の、松の林の陰の、
小さな、萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば、
行って看病してやり
西に疲れた母あれば、
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば、
行って、怖がらなくてもいいと言い
北に喧嘩や訴訟があれば、
つまらないからやめろと言い
日照りの時は涙を流し、
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなに、木偶坊(でくのぼう)と呼ばれ
褒められもせず、苦にもされず
そういうものに、私はなりたい
南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

 

先ほど述べたように、この詩は右開きの手帳に右から左に書かれています。そして、最後の「そういうものに、私はなりたい」の詩句がちょうど右側の頁で終わり、続いて左の頁に「南無無辺行菩薩」から「南無安立行菩薩」まで七つのお題目が書かれていたのです。これは果たして詩の一部なのか、それともまったく別の書き込みなのか、法華経に帰依していた賢治なら書きそうな気がしないでもありませんが、のちに『雨ニモマケズ』論争として問題視された箇所です。しかし、現在では本体の詩とは関係ないものとされています。
 それにしても、手帳にお題目を詩と並べて綴るというのはいかにも信心深い賢治らしい思いがします。写真は
『雨ニモマケズ』が走り書きされた手帳の複製ですからきれいですが、本物はもっとくすんで傷んでいます。

 

 

NHK教育テレビの番組『宮澤賢治 銀河鉄道の夜』(201112月)で講師を務めたロジャー・パルバースさん(東京工業大学世界文明センター長)によれば、この詩のなかで重要な点は、賢治の大切にしていた「実践」することが明瞭にあらわれている<行って>という表現にあるといいます。


東に病気の子供あれば、
行って 看病してやり
西に疲れた母あれば、
行って その稲の束を負い
南に死にそうな人あれば、
行って 怖がらなくてもいいと言い

  

賢治は、他人の悲しみや苦しみを十把一絡げにするのではなく、その一人ひとりと向き合って、その人の悲しみを聞きなさい、その人のために何かをすることを大切にしたといいます。ただ口先で相手の幸せを祈るのではなく、自分の体を使って、すなわち<行って>相手のために何かする。そうしないと相手は幸福にならないし、相手が幸福にならないと自分も幸福にはならない。賢治はそう考えたというのです。

 

ですから、『雨ニモマケズ』は「自分」がどうするのか、どう生きるのか、ということを書いた詩なのです。そんなことを考え合せると、東日本大震災の被災者を励ますためにと、渡辺謙など有名な俳優たちが『雨ニモマケズ』朗読するというのは、見方によってはやや主旨がちがうかなということにもなります。現に、私のfacebookにもつぎのような書き込みがありました。

あの詩は忍耐の詩ではない。究極の生き方、究極的な積極的な生き方をしたいという賢治の内なる決意……その思いは、最後の「南無妙法蓮華経」の怒涛の祈りで締めくくられる。あの詩の朗読は数多くのボランティア、連帯へとつながったのだろうかとも思う。」(千葉敏行さん)

あるいは、

あの詩は賢治が自分に向けて書いたものです。その決意が岩手の人々に共感を与えたのは事実だと思います。しかし、支援する立場の側から伝える詩としては相応しくないかもしれません。」(鈴木庸介さん)

など、やや違和感をお持ちの方が少なくないと思われます。

 

しかし、東北の人たちにとっては、地元が生んだ詩人ということも加わって、その言葉はほかのどの詩よりも胸に届きやすいのかもしれません。

私の従兄妹家族は、気仙沼の家を流され、からだ一つで岩手へ避難しました。彼らに一日も早く明るい笑顔が戻ることを祈らずにはおられません。

 




   
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