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(……)しようことなしに、ローマ字の表などをつくってみた。表のなかから、ときどき、ツガルの海のかなたにいる母や妻のことがうかんで 予の心をかすめた。「春がきた。4月になった。春!春!花もさく! トウキョウへきて もう1年だ!……が、予は まだ 家族をよびよせて養う準備ができぬ!」 近ごろ、日に何回となく、予の心のなかを あちらへ行き、こちらへ行きしてる 問題は これだ……
そんなら なぜこの日記をローマ字で書くことにしたか? なぜだ? 予は妻を愛してる;愛してるからこそ この日記を読ませたくないのだ。──しかし これはウソだ! 愛してるのも事実、読ませたくないのも事実だが、この二つは必ずしも関係していない。
そんなら 予は弱者か? いな。つまり これは夫婦関係という まちがった制度があるために起こるのだ。夫婦! なんというバカな制度だろう! そんなら どうすればよいか?
悲しいことだ!
啄木の日記は、明治35年(1902)17歳のときに、北海道から東京へ出てきたときから、27歳で結核と貧困のうちに窮死する直前までの10年間書かれている。そのなかで、明治42年(1909)4月7日から6月16日までの71日分のローマ字部分が出版されている。ここでは露骨な性描写の紹介は避けるが、その一歩手前までの一例を下に示す。
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これでは、いくら啄木といえども、内容からして、妻には読まれたくないものである。「予は妻を愛してる;愛してるからこそ この日記を読ませたくない」から、妻が読めないローマ字で書くことにしたというわけである。読まれたくないものだったら心に仕舞って書かねばよかろうと思うが、そこが表現者としての啄木の啄木たる所以であろうし──妙な言い方になるが、誠実さの表れでもあろうか。「啄木の生活の実験の報告だが、同時に、彼の文学の実験であったことはいうまでもない。それが、文学者ということだが、彼は文章の力によって自己を究極まで分析しようとした。そのため、その文体は誠実と同時に緊張を要請され、そこに新しい名文が生まれた」と桑原武夫は解説している。
いずれにせよ、ローマ字がまだ一般には普及していなかった時代で、ほとんど外国語のような存在だったからこそ、啄木が妻に読まれずに日記を書くことが可能だったにちがいない。ここで詳細には触れないが、啄木のローマ字は、当初日本式ではじまり、その後ヘボン式に変わり、ふたたび日本式に戻っているという。
啄木は、妻をはじめ家族に背くような行状をつづったこの「ローマ字日記」を、金田一京助に「あなたに遺すから、あなたが見て、わるいと思ったら焚いて下さい。それまででもないと思ったら焚かなくてもいい」と託し、さらに節子夫人は「啄木は焼けと申したんですけれど、私の愛着が結局そうさせませんでした」と殊勝にも日記を残すことに同意している。このようにして、類まれな実験的「ローマ字日記」が後世に伝えられたのである。
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K-32
啄木がローマ字で綴った秘密の日記
加 藤 良 一 2011年8月20日