明治時代の終わり、ローマ字というものが世に広まりはじめた頃、石川啄木はローマ字で日記を書いた。啄木24歳のときであった。しかし、その日記は啄木の死後70年近く日の目を見ずにいた。それはなぜか。北海道に妻子や母を残して単身上京し、若い女性たちと日夜繰り拡げられる交渉ごとが、誰はばかることなく赤裸々につづられていたからだ。たしかに、出版するには問題の多い表現があちこちに見られる。エロ小説も敵わないほど男女の性交渉が露骨に書きつけられている。
 さらに刊行されなかったもうひとつの理由は、そのような日記のなかに、たびたび引き合いに出された金田一京助らが自身のプライバシーが人目に晒されるのを嫌って反対したことも手伝ったらしい。もとより日記であるから、人に見てもらうことを想定していないのが建前だろうが、詩人であってみれば、かならずしもそうともかぎるまい。それはさておき、なぜ啄木のような詩人がローマ字で日記を書いたのだろうか。とにかくその日記の冒頭をみてみよう。

(長く伸ばす長音符は、母音の上に「─」や「∧」が併用されていたらしいが、出版時に「∧」に統一されている。しかし、ここでは適当なフォントがないので、母音に上付きのハイフン「-」を付して表わした。通常のハイフンは原文に従った。日本語への訳は編訳者桑原武夫によるもの。



 MEIDI 42 NEN  1909  APRIL  TOKYO   7th WEDNESDAY
(……)Siyo- koto nasi ni, Ro-ma-ji no Hyo- nado wo tukutte mita. Hyo- no naka kara, toki-doki, Tugaru-no-Umi no kanata ni iru Haha ya Sai no koto ga ukande Yo no Kokoro wo kasumeta. “Haru ga kita, Si-gatu ni natta. Haru! Haru! Hana no saku! To-kyo- e kite mo- iti-nen da!……Ga, Yo wa mada Yo no Kazoku wo yobiyosete yasinau Junbi ga dekinu!” Tika-goro Hi ni nankwai to naku, Yo no kokoro no naka wo atira e yuki, kotira e yuki siteiru Mondai wa kore da……
 Sonnara naze kono Nikki wo Ro-ma-ji de kaku koto ni sitaka? Naze da?  Yo wa Sai wo aisiteru; aisiteru kara koso kono Nikki wo yomase taku nai no da.──Sikasi kore wa Uso da! Aisiteru no mo Jijitu, yomase taku nai no mo Jijitu da ga, kono Hutatu wa kanarazu simo Kwankei site inai.
 Sonnara Yo wa Jakusya ka? Ina. Tumari kore wa Hu-hu-kwankei to yu- matigatta Seido ga aru tame ni okoru no da. Hu-hu! Nan to yu- Baka na Seido daro-! Sonnara do- sureba yoi ka?
 Kanasii koto da!


 (……)しようことなしに、ローマ字の表などをつくってみた。表のなかから、ときどき、ツガルの海のかなたにいる母や妻のことがうかんで 予の心をかすめた。「春がきた。
4月になった。春!春!花もさく! トウキョウへきて もう1年だ!……が、予は まだ 家族をよびよせて養う準備ができぬ!」 近ごろ、日に何回となく、予の心のなかを あちらへ行き、こちらへ行きしてる 問題は これだ……

 そんなら なぜこの日記をローマ字で書くことにしたか? なぜだ? 予は妻を愛してる;愛してるからこそ この日記を読ませたくないのだ。──しかし これはウソだ! 愛してるのも事実、読ませたくないのも事実だが、この二つは必ずしも関係していない。
 そんなら 予は弱者か? いな。つまり これは夫婦関係という まちがった制度があるために起こるのだ。夫婦! なんというバカな制度だろう! そんなら どうすればよいか?
 悲しいことだ!




 啄木の日記は、明治35年(190217歳のときに、北海道から東京へ出てきたときから、27歳で結核と貧困のうちに窮死する直前までの10年間書かれている。そのなかで、明治42年(190947日から616日までの71日分のローマ字部分が出版されている。ここでは露骨な性描写の紹介は避けるが、その一歩手前までの一例を下に示す。



 APRIL
   10th SATURDAY

 Ikura ka no Kane no aru toki, Yo wa nan no tamero- koto naku, Midara na Koe ni mitita, semai, kitanai Mati ni itta. Yo wa Kyonen no Aki kara Ima made ni, oyoso 13-4 kwai mo itta, sosite 10 nin bakari no Inbaihu wo katta. Mitu, Masa, Kiyo, Mine, Tuyu, Hana, Aki……Na wo wasureta no mo aru. Yo no motometa no wa atatakai, massiro na Karada da: Karada mo Kokoro mo torokeru yo- na tanosimi da. Sikasi sorera no Onna wa, ya-ya Tosi no itta no mo, mada 16 gurai no hon no Kodomo na no mo, dore datte nan-byaku nin, nan-zen nin no Otoko to neta no bakari da. Kao ni Tuya ga naku, Hada wa tumetaku arete, Otoko to yu- mono ni wa narekitte iru, nan no Sigeki mo kanjinai.(……)



 
これでは、いくら啄木といえども、内容からして、妻には読まれたくないものである。「予は妻を愛してる;愛してるからこそ この日記を読ませたくない」から、妻が読めないローマ字で書くことにしたというわけである。読まれたくないものだったら心に仕舞って書かねばよかろうと思うが、そこが表現者としての啄木の啄木たる所以であろうし──妙な言い方になるが、誠実さの表れでもあろうか。「啄木の生活の実験の報告だが、同時に、彼の文学の実験であったことはいうまでもない。それが、文学者ということだが、彼は文章の力によって自己を究極まで分析しようとした。そのため、その文体は誠実と同時に緊張を要請され、そこに新しい名文が生まれた」と桑原武夫は解説している。

 いずれにせよ、ローマ字がまだ一般には普及していなかった時代で、ほとんど外国語のような存在だったからこそ、啄木が妻に読まれずに日記を書くことが可能だったにちがいない。ここで詳細には触れないが、啄木のローマ字は、当初日本式ではじまり、その後ヘボン式に変わり、ふたたび日本式に戻っているという。

 啄木は、妻をはじめ家族に背くような行状をつづったこの「ローマ字日記」を、金田一京助に「あなたに遺すから、あなたが見て、わるいと思ったら焚いて下さい。それまででもないと思ったら焚かなくてもいい」と託し、さらに節子夫人は「啄木は焼けと申したんですけれど、私の愛着が結局そうさせませんでした」と殊勝にも日記を残すことに同意している。このようにして、類まれな実験的「ローマ字日記」が後世に伝えられたのである。



   
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K-32


啄木がローマ字で綴った秘密の日記

加 藤 良 一   2011年8月20日