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能面から見えるもの


 


 先日、NHK衛星放送でビートたけしさんが「」を体験する番組「たけし アート☆ビート」が放送されました。
 場所は、渋谷区松濤の観世能楽堂、当日はたけしさん一人のために演目 『羽衣』 が演じられました。案内役を務めたのは、現在の家元、観世流二十六世・観世清和さん。観世流は室町時代の観阿弥世阿弥の流れを汲む最大の流派です。
 『羽衣』の上演後、舞台裏に案内されたたけしさんは、実際に大鼓や小鼓の打ち方を教わりながら能の奥深さに触れていきます。さらに、代々観世家に受け継がれてきた装束や能面、世阿弥直筆の「風姿花伝」などを見せてもらうなど、異例中の異例の待遇を受けました。もちろん、番組で広く能を紹介してもらうことを願っての計らいであったことは当然でしょう。
 たけしさんは以前から能に興味を持っていたそうですから、彼にとってはとても良い機会でしたし、われわれもふだん絶対に観られない本舞台の裏側を垣間見ることができた貴重な番組でした。


◆能は約束事の芸術
 能の世界では、本番前に全体で合せるような練習・リハーサル、いわゆる「申し合わせ」のようなことはしません。
 能の役者は、ワキ方(ワキとワキヅレ)、シテ方(シテとシテヅレ)、狂言方(アイ)の三つの専門に別れていて、基本的に生涯変わることはないといいます。これら登場人物に扮する役を立方(たちかた)といいます。かたや音楽を担う囃子方(はやしかた)には、笛方、小鼓方、大鼓方、太鼓方の四つあります。従って、立方と囃子方併せて七つの部門で構成されていることになります。それぞれはさらにいくつかの流派があり、独自性を持っています。そこで、「観世流シテ方」というように流派を呼ぶわけです。同じ演目でも流派が異なると内容が多少変わることがあるようです。そして、これらの諸流派が一度も事前に合せることなく本番に臨むのです。まさにぶっつけ本番。流派の威信をかけて演じあうのです。


◆一見不合理に見える能面
 能といえば、まず能面です。能面のことは「オモテ」とか「メン」と呼び、まちがっても「オメン」とはいいません。異例なことですが、たけしさんは宗家の計らいで実際に能装束を付け、面を被らせて貰うことができました。たけしさんは、柄になく神妙な顔つきで面を付けてもらいました。
   
 面は貴重なものが多いためか、汚さないために紐を通す穴のところ以外は触れてはいけないとよくいわれています。しかし、たけしさんはあろうことか、それ以外の部分も思いっきり触りまくっていたのでハラハラしましたが、宗家はとくになんとも仰りませんでした、おそらく収録後ていねいに拭き取ったのではないでしょうか。



 面にくり抜かれた目は直径5mmほどの小さな穴です。演者の眼と面の穴とはやや離れていますから、節穴から目を離して覗くのと同じで非常に視界が狭く、さらに左右の穴からは別々の風景しか見えません。また両目の焦点が一緒にはなりませんから、正面が見えないのです。そこで、どちらかの目から柱などを見て自分の立ち位置を確認するしかないのです。写真は、面の内側からカメラで撮影したものです。正面には何も見えず、左右の目からぼんやりと遠景が見えるだけです。右の目から柱の一部が見えています。また宗家が正面に差し出している左手は、たけしさんには見えていません。たけしさんの右にいるカメラマンの一部と、左の一部の景色しかみえないのです。

 面にはさまざまなものがありますが、番組では女性の面を中心に紹介していました。

        
 上の写真左は、泥顔(でいがん)という、嫉妬と怒りに囚われた女性の面、暗い情念というかある種の妖気が漂っています。右はよく知られている般若です。憎しみや怒りが最高潮に達したとき女性はと化します。口は耳まで裂け頭には角が生えてしまいます。しかし、恐ろしさのなかにもよく見ると、どこかに悲しみに溢れた表情も宿していると思いませんか。激しい怒りと振り捨てきれない女性の優しい側面を併せ持つ面です。

 また、面は上下の角度などで表情が変わります。面をやや下に向けることをクモラス(曇ラス)、やや上に向けることをテラス(照ラス)といい、クモラスは、悲しみなどの心情を抑えるとき、テラスは、喜びなど心が晴れやかなときに用いられます。また、面を付けない素顔のことを「直面」(ひためん)と称し、面を付けているときと同じように扱います。顔はそのまま横を向く程度のことはしますが、たけしさんがおどけて「アレー!?」というように首を傾げていましたが、それはギャグになってしまうので絶対にしません。

 


◆能は歩行の芸術 構えと運び
 能は歩行の芸術ともいわれるほど、独特の歩き方をします。能では履物は一切使いません。必ず白足袋です。これは歩行の効果を高めるためといわれています。
 たけしさんは、土踏まずに力を入れて摺り足で歩き、つま先を上げて足を着地するよう指導されたものの、装束で体の自由が利かない上に、面を被って前が見えないことでうまくいきませんでした。大変な力仕事であると感想を述べています。
 歩行は運びとも称されますが、身体全体を腰でまとめ、一枚の重い板を押してゆくように移動します。滑らかで重厚な運びこそ能の演技の核心なのです。ですから、上手の役者が演じれば、顔や手などをまったく動かさずに、能一曲を舞い通すことも可能になるというのです。


◆離見の見

 このように自分の姿が一切見えないのですから、もう一人の自分が外側から客観的に凝視していなければいけないといいます。役者はつねに見られているという意識から離れられないものですが、その見られるという意識、さらにそこに必然的に出てくる見せるという意識、それをいかになくすか。これは能役者の大命題であり続けています。舞台という虚構をいかにして実存の空間に作り変えるか、それにはまず、役者が自身のうちの見せる意識を取り除かねばなりません。
 これを世阿弥は「離見の見」と称しました。これは舞台などで表現する芸術に共通するテーマではないかと思います。

 客が乗っているなと感じてつい高揚し、八足(八歩)歩くべきところを十足も歩いてしまい失敗することもあるといいます。どんなに熱が入っても一歩手前で「引く」ことも重要なのです。役に嵌まり込むことも大切でしょうが、どこかに冷静な目を持っていなければいけないのです。そのためには、面を付けない「」の状態での稽古がたいへん重要であると宗家は力説していました。


◆華麗な能装束
 徳川家康に幕府公認の芸術との恩寵を受けた能は、様式美の追求とともに装束にも贅を尽くしていきました。
 
 観世流には、今から580年ほど前、三世阿弥がときの将軍足利義正より拝領した装束が遺されています。現存する最古の能装束といわれ、トンボの模様があしらわれています。トンボは決して後に下がることがないところから「勝ち虫」と呼ばれ、武士が好んで用いた柄でした。


◆風姿花伝「第六花修」直筆本
 観世流には、世阿弥が秘伝として残した直筆の傳書も遺されています。そこには観世座の頭領としての有るべき姿、理想像について書かれています。

 風姿花伝では、「頭領は技芸の錬磨を極めるのが大事か、あるいは芸は未熟であっても能を知る見識を高めることが大事か」と二つの重要なことが提示されていますが、そのいずれも能にとって欠かすことはできないということを禅的思考で強調しているといいます。そして、終わりに「この条々 志の芸人より他に一目たりとも見せてはならない」門外不出であると締め括っています。
 中身はそれほど秘密にするようなものではないと思いますが、他の流派に負けずに能を深めたいという願望、さらに自分たちに与えられたある種の利権を守ろうとする意識などが働いていたのではないかと、私は推測しますが如何でしょうか。

 

 
関連資料
E-52能と歌舞伎
E-56幽玄なる空間 ─ 動かぬ故に能という

 



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加 藤 良 一   2012年2月21日