E-85

正しく恐れる─見えない放射線

加 藤 良 一

2011.6.28




家屋を流され、避難所暮らしを強いられていた気仙沼の従兄妹家族が、ようやく6月になって隣りの岩手県南部の住宅に引っ越すことができた。ひと安心ではあるが、車に飛び乗って逃げてきたのだから何もない。免許証も持たずに飛び出したのである。これからが正念場であろう。陰ながら応援してゆきたい。

 千年に一度ともいわれるこの度の東日本大震災では、津波だけでなくそれによって引き起こされた原発の破壊が甚大な二次災害を引き起こしている。日本の地震・津波対策がこれほどまでに無力だったとは、今さらながら暗澹たる気持ちになる。

 災害対策は、まず被害の程度を科学的に推定し、それに見合った対策を技術を駆使して実施するものだが、そこには経済性や環境破壊などの制限が付きまとう。また、地震もさることながら津波や火山の爆発などの予報技術はいずれもまだ発展途上で、世界的にも試行錯誤が続けられている。そして、予報というものは、地震・津波対策や避難方法などと一体となって初めて生きてくるものだから、単に科学技術だけで解決できるものではない。
 いま「科学技術」と書いたけれど、「科学」と「技術」は実はそれぞれかなり異なるものなのに、意外とわけて考えないことが多くないだろうか。あらためてすこし考えてみたい。
 科学とは「真理の探究」をするもの。科学の力によって「自然の理」が明らかにされている。科学なくして現代文明はありえないが、しかし、一般に科学者は社会に対してやや「内向き」で、専門家同士で通じ合っている。「社会のための科学」、「社会の声に耳を傾ける科学」を目指すべきことが、今回の大震災であらためてクローズアップされた。
 いっぽう、技術は、科学に基づいてその成果を「社会に実現」するもの。ところが、技術の実現にあたっては、前提として必ずどこかに線を引かねばならない、すなわち条件を決めねばならない。その条件設定が、すなわち今回大問題となった『想定』である。これは「社会の意思決定」であり、リスクとベネフィットとのあいだで判断されるきわめて人間的な問題である。経済性や環境破壊なども考慮し、どこかに「妥協点」を見出すことになる。たとえば、巨大隕石の落下を想定して途方もない規模の対策が取れるだろうか。可能性として残されてはいるが、とりあえず除外するしかないだろう。そんなことを考慮すると、妥協策が最適なものであることなどはありえないということにならないか。

 松浦 原子力安全委員会元委員長は、

福島第一原発の設計にあたり、判断基準が甘かったことは反省しているが、しかし14mを超える津波の高さを想定する根拠がなかった。即ち結果的に想定外ということになってしまった。

と述べた。の発言にもみられるように、想定することの難しさは根拠をどこまで求めるかということである。
 また、山本嘉則氏(東北大学原子分子材料科学機構)は、雑誌「化学」(20115月号)の特集緊急提言 東北地方太平洋沖地震──科学者の立場から』において、「化学技術では想定外のことはカバーできない」と題し、つぎのようなことを述べている。

過去100年以上前からの地震データの蓄積で、宮城県沖では30年程度の周期で地震が起こっており、ここ数年以内に99%の確率で大きな地震が起こることは政府も専門家も警告してきました。現在の科学技術のもてる力で地震を予知し、警告を発信してきたことは素晴らしい進歩だと思います。しかし、これまでのデータの蓄積と経験から、マグニチュード7.88.0レベルの大地震を想定していました。これに基づき、防潮堤も7m前後の津波を前提にして対策を行ってきました。ところが、想定をはるかに超えるマグニチュード9.0の地震の前には、それらの対策はあまりに無力で、今回の惨事を招いてしまいました。9.0が発生するのは1000年に一度の確率だ、などとあとから説明されてもなんの慰めにもなりません。 … 予想は簡単に破られ、想定外のことが起こりうるものであることを痛感しました。人生においても、かなりの頻度で想定外のことが起こります。自然災害から身を守るには、過去の歴史プラス想定外がありうることを常に考えておく必要があります。


いくつかの研究によれば、大昔に今回の津波に匹敵するほどの巨大津波が押し寄せたという歴史的事実も発見されている。その科学的成果を技術として実現するかどうかは、あくまで社会が決めることである。
 原発破壊が今回の被害を大きくし、かつ復興を長期化する原因となってしまったが、「放射能」に対する人びとの反応には首を傾げざるをえない。根拠が希薄で感情的な話しが多すぎると思う。わからないながらも関心を持って、冷静かつ公正に、感情論に走ることのないよう留意すべきである。たしかに、「放射能」は目に見えないし、その理論も簡単には理解できない。
 一般に「放射能を浴びる」とか「放射能汚染」などというが、これは明らかに間違いだ。「放射性物質」と「放射能」と「放射線」は別である。比喩が正しいかどうかわからないが、これを太陽にたとえれば、「放射性物質」 Radioactive materialsは太陽の中身、実質であり、そこに秘められたエネルギーが「放射能」 Radioactivityで、そこから飛び出してくる太陽光が「放射線」 Radiationといってもいいのではないだろうか。これをごちゃまぜにしていては、つぎつぎ出てくる情報を理解するのは難しい。もっとも出てくる情報の曖昧さや、一本化されていないことによる混乱は別の問題として残るが。

 原発を正しく理解しないと、無暗に恐れたり、逆に根拠のない過信が生まれてしまう。どちらも問題である。ノーベル化学賞学者の野依良治氏が、以前テレビで「正しく恐れる」ことの重要さを説いていた。起きている状況を正しく理解し、そのうえで「恐れるべきは正しく恐れる」ことが求められる。

 いま、原発が置かれた状況は極めて厳しい。最後まで何があっても人間がコントロールできるものなのか。原発は、あくまで将来再生可能で安全なエネルギーが開発されるまでの「つなぎ」に過ぎない、いずれは「淘汰」されるとまでいわれている。正しく理解し、いっぽうで現実を踏まえて冷静な判断をしたいものだ。




なんやかやTopへ       Home Pageへ