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 「災害」と聞くと反射的に寺田寅彦災害は忘れた頃にやってくるという警句を思い出します。古くから人口に膾炙(かいしゃ)した言葉ですが、この度の東日本大震災の被害の大きさを見るにつけ、つくづく災害を忘れたことが悔やまれます。
 この警句の意味は、単に油断していてはいけないというようなこととはちょっと違うようです。「災害」の本質は、予測できない時期や頻度および規模で発生することにあるというのです。仮に、毎年定期的に発生する水害があったとしたら、それはおそらく「災害」とはいわず一つの自然現象とみて対策を講じているはずです。たとえば、毎年洪水に見舞われる地域があった場合、水が引いたからといってそこへいきなり家を建てはしないはずです。建てるにしても当然流されてもよいような仮のものに限定するに違いありません。そうすれば流されるのが前提ですから「災害」とはいわないでしょう。

 わたしの従兄家族は気仙沼の海辺に住んでいます。そこはかつて風光明媚な漁業の町でした。従兄家族は現在近くの階上(はしかみ)中学校の体育館と教室にそれぞれ避難していることまではわかっていますが、まだ連絡が取れていません。
 彼らもおそらくは昔の津波の話をいやというほど聞かされて育ってきたのではないかと思います。東京と海なし県埼玉にしか住んだことのないわたしにはよくわかりませんが、彼らも漠然と不安を感じつつも、どこか遠い世界のことのように受け取っていたのでしょうか。あるいは、いつ来るかわからない巨大津波を想定して防潮堤を港に何kmも建設することの経済的な困難さ、すべての税金をそれだけにつぎ込むことなど現実的ではないこと、などなどから一種の諦めのようなものを抱いていたのでしょうか。いいえ、生命財産を諦めるというようなことはおよそ考えられません。むしろ、そこまで思い至らなかっただけなのではないでしょうか。もしそうだとしたら、あまりにも悲しいし、あまりにも甘かったと言わざるをえません。


 今になってこんな言い方をすると、被災地の事情も知らずに好き勝手なことを言うなとお叱りを受けるかもしれません。でも、今回の地震と津波規模に対する想定が小さ過ぎたという話が今頃になってあちこちから出てきているのが実態です。

 今回の地震はマグニチュード9.0と日本の観測史上最大であり、世界的にみても観測史上4番目の規模です。断層が活動した震源地(域)は三陸沖から茨城県沖まで南北500km、東西200kmに及んでいて、海底の最大移動幅は推定で15mを超えるといい、陸上でも宮城県などでは観測点が5m以上も東に移動したといいます。津波は、平野部でも海岸から5kmまで押し寄せ、自治体のハザードマップの津波浸水地域をはるかに越えた浸水を引き起こしています。


 冒頭で紹介した寺田寅彦は、夏目漱石の門下生で、地球物理学者でもありました。寺田寅彦は科学者でありながら、いっぽう吉村冬彦のペンネームで数多くの随筆も書いています。
 寅彦が科学者の視点から書いた随筆『津浪と人間』(1933年(昭和8年)5月)は多くの示唆に富んでいます。災害は忘れた頃にやってくると直接表現しているところはありませんので、寅彦の弟子にあたる中谷宇吉郎が師の考えを彼なりに表現したものという説が有力のようです。一部割愛しながら引用します(すでに著作権は切れています)。漢数字は読みやすさのためアラビア数字としました。


 ○年○月○日の早朝に、東北日本の太平洋岸に津浪が襲来して、沿岸の小都市村落を片端()ぎ倒し洗い流し、そうして多数の人命と多額の財物を奪い去った。△年△月△日の同地方に起ったいわゆる「三陸大津浪」とほぼ同様な自然現象が、約満□年後の今日再び繰返されたのである。


 あえて日時を伏せてみましたが、この文章をそのまま今回の東日本大震災に当て嵌めても通じると思われませんか。実際には、日は昭和833日、日は明治29615日、満年後は満37年後です。そこで、現時点に置き換えてみますと、


 平成23311日の午後に、東北日本の太平洋岸に津浪が襲来して、沿岸の小都市村落を片端から()ぎ倒し洗い流し、そうして多数の人命と多額の財物を奪い去った。昭和833日の同地方に起ったいわゆる「昭和三陸地震津波」とほぼ同様な自然現象が、約78年後の今日再び繰返されたのである。


 まさに地震国日本の宿命かと思われるような状況です。寺田寅彦はさらに続けます。


 こんなに度々繰返される自然現象ならば、当該地方の住民は、とうの昔に何かしら相当な対策を考えてこれに備え、災害を未然に防ぐことが出来ていてもよさそうに思われる。これは、この際誰しもそう思うことであろうが、それが実際はなかなかそうならないというのがこの人間界の人間的自然現象であるように見える。
 学者の立場からは通例次のように云われるらしい。「この地方に数年あるいは数十年ごとに津浪の起るのは既定の事実である。それだのにこれに備うる事もせず、また強い地震の後には津浪の来る恐れがあるというくらいの見やすい道理もわきまえずに、うかうかしているというのはそもそも不用意千万なことである。」
 しかしまた罹災者の側に云わせれば、また次のような申し分がある。「それほど分かっている事なら、何故津浪の前に間に合うように警告を与えてくれないのか。正確な時日に予報出来ないまでも、もうそろそろ危ないと思ったら、もう少し前にそう云ってくれてもいいではないか、今まで黙っていて、災害のあった後に急にそんなことを云うのはひどい。」
 すると、学者の方では「それはもう十年も二十年も前にとうに警告を与えてあるのに、それに注意しないからいけない」という。するとまた、罹災民は「二十年も前のことなどこのせち辛い世の中でとても覚えてはいられない」という。これはどちらの云い分にも道理がある。つまり、これが人間界の「現象」なのである。


 自然然現象に対抗しようにも“人間的自然現象”が力不足では、しょせん災害を防ぎきれません。最低限の生命線としては、津波から命が助かるだけではだめで、その後安心して日々の暮らしを営める状況を維持できるものでなければならないのは当然ですから、ハードルはかなり高いといわざるをえません。


 37年と云えば大して長くも聞こえないが、日数にすれば13505日である。その間に朝日夕日は13505回ずつ平和な浜辺の平均水準線に近い波打際を照らすのである。津浪に懲りて、はじめは高い処だけに住居を移していても、5年たち、10年たち、1520年とたつ間には、やはりいつともなく低い処を求めて人口は移って行くであろう。そうして運命の1万数千日の終りの日が忍びやかに近づくのである。鉄砲の音に驚いて立った海猫が、いつの間にかまた寄って来るのと本質的の区別はないのである。
 これが、2年、3年、あるいは5年に1回はきっと10数メートルの高波が襲って来るのであったら、津浪はもう天変でも地異でもなくなるであろう。


 「鉄砲の音に驚いて立った海猫が、いつの間にかまた寄って来るのと本質的の区別はない」とまで突き放されてしまうと、たしかにそうです、そうではあるのだけれど、ではどこに行けばよいのか、この土地を置いて他に頼る土地もないとなれば、もう選択肢がないという諦めとともに、いっぽうで、そう簡単に巨大津波など来るはずがない、現にいままで何度「狼少年」に騙されてきたことかという根拠のない過信が頭を(もた)げてくるのも人間の弱さです。
 地震や津波予報に対しては、この際「狼少年」を許さなければなりません。むしろ「来なくてよかった」と受け取るほうがよいのです。それほど、予報技術は進んでいないのです。天気予報と違って空から簡単に見えはしないのですから。



 風雪というものを知らない国があったとする、年中気温が摂氏25度を下がる事がなかったとする。それがおおよそ100年に一遍くらい吹雪があったとすると、それはその国には非常な天災であって、この災害はおそらく我邦の津浪に劣らぬものとなるであろう。何故かと云えば、風のない国の家屋は大抵少しの風にも吹き飛ばされるように出来ているであろうし、冬の用意のない国の人は、雪が降れば(こご)えるに相違ないからである。それほど極端な場合を考えなくてもよい。いわゆる颱風(たいふう)なるものが3050年、すなわち日本家屋の保存期限と同じ程度の年数をへだてて襲来するのだったら結果は同様であろう。

 夜というものが24時間ごとに繰返されるからよいが、約50年に一度、しかも不定期に突然に夜が廻り合せてくるのであったら、その時に如何なる事柄が起るであろうか。おそらく名状の出来ない混乱が生じるであろう。そうしてやはり人命財産の著しい損失が起らないとは限らない。


 「災害」は想定していなかったから「災害」なのでしょう。忘れていたから「災害」なのでしょう。もし想定できたとしても、じゅうぶんな対策を講じなかったり、忘れていたのなら、けっきょくはなかったのと同じことです。


 災害記念碑を立てて永久的警告を残してはどうかという説もあるであろう。しかし、はじめは人目に付きやすい処に立ててあるのが、道路改修、市区改正等の行われる度にあちらこちらと移されて、おしまいにはどこの山蔭の竹藪の中に埋もれないとも限らない。そういう時に若干の老人が昔の例を引いてやかましく云っても、例えば「市会議員」などというようなものは、そんなことは相手にしないであろう。そうしてその碑石が八重葎(やえむぐら)に埋もれた頃に、時分はよしと次の津浪がそろそろ準備されるであろう。

注)やえむぐら【八重葎】:雑草が幾重にも生い茂っているくさむら。

 災害の「記録」や「記憶」を残すのがいかに困難なことか。たとえ古人が後世のために書き記したり、言い伝えたりしたとしても、古くなればどんどん現実性が薄れ、いつの間にか風化することは目に見えています。進歩した今の科学技術をもってすれば、少々の津波など問題にならないと考える人々が出て来てもおかしくはないのです。


 しかし困ったことには「自然」は過去の習慣に忠実である。地震や津浪は新思想の流行などには委細かまわず、頑固に、保守的に執念深くやって来るのである。紀元前20世紀にあったことが紀元20世紀にも全く同じように行われるのである。科学の方則とは畢竟(ひっきょう)「自然の記憶の覚え書き」である。自然ほど伝統に忠実なものはないのである。
 それだからこそ、20世紀の文明という空虚な名をたのんで、安政の昔の経験を馬鹿にした東京は大正12年の地震で焼払われたのである。
 こういう災害を防ぐには、人間の寿命を十倍か百倍に延ばすか、ただしは地震津浪の週期を十分の一か百分の一に縮めるかすればよい。そうすれば災害はもはや災害でなく五風十雨の亜類となってしまうであろう。しかしそれが出来ない相談であるとすれば、残る唯一の方法は人間がもう少し過去の記録を忘れないように努力するより外はないであろう。


 「過去の記録を忘れない」ことは極めて重要なことですし、そのためには、忘れないうちに「過去の災害」に対して完全に太刀打ちできる防御策を講じればよいはずです。しかし、そうはいいながら、過去に経験したことのないような規模の災害が来ないと果たして誰が断言できるのでしょうか。たとえば、これでもかというほど現実を無視して想定値を拡大し、巨大隕石が地球に衝突するケースまで想定しなければならないとしたら、それはもう人智を超えてしまいます。当然、経済的技術的にも対応不能となるでしょう。


 科学が今日のように発達したのは過去の伝統の基礎の上に時代時代の経験を丹念に克明に築き上げた結果である。それだからこそ、颱風が吹いても地震が(ゆす)ってもびくとも動かぬ殿堂が出来たのである。二千年の歴史によって代表された経験的基礎を無視して他所(よそ)から借り集めた風土に合わぬ材料で建てた仮小屋のような新しい哲学などはよくよく吟味しないと甚だ危ないものである。それにもかかわらず、うかうかとそういうものに頼って脚下の安全なものを棄てようとする、それと同じ心理が、正しく地震や津浪の災害を招致する、というよりはむしろ、地震や津浪から災害を製造する原動力になるのである。


 「他所から借り集めた風土に合わぬ材料で建てた仮小屋のような新しい哲学」が何を指すか判然としませんが、寅彦の時代ですからまさか原子力発電所であるはずはないと思います。


 津浪の恐れのあるのは三陸沿岸だけとは限らない、寛永安政の場合のように、太平洋沿岸の各地を襲うような大がかりなものが、いつかはまた繰返されるであろう。その時にはまた日本の多くの大都市が大規模な地震の活動によって将棋倒しに倒される「非常時」が到来するはずである。それはいつだかは分からないが、来ることは来るというだけは確かである。今からその時に備えるのが、何よりも肝要である。
 それだから、今度の三陸の津浪は、日本全国民にとっても人ごとではないのである。
 しかし、少数の学者や自分のような苦労症の人間がいくら骨を折って警告を与えてみたところで、国民一般も政府の当局者も決して問題にはしない、というのが、一つの事実であり、これが人間界の自然方則であるように見える。自然の方則は人間の力で()げられない。この点では人間も昆虫も全く同じ境界(きょうがい)にある。それで吾々も昆虫と同様明日の事など心配せずに、その日その日を享楽して行って、一朝天災に襲われれば綺麗にあきらめる。そうして滅亡するか復興するかはただその時の偶然の運命に任せるということにする外はないと()(ばち)の哲学も可能である。


 「非常時」は「いつだかは分からないが、来ることは来るというだけは確か」なのです。われわれは「一朝天災に襲われれば綺麗にあきらめる」という哲学に委ねるわけにはいかないのです。


(追記) 三陸災害地を視察して帰った人の話を聞いた。ある地方では明治29年の災害記念碑を建てたが、それが今では二つに折れて倒れたままになってころがっており、碑文などは全く読めないそうである。またある地方では同様な碑を、山腹道路の傍で通行人の最もよく眼につく処に建てておいたが、その後新道が別に出来たために記念碑のある旧道は(さび)れてしまっているそうである。それからもう一つ意外な話は、地震があってから津浪の到着するまでに通例数十分かかるという平凡な科学的事実を知っている人が彼地方に非常に稀だということである。前の津浪に遭った人でも大抵そんなことは知らないそうである。


 『津波』(1997年 あゆみ出版)の著者山下文男さんによれば、津波の事実や経験を後世まで伝えるのは至難の業であるといいます。山下さんは、岩手県三陸町(旧綾里村)の漁師の家に生まれました。『津波』は奇しくも91日の防災の日に出版されています。出版の前年1996年は、明治三陸地震津波>が発生してからちょうど百周年の年に当たっていました。百年もの歳月が流れるあいだに津波の怖さが風化し、いつの間にか津波があったことすら知る人が少なくなってしまったことに対する危機感が出版に踏み切らせたといいます。

 明治三陸地震津波>は、1896年(明治29年)615日、三陸沖を震源として発生、マグニチュード8.5でしたが、三陸沿岸では震度2~3で大した震害はありませんでした。しかし、その後北海道から牡鹿半島にかけて巨大な津波が押し寄せ、死者約22千人、家屋の流失・全壊・半壊1万以上、船舶被害7千、津波の高さは綾里で国内史上最高の38.2mを記録し、津波はハワイやカリフォルニア沿岸まで到達しました。山下さんの家でも、祖母はじめ一族9人を失ったといいます。

 三陸海岸で防波堤や防潮堤の建設が始まったのは、1933年(昭和8年)、昭和三陸地震津波>のあとからです。とはいっても、実際には、岩手県田老村(現田老町)で明治三陸地震津波>以来の念願であった防潮堤の建設に着工しただけでした。ほかは、港や漁港の護岸工事をしたり、補強するくらいだったそうです。当時の経済状態あるいは人々の関心のレベルではそれが精一杯のところだったようです。

 それが今日では、三陸の多くの海岸線で防潮堤が建設され、コンクリートの城壁で囲まれたようになっています。さらには波の勢いを少しでも減らすために、湾の入り口に巨大な津波防波堤が二重三重に造られているところもあります。しかし、これらの工事に対する住民の思いは複雑だったようです。これで津波が来ても大丈夫と思う反面、多額の公共投資、ふるさとの自然破壊や環境破壊に疑問を呈する人々もいたといいます。

 田老町の防潮堤は、高さ10m、総延長2.5km、「万里の長城」とも呼ばれるほどのものですが、これは昭和三陸地震津波>の高さを基準にしたものであり、その前の明治三陸地震津波>では15mまで達していますし、さらに遡って慶長時代には20mが記録されているのです。しかし、いくら津波の可能性があるとはいえ、現実にはむやみに高いものを造ることはできないでしょう。その結果、今回の大津波では大きな被害を受けてしまったわけです。

 われわれは、これからどのような道を歩むべきなのでしょうか。復興するにしても、一から町を造り出すわけですから、しっかりしたグランドデザインが求められます。また、人々の意識がどう変わるかも重要なポイントになるのではないでしょうか。






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災害忘れた頃にやってくる”から災害なのか

加 藤 良 一     2011年4月10日