無実の罪を着せられる冤罪ほど人の一生を狂わすものはない。冤罪で記憶に新しいのが
「足利事件」である。この事件は、19905月、栃木県足利市のパチンコ店駐車場で4歳の女児が行方不明となり、翌朝、近くの渡良瀬川の河川敷で遺体となって発見された痛ましい犯罪である。
 捜査の結果、菅家利和さんが犯人とされ、無期懲役刑で服役した。しかし、事件発生から19年も経過した20095月、遺留物のDNA型が菅家さんのものと一致しないことが再鑑定で判明。即時釈放、その後の再審で無罪が確定した。まさに冤罪であった。
(冤罪とは法的な概念ではなく、法律用語としては誤判や誤審が用いられるという。)

 菅家さんは、なぜ自分でやってもいないことをさもやったかのように「自白」してしまったのか、なぜそのようなことが起きるのか。このような例は他にも枚挙に暇がない。自白を強要する取調べ方法がたびたび問題視され、取調べ現場を可視化しようとの議論も進んでいるが、私のような部外者には相変わらず実感が湧きにくいし、真相が見えてこない。
 ところで、私がもっとも気になるのは「やっていない」犯罪をどうして「やった」と言ってしまうのかという点である。人は極限状況に追い込まれると果たしてどうなってしまうのか。その場から逃れたい一心から、心にもないことをほんとうに認めてしまうのであろうか。一時的にその場から逃れることはできても、その結果、死刑や無期懲役などの重罪判決という大きな代償を払わねばならないにも係らずである。

 ここで視点を変えて、「虚偽自白」がなぜ生まれるのか、その背景を犯罪の取調室ではなく世間一般の『不正調査』といわれるものからみてみよう。『不正調査』とは文字通り不正を調べることである。
 官民問わず組織体で発生する不正にはさまざまなものがある。例えば、はじめは単なるミス(過失)であったものが、その失態を隠蔽してしまうと今度は単なるミスではなく犯罪となってしまう。しかし過失のようなケースでは、隠す準備をしていないから証拠を集めることでほとんど解決できるが、問題なのは最初から意図して悪事を働こうとするケースである。当然、いろいろと巧妙な工作が施されていることが多く、さらに複数の関係者が示し合わせていたりすると調査は困難を極める。とくに組織のトップが絡んでいるとそう簡単にはわからない。

 『不正調査』の中心は被疑者などへの「面接調査」であるが、そもそも面接そのものが、実は非日常的なコミュニケーションであるところに難しさがある。なぜなら、日常では相手を信用して掛るのがふつうなのに対し、『不正調査』の目的で行なう面接では<疑う>ことが前提だからである。また、被面接者は、相手つまり調査者に迎合したり、場合によっては早くその場から逃れたいと思い、心にないことを言ってしまう危険性もある。そうなると、真の原因究明は覚束なくなってしまう。
 「面接調査」は、その効果とリスクのバランスの上に成り立っているといわれる。リスクには大きく分けて記憶の変容」、「ウソの見過ごし」、「虚偽自白」がある。「足利事件」でもこの3つのリスクが大きく係わったことはまちがいないだろう。

 「面接調査」では「過去に起こったこと」について質問されるが、ここに大きな落とし穴がある。「過去に起こったこと」とは、つまり「記憶」として持っているものである。ところが「記憶」はさまざまな要因が絡んで通常考えられるよりも容易に変容するといわれている。とくに細部の記憶が変容しやすい。記憶の変容に影響を及ぼすものには次のようなものがある。

〔知識の影響〕記憶が薄れる・推理して穴埋めしてしまう
〔記録の影響〕他の情報に影響される
〔他者の影響〕面接者の不適切な質問でウソをつく意図がないにも係らず不正確な情報が生まれてしまう
 とくに〔他者の影響〕としては、面接者の推測や思い込み、こうあるはずだと思う方向に被面接者をむりやり連れていってしまう危険がある。


 1970年代にワシントン大学の心理学者、エリザベス・ロフタス教授が行った次のような面白い実験がある。
・被験者100名に2台の車がぶつかる映像を見せる。
・半数の50名に「2台の車がぶつかったときのスピードは何マイルだったか?」(中立的質問)と聞くと、ほぼ「遅く」なる傾向がある。
・残りの50人に「2台の車が激突したときのスピードは何マイルだったか?」と聞くと、大体「速く」なる。
1週間後、100名全員に対して、実際は割れていないのに「あなたはガラスの破片を見ましたか?」と聞く(すでに破片があったことを暗示している)と、「激突した」と質問された人の7人(14%)は「ガラスの破片を見た」と答えている。
 つまり、質問方法により記憶の変容が大きくなることが証明されたというわけである。


質問方法

ガラスを見た

ガラスを見ていない

ぶつかった

7人14%

43

50

激突した

16人32%

34

50

「激突」という強い表現が、より多くの「偽記憶」false memoryを生み出したのである。これは「事後情報効果」といわれるやっかいな問題で、目撃情報の取り扱いには大いに注意しなければならないことがわかる。

 ロフタス教授は他にも多くの実験を行って、如何に記憶というものが不確実であるかを証明している。記憶が単に思い出せないなら大きな問題はない。しかし、先ほどの実験結果にも現れているように、事実と異なる情報が思い出されてしまうことが大問題なのである。すなわち、本人には間違っているという自覚がまったくないところが怖いのである。「記憶は作られる」ことを証明するもうひとつのエピソードを紹介しよう。

心理学者ジャン・ピアジェの話である。それは、ジャンが2歳ぐらいのときに起こった事件に関する記憶である。そのことは15歳になるまで本当にあった出来事と信じていたもので、大人になった時点でも明瞭にその場面を思い出すことができたという。

ジャンは、乳母が押す乳母車に乗せられてシャンゼリゼ通りにいた。そこへ男が現れ危うく誘拐されそうになったが、勇敢な乳母が身を挺して守ってくれた。乳母は男と争った際に顔にすこし傷を負った。そのうち警官が駆け付けると男は慌てて逃げ去った。ジャンの両親は助けてくれたお礼にと乳母に時計をあげた。ところが、ジャンが15歳になったとき、その乳母からじつは誘拐事件はウソだった、たいへん申し訳ないことをしてしまった、褒美に貰った時計を返したいという手紙が届いた。乳母は顔に傷を作ってまで誘拐事件をでっち上げたのだった。
 このように、両親は頭っから乳母を信じ切っていたため、何度も聞かされたこのウソが、ジャンには実際に経験したものとして記憶されてしまったわけである。つまり、他人から聞いた話であっても状況によっては、実際に「経験したこと」として記憶されてしまうのである。

ここまでは、記憶は変容するということと、事実ではない記憶も作られるという不確実性について述べたが、つぎに菅家さんもそうであったように、なぜ潔白な人でも虚偽自白」をしてしまうのかという問題を考えてみたい。

 虚偽自白」の原因には、ヤクザなどにみられる「身代わり型」、ある種の病気である「思い込み型」、面接環境や面接方法によって自白に追い込まれる「悲しいウソ型」の3つの類型がある。
 意外にも「悲しいウソ型」は、一般に考えられている以上に容易に発生するものらしい。このような虚偽自白」は、人間の正常な適応反応の一種と考えられている。犯人と疑われた人が取りうる態度であり、このリスクを十分に認識していなければならない。
 菅家さんの虚偽自白の場合は、これまで述べたこととは異なる背景があった可能性もあるだろうか。執拗な尋問によって、いわゆる「落ちた」結果出てきた自白だろうが、その裏には本人の中でも、もしかしたら自分がやったのかも知れないと「思い込ん」でいったというのだろうか。



 2010 6NHKの爆笑問題ニッポンの教養「記憶にほえろ!」という番組で青山学院大学の高木光太郎教授が登場した。
 私はたまたまその直前に、高木教授の『不正調査』に関するセミナーを受けていたので、番組の内容がよくわかりとても面白かった。高木教授の専門は法心理学。「足利事件」について10年以上も前から冤罪の可能性を指摘し続けていた方である。取調室や裁判所で揺れ動く人間心理を見つめてきた第一人者の講義は、さすがに経験に裏打ちされていて興味深く聴くことができた。

 番組は爆笑問題の二人が大学の教授室を訪ねるところから始まった。ところが、教授室には高木教授はおらず別の人物がいたので、おかしいなと思いながら見ているうちに、私はその意図にすぐ気が付いた。当のお二人はそうとは知らずひととおり挨拶を済ませ、いよいよ本題に入ろうかというところで本物の高木教授が現れるという仕組みである。
 爆笑問題の二人は、先ほどの偽教授の姿かたちや服装などについて質問を受けたが、二人の記憶はまさかのように食い違ってしまった。今さっき見たばかりの光景でさえ、二人の記憶はなぜこうも食い違うのか、記憶とは信じるに足るものなのか、このややショッキングな経験をさせて番組は始められた。その後、高木教授が担当してきた多くの事件や、海外の事例などを紹介しながら、記憶の驚くべき本質、人間のコミュニケーションの問題について議論を展開した。

 高木教授は、記憶とは時とともに変容するワインのようなものと例える。ワインは、ワインとしてはずっと同じだが、中身は徐々に熟成して変わってゆくもの。記憶は事実と合わないことがあるし、ときに記憶はウソをつき事実を裏切る、記憶は無意識に転位するという。

 菅家さんは、連日続くお先真っ暗な追い詰められた取り調べに対し、この目の前の危機から早く脱出したいと切ない願いを抱いている状況で、果たしてそれでもやっていないと言い続けられただろうか。
 高木教授は、取り調べや裁判には当事者目線が欠けている、「噛み合わなさの塊り」と警鐘を鳴らしている。







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冤 罪

人はなぜやっていないことを「自白」してしまうのか?

加 藤 良 一   2011年1月29日