加 藤 良 一 2002年11月17日
日経の戦後残照というコラム欄に文芸評論家の秋山駿氏が「小林秀雄のエッセイ」と題する小文を書いていた。エッセイとは何かを考えるうえで、とても参考になった。
秋山氏は、新編集の小林秀雄全集が刊行されたこともあって、女子大の大学院生用テキストに『無常という事』を使い、読んだ感想を短いエッセイにして発表するよう指導したところ、笑うに笑えぬ答えがいくつかあったという。
たとえば「この小林の短編小説『無常という事』は…」、「この小林の随筆『西行』は…」などと書かれて思わず笑い出したそうだ。しかし、日がたつにつれ一概に笑えぬと思うようにもなった。小林はあんがい批評文である『無常という事』を短編小説を書くように書いたかもしれないし、『西行』は批評とかエッセイと言って欲しかったが随筆でもまちがっているわけではない。
ポエムに詩、ノベルに小説、ドラマに劇という言葉を与えてきたのに、エッセイだけはカタカナのままに残ったと萩原朔太郎が、その昔指摘したそうである。
秋山氏は、エッセイと随筆は別のものと主張する立場に立っている。その根拠は、エッセイは書く人の仕事の核心にある知性の軸から人間や人生に触れて語るものだから、知的なひとつの主題が欠かせない、これに反し随筆は、人間・人生・生活・日常について、書こうと思ったときのその心持ちで書けばいいもの、との区別によるらしい。
下に書いたモンテーニュのいうエッセイのあり方とくらべてみるのも面白いだろう。エッセイも内容によって大きく二分されるかもしれないなどと考えはじめた。