E-107

目 黒 は 坂 の ま ち









 JR目黒駅前から西の方向、世田谷に向かって枝分かれするように二つの下り坂がある。
 ひとつは道幅が広い権之助坂で目黒通りとなっている。もうひとつは、権之助坂の少し南側を並行して急勾配で下って行く行人坂である。この坂のあたりは下目黒一丁目で、私が生まれ育った家は坂を下りきって目黒川を越したところの下目黒二丁目にあった。
 子どものころの記憶として残っていた権之助坂は見上げるように大きくて長い坂だった。今見てもそこそこの勾配があるから、私の記憶が子ども目線だったともいえないだろう。権之助坂を下り、目黒川に架かる目黒新橋を渡ってすぐの右手引っ込んだところに私の母校下目黒小学校がある。
 行人坂を下って目黒川に架かる橋は太鼓橋である。なぜ太鼓橋なのかは、広重の江戸名所百景「太鼓橋」に描かれているように、そもそもは石造りの太鼓に似た形をしていたことに由来している。しかし、大正時代に豪雨の増水で流され、現在の平らな橋と変わってしまった。

 

 
 その昔、行人坂がいかに急な坂か思い知ったことがある。それはまだ小学生の頃だった。父は親類とともに小さいながら運送屋をやっていた。中型のトラックを何台か抱えて、恵比寿あたりの食品問屋などの配送を請け負っていた。従業員も多いときには10人近くいたろうか。

 あるとき、若手の気のいい運転手Nさんに誘われてトラックの助手席に乗せてもらった。どこかへ荷物を運ぶついでだったと思う。目黒雅叙園(当時は昔ながらの和風建築が敷地内に点在するような佇まいだった)の前から勢いをつけて行人坂を上って行ったが、坂の途中で左手路地から乗用車がいきなり右折してきた。慌てたNさんはすぐに急ブレーキをかけた。
「上り優先だろうが! まったくしょうがねえな
といいながら、発進しようとアクセルを踏み込んだものの、昔のトラックは如何にもパワーがなかった。エンジンは唸るのに車体はなかなか前へ進まない。サイドブレーキを引いたり離したりしながら必死にアクセルを踏み込んでいた。本当に上れるのかとハラハラしながら見ていたが、それでもなんとか坂上までたどり着いたときにはホッとしたものだった。そのとき以来、坂や階段は「上り優先」という感覚が身についてしまった。行人坂は今では上りの一方通行となっている。

 権之助坂という名前の由来は、元禄時代、人びとがあまりにも急峻な行人坂に苦労するのを見かねた菅沼権之助が、もっと緩やかな坂をと開いたというが、ほかにも説があるらしい。
 権之助坂には小学校時代に教師から聞いた面白い話がある。権之助坂を木炭バスが一気には上れなかったというのだ。戦前か戦後か知らないが、昔の木炭バスはパワーがないから坂を上れず、乗客が降りてみんなで押して上ったものらしい。木炭で走るバスなど想像も付かなかったが、なんだかのどかな風景が目に浮かんだものだ。

 ところで、目黒駅の住所は目黒区ではなく品川区上大崎にあることはよく知られている。品川駅が品川区ではなく港区にあったりするのと同じだ。
 目黒駅は、明治18年(1885)、目白駅と同じ日に開業しているが、駅構内が道路からずいぶん低い位置にある。私の子ども時分には芝白金側、つまり山手線の内側にしか改札口がなかった。そこから渡り廊下を通ってホームに降りていた。ずいぶん谷のように低いところに線路があるが、じつは芝白金台地を掘り崩して切り通しにしたものだったのを後になって知った。わざわざ台地を切り崩してまで線路を敷いたのは「目黒駅追い上げ事件」という妙な出来事が絡んでいたという説があるが、何も記録がないため作り話ではないかなどともいわれている。

 明治14年(1881)発行の「東京高崎間鉄道路線図」では、品川ステーションから目黒川の西側を通って渋谷、新宿方面へ至るルートが赤い線で記され、1マイルごとに区切り線が入っている。青い線が目黒川。目黒不動尊の近くの平坦な場所を通っているから妥当な計画に見える。品川からちょうど3マイルの目黒不動尊あたりに駅を作るようにも書かれている。

 

 
<図をクリックすると拡大>

 
 ところが、この計画を知った農民が、蒸気機関車の煤煙で農作物がやられるとか、宿場町が廃れるなどの理由で反対運動を起こし、現在の品川区上大崎の高台まで追い上げたと言い伝えられている。しかしながら、この事件に関する資料は残されていない。真偽のほどは定かではないものの、当初の予定地から変わったことだけはまちがいないだろう。

 

2016年5月23日



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