世界に誇る二本脚の騎馬像

【最上義光公:山形】




加 藤 良 一




 歌人斎藤茂吉の歌に蔵王山を題材にしたつぎのようなものがあります。

    陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ

 陸奥はみちのくと読みます。この歌は、結句の 「雲の中に立つ」 のは果たして蔵王山かそれとも作者自身かと意見が分かれ、難解な歌とされているようです。しかし、それは専門家にお任せし、とりあえず蔵王山の麓に広がる山形市に目を移します。

 山形市の歴史は古墳時代にまで遡るようです。1356年(延文元年)、斯波兼頼が羽州探題として山形に入部。子孫が地域の名をとって最上氏を名乗るようになり、11代目当主の 「最上義光(よしあき)」 が山形を拠点に最上、村山地方を統一、現在の基礎となる山形城と城下町の町割を整備しました。廃藩置県後は、村山郡山形が山形県の県庁所在地となり、その後、複数の県の統合を経て、現在の山形市が県庁所在地となりました。

 最上義光が築城を手掛けた山形城は、別名霞城(かすみじょう)あるいは霞ヶ城(かすみがじょう)と呼ばれていました。その城跡は現在霞城(かじょう)公園として整備され、中心に最上義光の騎馬像が建っています。


      


 この騎馬像は、上杉景勝の重臣直江山城守が攻めてきた際、義光自らが陣頭指揮をとっている勇姿を再現したものということですが、じつは世界的にみても珍しい 「完全に二本脚で立っている」 像なのです。重さは3トンもありますが、先の東日本大地震を受けてもビクともしませんでした。

 多くの像は、二本の前脚を高く上げてはいても、後ろ脚の傍に大きな岩を配置してそこで重量を分散させたり、あるいは尻尾を地面につけて支えたりと、とにかく二点ではなく三点以上で支えているのです。

 この像は、山形に本社がある株式会社でん六の創業者、故鈴木傳六さんが寄贈したもので、躍動感を出すため、とにかく 「二本脚で立つ」 ことに情熱を傾けたそうです。さらに勇壮さを表現するために 「時代考証に捉われない鎧兜姿」 を求めました。このあたりの発想は、歴史研究者などから反感を買う恐れもあったでしょうが、造るからにはインパクトがあり、郷土の人びとに愛でられるものにしたいという思いが勝っていました。

 果たして3トンもある大きな銅像がたったの二点で支えられるのでしょうか。強度計算をした設計事務所の結論は 「無理」 というものでした。しかし、諦めきれない傳六さんは、山形市内の鋳物工場になんとか造れないかと依頼しました。二本脚の騎馬像は国内には前例がなくほとんど無理といわれても、外国に目をやれば数は少ないものの実例があるのだから出来ないはずはない、と最後まで押し通したそうです。

 その熱い思いに共感した職人たちが発奮し、独自の構造計算により、鉄骨の選択や支柱の折り曲げ角度などさまざまな課題を克服して完成に至ったのです。その時の取り組み状況が、
昭和531117日(1978)付けの山形新聞に「重さ3トン支える2本足」として紹介されました。(クリックすると拡大します)


   


 たとえば、ウィーンのホフブルク宮殿前の英雄広場に立つ、カール大公の騎馬像は前脚を振り上げ、尻尾も宙に浮いています。まさに二本の後ろ脚だけでその重量を支えているのです。造られた当時、勇ましくてかっこはよいが、相当不安定ではないかとの噂が立ったそうです。そんなことから、制作者は、騎馬像が突然崩れ落ちるという悪夢に悩まされ続け、とうとう精神に異常をきたしてしまい、その後、精神病院で亡くなったといいます。この彫刻家はじつに哀れな生涯を過ごしたものです。そんな心配をよそに、カール大公の騎馬像は今でも立派に立ち続けているのです。




みごとに二本脚で立つカール大公騎馬像



 ロシアのサンクトペテルブルクにあるピョートル大帝の騎馬像『青銅の騎士』は、後ろ脚日本と尻尾の三点で支えています。



後ろ脚二本と尻尾の三点で支える『青銅の騎士』



 最上義光の騎馬像は、このように日本を代表するほどの銅像なのですが、思いのほか県民のみなさんはそのことを知らないというのです。灯台もと暗し…ですね。そんなことですから県外の人が知るよしもありません。

 伊達政宗の伯父に当たる最上義光とその妹で政宗の実母でもある義姫が、政宗毒殺を試みたとして、戦国一の「邪悪者」として伊達家の記録には残されているといいます。しかし、最近の調査で見つかった新しい史料により毒殺未遂は史実ではなかったことが明らかになったのです。このあたりの事情を201611月放映のNHK歴史秘話ヒストリア」が分かりやすく紹介していました。長年にわたって着せられていた義光の汚名はこれでようやく拭われることになりました。
 実際には、むしろ時の権力者から翻弄されながらも、兄義光の武勇と妹義姫の機転で故郷山形を守り抜く姿が浮き彫りにされてきたのです。


 鈴木傳六さんは、ほかにも山寺の「芭蕉像」 、羽黒山出羽三山神社の「芭蕉像」、千歳山公園の「安全地蔵尊」、山形県営体育館のレリーフ「天翔ける」 、黒沢温泉「やすらぎ観音」、北海道別海町の「北方四島返還 叫びの像」などなど、山形市内を中心に数多くの銅像群を寄贈しています。


 傳六さんが私財を投げ打って情熱を注いだ銅像は、今では観光名所として訪れる人々を楽しませてくれています。山形の人はもっと誇りに思っていいのではありませんか。

 


株式会社でん六創業者 故・鈴木傳六さん

 

                     (銅像の制作過程が紹介されているホームーページ ⇒  )

 


(2017年1月23日追記)
2015年12月5日



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