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戦後70年の節目に ~東京ぶらりひとり歩き


 

当初、20151018日に都内で行われるイベントに出演の予定が、都合により中止になりましたので、気持ちを切り替えて、購入済みの搭乗券をキャンセルせずに、「戦後70年の節目」 として、急きょ17日(土)~19日(月)の3日間、都内を23ヶ所 「ぶらりひとり歩き」 してみました。持病に加えて偏平足の身は歩くのに疲れが倍増します。

1017(土)
代田2丁目(世田谷区)
 私の今がある原点は世田谷区代田2丁目です。その地に生を受け昭和19年敗色濃厚の戦時下を、父は赤紙で沖縄へ、母子3人で宮崎へ疎開する前の幼少時期の5年間を過ごしました。
 当時この界隈は、幼児の印象として無数の蟻が穴を出入りするなど、ひなびた土の臭いのするところでしたが、「10年ひと昔×7倍」 の今や、代田2丁目周辺は 「環七通り」 として、かつての面影は全くありません。

サリドマイド福祉センター 「いしずえ」(目黒区)
 今から34年前に制作されたドキュメンタリー的な映画 「典子は 今」 や、9年前に書籍化されて出版された「典子44歳 今、伝えたい」 の鮮烈な印象は記憶に新しい。この財団法人はこぢんまりとした個人の私宅を事務所にして活動しており、目立った表示もないため、通り過ぎて探すのに少々時間がかかりました。

 昭和33年以降、製薬会社5社が発売したサリドマイド剤により、サリドマイド胎芽病という手、耳、内臓などに先天性の障害を受けた子供たちが多数出生しました。その被害者数は7年間で309人。被害者の諸問題解決と救済のため財団法人として少ない職員で地道な活動を進めています。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑(千代田区)
 毎年2月の 「国技館5000人第九」 へ参加時に、決まって訪れる千鳥ヶ淵。「一億総動員」 「一億火の玉」の大号令のもと、今にして思えば、あの全く無謀で悲惨な戦いにより、無残にも非業な最期を遂げ、今も南海に眠るであろう従兄と義父を偲んで白菊と黄菊を献花。

 「敗戦」 という余りにも大きすぎる代償を支払ったあの貴重な経験を糧に、戦後70年の今、戦争体験者が高齢化し減少する中、そして戦争を知らない世代が国の舵を取る昨今、これから先、日本はどの道を歩くのであろうか。閑静な苑内でしばし瞑想。

知人と歓談(新宿区)
 夕方、千葉に在住する知人(作家)とふたり新宿でタウンミーティングのあと、「歌声喫茶 ともしび」 で夜の10時半まで過ごしました。この日の歩数計は、午後の半日だけで21,825歩にもなりました。


1018(日)
国立療養所多磨全生園(東村山市)
 2年前に訪れた鹿児島県鹿屋市の星塚敬愛園に続いて、今回訪れた多磨全生園では入所者の高齢化や施設の老朽化が進んでいます。「国立ハンセン病資料館」 内の諸展示を拝見。

 国策として長年、社会から隔絶された人々の療養所でのありのままの姿や、療養所の中の患者がいかに過酷な状況下で生活していたのか、またそのような状況にあってなお、生きる意味を求め、また生き抜いてきた患者・回復者の姿を見て、ハンセン病の歴史の一端を見る思いがしました。

東京大空襲・戦災資料センター(江東区)
 このセンターにも毎年2月に訪れており、そのたびに新しい情報を得ております。今回は入館時間に合わせて米軍制作の映画 「東京大空襲」 の上映があり、作戦指導者カーチス・E・ルメイ将軍の作戦認識と彼のコメントを伝えていました。

シネマライズ(渋谷区)
 近年、各劇場とも大型スクリーンやスタジアムスタイルの座席配備、音響・駐車場の充実、ショップの品揃えなど、かつての映画館とはかなり様変わりしていますが、20161月を以ってまたひとつ、古い常設映画館が店じまいします。渋谷にあるその 「シネマライズ」 19時から上映の 「ヒトラー暗殺 13分の誤算」 を観ました。


1019(月)
従兄との初対面(神奈川県鎌倉市)
 私とは全く面識のない5歳違いの従兄と初めて面会。
 3ヶ月前、私のオンボロパソコンに隠れていた資料の中に、偶々、18年前、当時の小渕総理を団長とする 「ロシア・中央アジア対話ミッション」 としての訪ロ経済使節団名簿があり、一行の中に従兄の名前を発見!!。それまで長年に亘る消息不明・音信不通の中、半信半疑で先方へ便りを出したところ、存命を確認しお互いがビックリ!!。

 その後、時空を超えて会いたい思いが募り、私がどうにか元気な今のうちにと今回の初対面に。私などとは比べ物にならない彼は、外語大のロシア語科を出て、約50年に亘りエキスパートとして、その先端の貿易業界で対ロシア・中央アジア圏域の貿易に携わり、その後、20数年間ロシアに居住。帰国後は二度の大病を患いその後遺症に悩みながらも、辛うじて80歳の余生を送っています。

 一生、会うことも叶わぬはずの従兄との偶然の出会いに、戦後70年を思う時、何かが一瞬のうちに押し寄せて、直ぐに浜辺の波のように去っていく思いがします。



 (管理人より)

宮崎のフルトン男声合唱団歌っている荒川滋さんは、高齢にもかかわらず活動的で疲れを知りません。いっぽうで、言葉を選びながら遠慮がちに話す温厚な紳士でもあります。そんな荒川さんから、一人旅で都内を散策したときのレポートが届けられました。

 




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荒川 滋   20151113